福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★2月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『わたしたちは神様のもの』ローマの信徒への手紙14章1~9節 沖村裕史 牧師

★2月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『わたしたちは神様のもの』ローマの信徒への手紙14章1~9節 沖村裕史 牧師

■軽蔑

 パウロは今、具体的で、日常的な生活の問題を通して、わたしたちに語りかけます。その問題とは何か。3節です。

 「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない」

 この世の中には、生き方が違い、考え方が違う人がいます。当然のことです。ところが、そうすると、どうしても自分と考えの違う人を「軽蔑し」「軽んじて」しまいます。「軽蔑する」「軽んずる」とは、相手を重く見ないということですが、もともとのギリシア語の意味は、ただ相手を重く見ないだけではなく、存在を認めないという、もっと強い「拒絶」を意味する言葉です。そこにその人がいるのに、いないことにしてしまう、というほどの意味です。

 謙虚に、心の内にある自分自身の姿を振り返ってみると、意識してか無意識かは別にして、自分の気にいらない人を、その人はいないことにするという形で解決をしてしまっていることにハタと気づかされることはないでしょうか。そのような解決方法が、実は何の解決にもならないばかりか、自分自身のあり方をひどく歪(ゆが)めていることに愕然(がくぜん)とされることはないでしょうか。わたしたちは、人と人との関係を生きるほかない存在です。ですから、相手の存在を心の中で打ち消そうとすることは、わたし自身の存在そのものをも否定しようとすることです。仮にそうせざるを得ないとすれば、それは、とても深刻で悲しいことです。

 にもかかわらず、その時々に、その人がそこにいることが邪魔になります。しかもここでは、食べる者が食べない者を軽んずるだけでなく、食べない者も食べる者を裁いています。「裁く」ということは、「軽んずる」よりももっとはっきりと意識して、相手の罪を問い、罪ある者として非難し、罰しようとする、頑なな心です。

 

■裁く

 わたしたちは、互いを「拒絶」し、「断罪」し、疎外し合うような、頑な心を、どのように克服することができるのでしょうか。4節、

 「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」

 裁くことは決してよくないとわたしたちも知っています。なぜいけないのか。相手の人権を重んじなければならない、自由を奪ってはならないと言われるかもしれません。けれども、あなたの裁いている人、その人は他人の召使い、他人の僕(しもべ)ですよ、という言い方をするでしょうか。「あなたが裁いているのは」あなたの家の者ですか、他人の家の者ではないのですか、あなたにその人を裁く権限があるのですか。

 この「他人」という言葉は、言うまでもなく、わたしたち以外の人のことです。わたしたちは、誰のものでもなく、主のもの、神様のものなのだ、とパウロは言います。人はすべて、主のもの、神様のもの―これが人間の尊厳の根拠です。人のいのちは神様から与えられ、イエス・キリストによってかけがえのないものとして贖われたものです。それを人が裁いたり、軽んじたり、差別したり、支配したりすることは赦されません。「誰にも」赦されることではないのです。

 

■しかし立ちます

 ですから、主人である神様が引き立ててくれればその人は立つし、打ち倒されたらその人はもうどうしようもなくなる、そう言った後でパウロはすぐにこう言います。

 「しかし、召し使いは立ちます」

 確かに、わたしたちは倒れることもあるのですが、しかし、倒れても、立たしてくださるのは、神様である主人のなさることです。主は、わたしたちを立たせてくださることができるのです。僕、召し使いであるわたしたちを鞭(むち)でひっぱたいておいて、死ぬほどまで苦しめておいて、わたしはお前の主人だぞというのではなく、過ちと罪のために倒れている僕を、わたしを立たされるのです。そういう主がわたしたちと共におられ、今、わたしたちすべてを立たせてくださっている、というのです。

 そういう主がおられるのです。

 

■悲しみや苦しみ

 生きていく中で、言葉では言い尽くせぬほどの困難や悲しい出来事に出会うことがあります。そのような困難や悲しみをわたしたちが、そのままに受け入れることができればよいのですが、過去を振り返り、今を見据(みす)える時、そうした出来事の多くが如何(いか)にも理不尽に思えます。それでも、その困難を乗り越えなければなりません。そうしなければ生きていくことさえできません。

 わたしたちは、泣いて諦めようとしたり、それと気づかないままに心の中に封をして忘れ去ろうとしたり、ときには誰かを責めることで自分の重荷を軽くしたり、もしかすると、すべてを神様のせいにしたりするかもしれません。また、そのような悲しみや苦しみは、一人では担(にな)えなくても、二人であればまだ担いやすいように思え、溺れる者が藁(わら)をも掴むように、誰かにすがりつこうとするかもしれません。確かに神様は、一人では重すぎる人生の重荷を、二人で担い合うようにと男と女を造られましたが、そのようにして結ばれたパートナーであっても、悲しみや苦しみが大きければ大きいほど、それを担う合うことは決して容易なことではありません。

 

■主のもの

 そんなわたしたちに、8節のみ言葉が心に深く沁みます。

 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」

 悲しみや苦しみを避けることのできないわたしたちの人生すべてが、わたしたちのいのちそのものが、神様のものだと言います。わたしたちが神様のものだからこそ、どれほどの悲しみや苦しみの只中にあっても、神様はわたしたちと共に生きて、いつもわたしたちの傍らにいてくださる。どんなときにも神様はわたしたちを丸ごと抱えてくださっているというこの確信は、どんな助けよりも心強く、わたしたちを勇気づけるものです。その信仰があれば、どれほどの困難にも、死という悲しみにも立ち向かっていくことができる、そう思えます。

 だから、わたしたちの人生を、そのような神様によって立たされ、生きている人間として、与えられているその愛にふさわしいものとしようではないか。パウロは今、心を込めて、わたしたちにそう語りかけています。

 

お祈りします。いのちの主よ、あなたの愛ゆえに、苦難の中にあっても、希望と喜びをもって立つことができます。どうぞ、あなたの愛に応えて、わたしたちが互いをかけがえのない者として受けいれ、仕え合うことができますよう、わたしたちを導き、支えてくださいますように。主の御名によって。アーメン