■手紙
今日からしばらく、使徒パウロによって書かれたコリントの信徒への第一の手紙をご一緒に読み、そこに語られている福音に共に耳を澄ませてみたいと願っています。今の時代を生きるクリスチャンとしてのわたしたちに、この手紙は何を語りかけてくれるのでしょうか。
コリントの教会の礎(いしずえ)を築いたパウロがその地を去った後、教会にはいろいろな問題が生じていました。パウロは、そのことを伝え聞いて心配もし、また教会から寄せられたいくつかの具体的な問題についての問い合わせに答えようと、この手紙を書きました。当然、ここに書かれていることは、コリントの教会にそのとき起っていた問題をどのように考え、どう解決していったらよいのかという、とても具体的で個別的な事柄です。パウロがこの手紙を書いているとき、これが二千年近くのときを経て、遠く日本という国で多くの人に読まれることになるなど、思いもしていなかったでしょう。もちろん個人から個人への全くプライベートな手紙と言うのではありませんが、これは紛れもなくパウロ個人の手紙です。
わたしたちも手紙のやり取りをします。親しい人からの、ときにはよく知らなかった人から思いがけない手紙を受け取ることもあります。いずれであれ、自分に宛てられた手紙はどれもがとても大切です。教会にも、毎日のように郵便物が送られてきます。それを受け取り、整理するのも牧師の仕事のひとつですが、なかにはごみ箱直通の郵便物もあります。その量も少なくありません。お互いがごみを作り出し、送り合っているのではないかと感じるほどです。それでも、毎日、郵便配達のバイクの音が聞こえると、ポストの方に駆け寄ります。郵便物を受け取り、その一つひとつに目を通します。そしてそれが分厚いダイレクトメールや大量印刷された無機質な挨拶状ではなく、わたしだけに向けられた私信であれば、嬉しく、心が温かくなります。それに何度も目を通した後、手紙箱に入れます。年が経っても捨てることができず、手紙箱は増えるばかりです。そのように、手紙の言葉というものは、その時その場所で、特定の人に対してだけ意味を持つ、特別なものなのだろうと思います。
この手紙を書いたとき、パウロもまた、手紙を受け取るコリントの教会の一人ひとりの顔を、それぞれの生活向きを思い浮かべながら、特別な思いを込めて書いたに違いありません。そして、受け取ったコリントの人々もまた、あまり他人には読まれたくない手紙、自分たちの間ではもうわかっている問題へのパウロの言葉ですから、恥ずかしい思いをしても仕方のない手紙、でもやはり他の人にはできれば知られたくないことが書いてある手紙、そんな思いで読んでいたかもしれません。パウロから送られたこの手紙は、コリントの人々にとって、具体的な問題に対する応答の中に、深い親愛の情と共に、とても大切な信仰の事柄とが浮き彫りにされている、そんなかけがえのない手紙であったに違いありません。
■神に召されて
今日は、この手紙の書き出しのところ、1章1節から3節をお読みいただきました。ここは、1節ずつ三つに区切ることができます。1節には手紙の差出人、2節には宛先、3節には挨拶が記されています。こうした書き出しは当時の手紙のごく一般的な形です。しかし、ただ差出人、宛先、挨拶を記すだけなら、「パウロから、コリントの人々へ、恵みと平和があるように」と言うだけでよかったはずです。ところがパウロは、今ここにいろいろな言葉を書き加えています。とすれば、書き加えられているこれらの言葉に、パウロがこの手紙に込めた大切な思いが示されているに違いありません。
まずは1節、差出人を語る所です。
「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ…から」
原文の語順は、「パウロ、召されてキリスト・イエスの使徒となった、神の御心によって」です。まず自分の名前を、次にその自分とは何者であるかを記しています。そこで彼が真っ先に書くのは、「召された」ということです。
召されるとは、呼ばれるということです。自分が誰かに名を呼ばれ、招かれ、召されるということは、とても喜ばしく、とても大切なことです。自分が存在する価値がそこで確認されるからです。
そしてパウロは、自分が名前を呼ばれて呼び出された、それは使命を与えられるためだ、と続けます。その使命が「キリスト・イエスの使徒」です。「使徒」とは「遣わされた者」という意味で、キリスト・イエスの福音を宣べ伝えるよう遣わされた者である、ということです。しかも、その使命へと彼が召されたのは「神の御心によって」であったと言います。この手紙の冒頭1節でパウロは、わたしは自分の思いによってではなく、神の御心によって、キリスト・イエスの使徒としての使命に召されたのだ、ということを強調します。
ユダヤ教ファリサイ派のエリートであった彼は、十字架につけられたイエスをキリスト、つまり救い主と信じるような教えは神を冒涜するものだとして、これを激しく憎み、キリストの信者たちを徹底的に迫害していました。その彼が、迫害の手をさらに広げるためにダマスコへ向かうその途上、復活されたイエス・キリストと出会います。キリストは、パウロを全世界にわたしの名を宣べ伝える器として立てる、と宣言されました。この出会いによって、彼は180度の方向転換をし、迫害する者から信じる者へ、さらに伝道する者へと変えられたのでした。
この回心、方向転換は、パウロが長年真理を追い求めてきた、その結果というのではありません。イエス・キリストの教えとはどのようなものかと興味を持って学んだ、その結果、信仰が与えられたということでもありません。彼が信じる者となり、伝道する者となったのは、彼自身の思いでは全くなく、ただ神様の驚くべき御業によること、まさに奇跡でした。パウロにとって、それはただ「神に召された」としか言いようのないことでした。
そのように、神の御心によって召されて使徒となったパウロがこの手紙を書き送る、そのことを彼はこの手紙の冒頭で、力を込めて語っています。それは、ちょうど親しい友人が問題を抱え、悩んでいるときに、何とかして助けになりたいと願って、心を砕いて用意した言葉を伝えるときに、「あなたの友人として申し上げたいことがある」と改まった言い方をするときに似ているかもしれません。「そうでないと、これから語ろうとしているわたしの言葉は理解できなかったり、受け止めることができなかったりする」。そんな思いを込めて、わたしが語る言葉は、神の御心によって召されたキリスト・イエスの使徒としての言葉です、キリスト・イエスから預かった言葉なのです、今ここに神の御心が働いているのです、だからどうか、しっかり聞いてください。パウロはコリントの人々に、今ここにいるわたしたちにそう語りかけているのです。
■神の教会
このパウロの思いは、2節の宛先を語る部分へもつながっていきます。2節は「コリントの教会の人々へ」ということですが、そこにもいろいろな言葉がつけ加えられ、パウロの深い思いが込められています。
「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」
ここも原文の語順を生かして訳すならば、「コリントにある神の教会、キリスト・イエスによって聖なる者とされ、召されて聖なる者とされた」となります。「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」という最初の言葉は、原文では2節の最後に置かれています。
ここでパウロは、1節に重なるような仕方で、コリントの教会とはどのような教会なのかを語っています。 Continue reading