福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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4月19日 ≪復活節第二主日礼拝≫ 『灰色を生きる』 マタイによる福音書7章1~6節 沖村 裕史 牧師

4月19日 ≪復活節第二主日礼拝≫ 『灰色を生きる』 マタイによる福音書7章1~6節 沖村 裕史 牧師

黙 祷
讃美歌 11
招 詞 ローマの信徒への手紙5章1~5節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 36篇1~13節
讃美歌 324
祈祷 ≪各自でお祈りください≫
聖書 マタイによる福音書7章1~6節
讃美歌 449
説教「灰色を生きる」
祈 祷
献金 65-2
主の祈り 93-5A
讃美歌 526
黙祷

≪説教≫「灰色を生きる」

■神の国と神の義を求めなさい

もともとの聖書は文字が続けて書かれていただけのもので、章や節はもちろんのこと、段落の区切りや段落ごとの小見出しなどは一切ありません。そこで、わたしたちが聖書を読む時は、できる限り前後を通して読んだ上で、その意味を辿って行くことが大切です。今朝の7章1節以下も、直前6章25節以下の「思い悩むな」というイエスの言葉の続きとして読まなければなりません。

天の父なる神と富マモンの神、その両方に仕えることはできない。それなのにあなたは自分に都合よく二つの者に仕えようとしている。だからあなたは日々思い悩むのだ。ほら、空の鳥、野の花を見てごらん、とイエスは指差されます。

わたしたちが思い悩むのは、自分の力―金―で解決することができるという思いが強く、神にすべてを委ね切れず、信頼し切れずにいるからです。もし、限りある自分の力で自分を支えようとすれば、支え切れず倒れるだけです。もし、自分の力で飛ぼうとすれば、疲れ切ってしまうだけです。だから、日々の思い煩いに疲れ切り、自分の限界を思い知ったそのときに、空の鳥、野の草を見てごらん、とイエスは言われます。大空のように広く大きな神が、限りない愛をもって見つめ、支え、養ってくださることがわかるだろう、と言われます。

わたしたちの生きていることの意味と根拠は、自分にではなく神にある。その神の愛ゆえに、わたしは今ここに生かされ生きている。そう気づかされたとき初めて、神への信頼が生まれる、信仰が与えられるのでしょう。そしてそれこそが、神の義と神の国を求める者の姿なのだということです。神の義、神の国とは、神の愛が今もここに注がれている、貫かれているということです。その愛はわたしだけでなく、わたしが快く思っていない人、嫌い憎んでいる人にも注がれています。天の父は、わたしのちっぽけな愛や義とは比べようもなく、限りなく溢れる愛の方であり、真実な義のお方だからです。だから思い悩むな、神の国と神の義を求めなさい、と諭されるのです。

そして今、すべての人に注がれる神の愛、神の義を教えるこの言葉に続いて、冒頭1節の「人を裁くな」という言葉が語られます。裁きも他人ごとではない、わたしたちのことです。いつも人を裁いてばかりいます。いつも不平を言い、裁いて生きています。そこで、愛の教えと裁きの教えがひとつになります。神の義を、神に愛されていることを知らない人は、いつも人を裁いて生きている。あなたはどうか、イエスはそう問いかけられます。

■丸太に映る

「人を裁くな」。今朝のみ言葉はこの一句に尽きます。

ちなみに「裁く」と訳されているギリシア語クリノォーには、実に多様な意味があり、新共同訳聖書でも17通りもの翻訳がなされています。「裁くな」というこの言葉は、その数ある訳し方の一つに過ぎず、イエスの言葉をどう解釈するかによって、その訳も、またそこから読み取るべきニュアンスも様々に変わってきます。では、イエスがここで言われる「裁くな」とは、どういうものだったのか。3節から4節にある、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」という、イエスの用いられたこの小さな譬えが、「人を裁くな」という、かなり幅のある言葉の意図するところを、わたしたちに伝えています。

