■裏切りの只中に
冒頭47節に「イエスがまだ話しておられると」とあります。今日の出来事は直前、ゲッセマネの祈りの場面の続きです。
その45節から46節に「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」とあります。イエスさまが祈られ、弟子たちが眠り込んでしまっている間に、イエスさまを捕えようとする人々が迫って来ました。彼らがいよいよ近づいて来たそのとき、イエスさまは弟子たちを起し、「眠っている時、休んでいる時はもう終わりだ。時が来た」と言われます。その時とは「人の子が罪人たちの手に引き渡される」時です。イエスさまは父なる神のみ心に従って、その苦しみを引き受ける決意を固め、「立て、行こう」と、ご自分からその苦しみの時へと歩み出そうとしておられます。
その苦しみをもたらす者たちの先頭に立っていたのは、イエスさまを裏切ったユダでした。裏切ったユダのことを、福音書は「十二人の一人であるユダ」と記します。これを語順通りに訳せば、「ユダ、十二人の一人」です。ヨハネによる福音書にも、「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしている」(6:70-71)と記されているように、イエスさまを裏切った者は、第三者でも敵でもなく、イエスさまが選ばれた弟子たちの中に、イエスさまが愛された者たちの中にいたのだ、ということです。
これこそ、わたしたち人間の現実です。人と人が共に生きることの難しさが、ここにあります。どんなに親しい間柄であっても、自分も相手も共に、エゴ―自分中心性—ゆえに、この裏切る者としての悪魔性を持っているからです。誰も自分では自覚していない、この悪魔的な性格を克服できない限り、人間の世界に平安は、平和はありません。しかもわたしたちには、自分でこれを克服することができません。
今、そんなわたしたちの裏切りの只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。
■赦しのために罪の只中に
46節に、「立て、行こう、見よ、わたしを裏切る者がくる」とあったように、イエスさまは、ユダが自分を裏切る者であることを充分に承知しながらも、彼を口汚く罵ったり、批判したり、攻撃したり、その果てに捨ててしまったり…そんなことはなさいません。わたしたちなら、自分に危機が及びそうだと少しでも感じれば、何よりもそれを避けようとするでしょう。しかし、イエスさまはご自分から立って、「近寄」って来る、ユダのもとに行かれたのでした。今まさに時が満ちたのだ、そう痛感させられます。
他の人と共に生きることが難しいという、わたしたち人間の罪の現実を克服するのは、この御子イエスによってのみ可能となることです。イエスさまは、まさにこのために、イスカリオテのユダと共にあって、人間の罪の赦しのために、十字架への道を歩み始めておられるのです。
今、わたしたちの赦しのために罪の只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。
■それと気づかぬ裏切りの只中に
前の節では「十二人の一人」と言われていましたが、48節では、「イエスを裏切ろうとしていたユダ」となっています。ユダはここではもう、イエスさまの弟子の一人というよりも、裏切る者になり切っています。その目的を果たすための方法が、接吻でした。愛と尊敬と交わりのしるしである接吻が、今ここでは、売り渡す相手を示す合図に用いられています。
ここで少し違和感を覚えます。もっと別の方法で目的を果たすこともできたのではないでしょうか。たとえば、ユダ自身は物陰に隠れていて、イエスさまを指差すこともできたはずです。しかし、接吻が合図に選ばれたことに、ユダの本質が明らかになります。
ユダは「先生」と言って、接吻しました。自分が裏切る者であることを誰にも知られず、またイエスさまに対する尊敬と交わりを失うことなく、裏切りを達成しようとしたのです。いつになく激しい接吻でした。イエスさまをしっかりと抱き締めて放さなかった、とも言えるでしょう。「捕まえて、逃さないように連れて行け」という言葉を態度で表わしています。
裏切るという行為は、特別なことをすることではなく、本人でさえ心が痛まずに、自分が裏切っていることすら忘れてしまうほどに、日常の平凡な行為として行われます。わたしたちの周囲にある大小の裏切りも、このような「日常的なもの」の陰に隠れて、その目的を果たすのです。であればこそ、それは相手の望みを打ち砕くほどに、大きな力を持ちます。
今、わたしたち自身がそれと気づかぬ裏切りの只中にこそ、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。
■絶望の只中に
イエスさまは難なく捕えられてしまいました。この世では力の強い者が何でも自分の思う通りに物事を果たそうとしますが、ここでも力のある者が勝利しているように見えます。正義や道理がどうであれ、結局は正しい者ではなく、強い者が勝つのだという、諦めに似た思いを覚えさせられます。
しかし、54節に「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」とあり、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」と56節に記されているように、今ここに、力のある者が勝利したのではなく、聖書の言葉が、神のみ旨がなされたのだ、ということを知ることが大切です。
見える面だけを見れば、どう見たとしても、イエスさまの方が敗北者です。神の勝利を見出すためには、信仰の眼で、真理を見抜く眼で、物事を見る必要があります。彼らの勝利がどんなに華々しいものであったとしても、また踊り出したくなるような嬉しい出来事であったとしても、それは一時的なものであって、やがて過ぎ去るものでしかありません。