■わたしたちの姿
モーセ誕生の物語は、旧約聖書の中でも最も親しまれている物語の一つとして、多くの人々の心を惹きつけてきました。
「プリンス・オブ・エジプト」というディズニーのアニメーション映画をご覧になったことがあるでしょうか。ミュージカル仕立てのその物語には、三つのクライマックスがありました。一つは、さきほどお読みいただいたモーセ誕生の物語。二つ目は、成長したモーセが燃える柴の中から語りかける神様に招かれ、自らの使命を示される場面。そして最後のクライマックスは、モーセがエジプトを脱出したヘブライ人―イスラエルの民を導き、二つに割れた海の中を渡る壮大なスケールの場面です。
今日の御言葉は、その第一のクライマックス。直前に「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」とある1章22節からお読みいただいた方がよかったかもしれません。一人のヘブライ人の男の子の誕生と、その幼な子がいのちを奪おうとする王ファラオの娘によって救い出され、王家の一員として育てられることになる、その経緯を物語る場面です。密かな企(くわだ)てあり、サスペンスあり、思いがけぬ幸運あり…。およそ、物語としてのすべての要素がこの短い場面の中に含まれている、と言ってもよいほどです。しかしこれは、ハッピーエンドで終わる、単なるヒーロー誕生の物語ではありません。この物語の基調となっているは、むしろ、冷酷で残虐なわたしたち人間の「現実」—わたしたちの「姿」のです。
モーセ誕生の前史に当たるヘブライ人たちの状況が、さきほどの第1章に描かれています。エジプトの王ファラオは、地に満ち、増える続ける奴隷、ヘブライ人たちに不気味な圧力と脅威を感じ、彼らを抑圧するために過酷な重労働を加えました。ところが、この試みは何の効果ももたらさず、ヘブライ人は減るどころか、益々増えるばかりです。ファラオはやむなく、出産に立ち会う助産婦たちに、生まれてくるヘブライ人の男の子すべてを密かに殺害するように、という残虐で陰湿な命令を出します。しかし、いのちの誕生を喜びこそすれ、その小さないのちが奪われることをよしとしない彼女たちは、王には適当に答えつつ、その命令を無視し続けました。
二度にわたる命令にもかかわらず、ヘブライ人たちに対する弾圧・抑圧政策が思うような成果を上げないばかりか、逆に益々地に満ち増え続けることに苛立ちと恐れさえ感じ始めたファラオは、もはや秘密裡にではなく、あからさまに、エジプトに住むすべての人に向けて「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ」と命じます。
猜疑心が猜疑心を生み、恐れがさらなる恐れを生む。そして暴力がより凄惨な暴力を生みだしていく。ウクライナやイエメン、アフガニスタンやミャンマーでは、2021年から2022年にかけて一万人以上のいのちが奪われています。そうした戦争や地域紛争ばかりではなく、身近な地域社会、職場や学校の中でも、あるいは恋人同士や夫婦の間でも、親子の間にさえ、わたしたちがしばしば目にすることのできる「暴力」「暴力の連鎖」が後を絶ちません。それは、暴力によって相手を支配し、目先の問題を解決してしまおうとする、暗く愚かな、しかし否定することのできない、わたしたち人間の姿です。
■いのちの美しさ
イスラエルたるヘブライ人が滅亡の危機にあるそのとき、何の力も持たない一人の赤ん坊のいのちが、そんな圧倒的な暴力の脅威の前に晒(さら)されます。1節から2節、
「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」
モーセは死すべき運命を背負って生れて来ました。しかし、そのような運命から幼な子を救ったのは母親でした。モーセが生れた時、彼女は「その子がかわいかったのを見て」と書かれています。この「かわいい」という言葉は、創世記冒頭に記される、造られたもの一つひとつを「神はこれを見て、良しとされた」とある、あの「良し」と同じ言葉です。喜ばしい、美しい、ふさわしいとも訳すことのできる言葉です。
ただ単に、自分の子どもを「かわいい」と思った、というのではありません。彼女は今、我が子の中に、神様の目に適(かな)う、かけがえのなさを見いだしています。いのちの危機に直面している、儚(はかな)いいのちを宿命づけられた子どもの中に、いいえ、だからこそと言うべきかもしれません、その幼な子の中に、神様から与えられた、かけがえのない「いのちというものの美しさ」を見出しています。
モーセの母親が「この子は神によって特別に選ばれた子どもである」とか、「神様のために、将来何か大きな働きをする子どもである」と考えたというのではありません。彼女には、モーセをかくまうことのできるほどの政治的な力も経済的な富もありません。我が子がたとえどのような子どもであろうとも、そして自分たちにどれほどの危険が及ぼうとも、このいのちは神様から与えられたかけがえのないもの。彼女はただそのことに気づかされ、我が子を守ろうとしています。神の創造の御業への確信がモーセのいのちを救った、そう言ってよいでしょう。
■いのちへの憐み
とはいえ、生れたばかりの赤ん坊を人の目に触れず、隠しながら育てることは容易なことではありません。
人の寝静まった夜中でも、赤ん坊は構わずに泣き出します。赤ん坊にとって、泣くことは生きるための欠くことのできない本能です。癇(かん)に障(さわ)る声で泣いて、わたしたちの注意を促そうとします。おとなしく泣いたのでは、誰も守ってくれません。わたしたちが、子どもが泣いてうるさい、と感じることは自然なことです。それを避けたり、邪魔に感じたり、無理に黙らせようとしてはいけません。弱く、小さな者の切実な叫びはいつも、そのようなものなのかもしれません。居たたまれないほど心に突き刺さるその泣き声は、子どもからの、また小さく、弱くされている者からの、虐げられている者からの、いのちの危機に晒されている者からの、切実なメッセージです。
それでもどうにかこうにか、三か月の間はモーセを隠しておくことができました。しかしモーセの家族にも、それ以上は隠し通すことができません。母親は、ファラオの命令通り、幼な子モーセをナイル川に流さざるを得ませんでした。しかし、諦めと絶望から流そうとするのではありません。3節から5節です。
彼女はまず、パピルス製の籠(かご)を手に入れます。それにコールタールと松脂のような樹脂を塗り、幼な子を水から守ることのできる、いわば小舟を作ります。この「籠」も、創世記に出てくる言葉です。神様がノアに「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい」と命じられた(6:14)、あの「箱舟」と同じ言葉です。絶望の中で自暴自棄になって、ナイルの川に投げ込んだのではありません。ノアたちを洪水から守られた神様の働きを祈り願いつつ、その籠をナイル川の波間に流すのではなく、岸の葦の茂みの中にそっと置きました。
姉のミリヤムも、モーセに何が起るのかを、籠から遠く離れて立ち、不安に怯(おび)えながら祈りつつ、じっと見つめ続けていました。
神様は、母と姉の張り裂けんばかりの悲しみとその祈りに応えられました。そこに、ファラオの娘が水浴びのために下りて来ます。危機は一旦回避されたかのようにも思われますが、ファラオの娘が果たしてその幼な子にどのような反応を示すのか。むしろ不安と緊張はさらに高まります。水浴びをしに来た娘は、「生まれた男の子はすべて殺せ」と命じた当人、王ファラオの娘です。その娘が父親の命令に忠実であることは十分に考えられることです。もしかしたら、子ども嫌いかもしれません。ヘブライ人を嫌っていたら、モーセはナイルの川の中にそのいのちを沈められることになります。姉のミリヤムは、かたずをのんで見守っていました。 Continue reading →