恩師山内一郎の師であり、前任地塚口教会で長く牧会に当たった新約学者の松木治三郎が、この言葉を読み解く上で、非常に示唆に富む一文を記しています。『人間Ⅱ―その罪と信仰をめぐって』に収められた「罪と愛―ひとの悪人像を刻まない」と題されたものです。

「自分の受けた被害や人の悪を一つ二つと数え上げていき、自分の胸にたたみこんでいく。そうなればひとつの立派な悪人像ができあがる。そこではもはや自分に対してだけではなく、その人自体、悪人である、と断定される。しかしそこで立ち止まって考えてみなければならない。すなわちその悪人像は、いつも必ず、そのひとの実存であると限らない。いやむしろそれは、そのひとの実存からかけ離れているところがあり、それだけ実は自分の主観が働いているのである。それは、たしかにそのひとの言ったり行ったりもくろんだりした悪の事実にもとづいているであろう。自分の辛い、ゆるしがたい経験で確かめられているだろう。しかしそれは、事実その人と自分との合作に他ならない。しかもその背後には、自分の見る目と洞察とを信頼し、人を悪人と断定する、知恵や資格や権利があるというひそかな、おもいあがった考えがはたらいている」(66P.)。

松木はさらに、ヨブ記に登場する悪魔を引き合いに出します。

「すなわちここで悪魔は、人間のあら探し、欠点や利己心、罪や不(敬)虔を告発する検察官である。…神の愛し信頼するヨブのうちにも、神への不逞の意志といやしく醜悪なエゴイズムとをみつけて告発するのである。私たち人間が、あいての欠けをかぞえ、その悪をそろえてさげすみ、ひとりの悪人をこしらえて、自分はそのような悪人ではない、正しい義人である、とうぬぼれる。それは、まったく悪魔的なのである」(77-78P.)。

わたしたち人間には、他人の一つ、二つの間違った言動、あるいは自分の気に入らない言動から、その人全体を判断し、立派な悪人像を作り上げて、蔑み、また自惚れる、そういう悪魔的な性格が潜んでいます。一つの事柄をもって、その人の立派な悪人像を作り上げること、一つの些細な事柄をもって、その人の全人格を否定するようなことを、わたしたちはしてしまいかねないのです。いえ実際、家庭や教会、その他あらゆる場所での自らの言動を振り返ってみるとき、そういうことがいかに多いことでしょう。人との交わりを断ち、切り捨て、本当に分かり合い、諭し合いながら、共に生きていくことを、どれほど自ら放棄してしまっていることでしょうか。

とすれば、今ここでイエスが言われていることは、自分の大きな罪を棚上げにして相手の小さな罪を裁いてはならないという単なる倫理的な勧めではなく、また人間関係を円滑なものにするための処世訓でもない、もっと別なこと―相手の目にあるのはおがくずでしかないのに、それがわたしの目に丸太と映ってしまうということ、そのことの問題性なのではないでしょうか。相手の中にある一粒のおがくずから、勝手に自分の方で丸太を想像し、作り上げてしまう。クリノォーというギリシア語がもともと持っていた意味、人と自分とを「分離」、「分け隔て」して、自分にとって実に都合よく「評価」するために、人に対して、丸太のような大きな悪人像を作り上げてしまう人間の罪。そのことの自覚を促す言葉として、イエスはこの譬えを語っておられるのでしょう。

■はっきりと見えない

相手の目の中のおが屑が、自分の目の中で丸太として映ってしまう。それをイエスの言葉によって言い換えれば、隣人が、自分が「はっきり見えるようになって」(5節)いない、ということです。人の目に「丸太」があるのです。「丸太」は口語訳では「梁」と訳されていました。丸太であれ梁であれ、目の中に入るはずもありません。つまりその人の目が塞がれていて、何も見えていない、ということです。「わたしにはあなたの目の中のおが屑が見える」と言っているけれども、実は、その人の目は丸太で塞がれてしまっていて、何も見えてはいないのです。

これも日々体験することです。重箱の隅を楊枝で突くように、人のことをあれこれ批判している人が実は、肝心なことを何も分かっていない、見るべきものが全く見えていない、ということはよくあることです。あの人がそうだ、この人がそうだというのではなく、自分自身がそうなっていないか、いつも振り返って見なければなりません。なぜなら、人が「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言うのは、自分はよく見えていると思っているからです。しかし人の目は、大きな丸太で塞がれています。自分は目が見えていて、人のことを批判することができる、あの人を罪人として断罪することができると思っている時こそ、わたしたちはよくよく気をつけなければなりません。

では、本当の意味で目が見えている、見えるようになるとは、どういうことなのでしょうか。それこそ、この山上の説教の中で繰り返し言われてきたこと、愚かで罪深いわたしたちすべてが大いなる神の愛の御手に抱かれていることをしっかりと見つめることです。その神の愛にすべてを委ねることです。

人を裁くとは、裁く目で人を見ることです。人を罪人だと決める、それはまさに人を罪人として批判し、断罪するような目で見ることで、実は自分を誇ることです。そういう目で見ているから、相手が罪人に見えてくるのです。それとは逆に、このわたしたちが神によって愛され、罪赦された者として、罪を赦す、寛容な、情け深い目で互いを見つめることです。「赦します」と口では言いながら、目は赦していない、そう言うことがあります。本当に相手を赦す時、相手を見るわたしたちの目は、厳しい断罪する目から、相手を受け入れる、柔らかなまなざしへと変わっていくものです。

■灰色を生きる

そんなまなざしによって、自分と人を見ようとする時、いつも思い出す一文があります。関西学院の先輩、藤木正三の言葉です。

「人の心を土足でふみにじるなと、といわれます。たしかに、思いやりのない表面的な批判は、お互い慎まねばなりません。しかし、もしそういう批判を受けたなら、それに抗議するよりは、それはそれとして聞いて、自分を顧みる機会とするのが本当だと思います。土足をなじることが、逆に相手を土足でふみにじることになる場合もありますし、自己弁護になることだってあるのです。それに、土足ででも介入されない限り、なかなか目覚めないのが、お互いではありませんか。それはそれとして聞く、それが人間の成熟と言う者であります」(強調点、沖村)。

「お互い」という言葉が繰り返されます。そうお互い様なのです。それが「灰色を生きる」ということです。藤木の文章からもう一つ。

「誠実、無欲、色でいえば真っ白な人、不実、貪欲、色でいえば真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまでありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分けは一人の人間においても一定ではなく、白と黒の間をゆれ動いているのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いて者同志の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう」(強調点、沖村)。

イエスは、人の罪など一切問題にするな、どんなことでも赦せ、と言っておられるわけではありません。地上を生きるわたしたちの歩みには、やはり問題にしなければならない罪があり、正されなければならないことがあります。しかしそれを、人の粗探しをして断罪するようなことによってではなく、イエスによる赦しの恵みによって生かされている者として互いを見つめつつ、互いに諭し合い、互いに悔い改めながら、互いに赦し合いながら歩んでいくことをこそ、イエスは求めておられるのです。

そのためには、わたしたちの目を繰り返し塞いでしまう丸太を、イエスが取り除いてくださり、本当に見えるようにしてくださることを、いつも祈り求めていきたいものです。

お祈りします。

 愛と恵みの主よ、御子イエスが語りかけてくださる今朝のみ言葉を、裁きの言葉ではなく、愛の言葉としてはっきりと聴きとることができますように。互いが、あなたに愛され、赦されるいのちを生きる者であることをしっかりと見つめ合いつつ、不安と恐れの中にあっても、感謝と希望をもって歩ませてくださいますように。主の御名によって。アーメン