福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★4月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『1パーセントだけでも』ルカによる福音書9章18~27節 沖村裕史 牧師

★4月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『1パーセントだけでも』ルカによる福音書9章18~27節 沖村裕史 牧師

■分水嶺
 ペトロの信仰告白と続く山上の変貌は福音書の「分水嶺」である、と言われます。分水嶺。高い山、そしてその山の頂から水が右左に分かれて流れる場所です。広島にいた頃、年に四度、丸一日使って島根県の隠岐島にある教会を訪ねていました。その途中、岡山から米子に向かう中国山地の頂で、この分水嶺を目にします。列車に沿って流れている川の流れが全く逆向きになります。そこが分水嶺です。
 山登りが、若い人たち、特に若い女性の間でブームになっています。どうして人は山に登りたいと思うのか。「そこに山があるから」はよく知られた名文句ですが、わたしがそう思うのは、ただ山の向こうが見たいからです。中学校を卒業するまで、山々に囲まれた小さな盆地からほとんど出ることなく育ったわたしにとって、その思いは「山のあなたの空遠く」の歌に重なるものでした。あの山の向こう側に何があるのだろう。そんな憧れに似た思いを抱いていました。一生、あの向こう側を見ることなどないのではないか、そんな恐れを感じることさえありました。どうしても向こうを見たい。向こう側が見えれば、安心して、またここに戻って来ることができる。きっとあの向こうに何かがあるにちがいない。そう思っていました。
 小学校最後の夏休み、隣の町との境にある峠へと向かって歩き始めました。中ほどまでやって来て、振り返ったとき、暮らしている町を見渡すことができました。安らぎがこみ上げてきます。今まで自分がいた世界が広く、新しく感じられます。長い、長い山道を辿り、ようやく峠を登りつめて向こう側を見たとき、言葉にならない喜びが湧き上がりました。今まで自分に見えなかったものが見えるのです。もうしばらく下りて行けさえすれば、あそこに行き着く。その道が見えていました。
 今日の言葉が「分水嶺である」とは、ここで初めてイエスさまが、そこから先、どこに向かって坂道を下るように、まっすぐに進み行こうとしているのか、神の救いへのその道が見えるのだということでしょう。それはとりもなおさず、イエスさまとは誰かということがはっきりするということでもあります。

■だれにも言わないように
 イエスさまが弟子たちに、人々がわたしを誰だと言っているか、とお聞きになったそのすぐ後で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。
 ペトロは精一杯の思いを込めて答えます、「神からのメシアです」。
 原文は「メシア」ではなく「キリスト」です。また「神からの」ではなく「神の」です。シンプルに「神のキリストです」。イエスさま、あなたは「神のキリスト」、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」。ペトロはまっすぐにそう告白しました。
 この告白に続けて、イエスさまはこう告げられます。
 「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」
 イエスさまは今、わたしが「神のキリスト」であることを誰にも言ってはいけない、と言われます。その上で、ご自分のことを「神のキリスト」とは言わず、「人の子」とわざわざ言い換え、その「人の子は必ず多くの苦しみを受け…」と応じておられます。まるで、ペトロが「神のキリスト」「救い主なる神」と言ったそのことが言い過ぎ、間違いであるかのようです。しかし、そうではありません。イエスさまはただ、当時の人々が思い浮かべていたであろう「救い主キリスト」というその名を隠そうとされているのです。受難と、十字架と結びつかないキリスト告白を拒絶、否定しようとされているのです。
 そもそも、人の知恵で、神の御子であるイエスさまの正体を理解することなどできるのでしょうか。そうしようとするときにはきっと、そしていつも、わたしたちの中に誤解が生まれることでしょう。ペトロもまた同じです。その点から言えば、わたしたち人間は皆、分水嶺のこちら側にいるのです。向こう側が見えません。こちら側にいる人間が、あちら側にこんな道があるはずだ、この道を通って行ったら救いに至るはずだと言っているに過ぎません。あそこにイエスさまが立っておられる、あのイエスさまが指し示される道はこうだ、とみんなで見当をつけてみます。ところが、登ってイエスさまのところに近づけば近づくほど、全くの誤解であることに気づかされるのです。
 事実、「神のキリスト」という言葉は実に多くの誤解にとり囲まれていました。23章35節、十字架の場面にこんな言葉が記されています。
 「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシア〔神のキリスト〕で、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」
 ペトロが口にした「神のキリスト」という言葉がここにも出てきます。神のキリストとは、神の救いのみわざを果たす者であるはずではないか。実際に他人を救うことができた者なら、自分を救うことなど何でもないではないか。ところが救えない。「神のキリスト」と呼ばれ、救い主ぶってみても、自分のいのちさえ救えないのか、と嘲笑ったのです。
 「神のキリスト」と胸を張って告白したペトロの思いも、イエスさまを嘲った人々の思いと同じものだったのかもしれません。イエスさまの十字架、無残な死がはっきりと見えてきたとき、その告白の言葉は忽ちのうちに嘲笑の言葉に変わりました。期待と希望が深い失望と絶望に変わりました。分水嶺に立って見えていたもの、そこに立っておられるイエスさまが弟子たちのキリスト告白の中に見ておられたものは、そんな嘲笑と絶望だったのではないでしょうか。
 だからこそ、その告白の言葉を、今は誰にも言ってはならない、イエスさまはそう言われるのです。

■自分の十字架を背負って
 しかしそこでなお、イエスさまの言葉は続きます。
 「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うのである」
 この言葉を「皆に言われた」と記されています。弟子たちだけではなく、今ここでこれを読んでいる全ての人に、「この方は一体誰だろう」と呟かざるを得ないわたしたち全てに、イエスさまは語りかけてくださっています。イエスさまがわたしたちを見捨てられることはありませんでした。ご自分は見捨てられても、見捨てるわたしたちを見捨てられることなど決してないのです。
 イエスさまが今ここで言われていることは、たとえ疲れ果て、くずおれる他ないようなときにも、いえ、万策尽き、持てるものすべてが失われたそのときにこそ、神様はいのちの道を示し、まことの救いを与えてくださるのだ、と言われます。なぜなら、イエスさまが十字架について死んでくださったことこそが救いであり、そこにイエスさまがキリストであることの本当の意味があるからです。そのキリストの十字架に、すべてをお任せすればよい。すべてをお委ねするということは、自分の十字架を背負うことです。だから、あなたたちも背負いなさい、そう言われるのです。
 ペトロの第一の手紙2章21節以下に、十字架と復活を味わった後のペトロの言葉が記されています。
 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」
 わたしたちは癒されている、キリストの受けた傷によって癒されているのです。こんなことを言った人がいます。
 その傷は、わたしが付けたものです。わたしたちは十字架が誰か他の人の仕業だと思ってはいないでしょうか。もしそうならわたしたちは癒されません。観念的なことをお話しているのではありません。十字架を木で作って、釘を何本か用意し、ハンマーを手に持ってください。そしてそこにイエスさまがいると信じ、ペトロたちのように絶望と怒りを込めて釘を打つのです。人生への神への、怒りと復讐を込めて、イエスさまの手と足に釘を何本も打ち込むのです。きっと、悲鳴が聞こえてくるはずです。釘だらけの十字架に自分の罪が見えてきます。そのとき、いのちまで投げ出して、このわたしの愚かさを受け止めてくれる方に出会うはずです。涙で十字架が見えなくなるはずです、と。
 ペトロは、イエスさまが最も信頼していた弟子ですから、イエスさまのことを一番よく理解し、支えなければならないはずなのに、このとき「サタン、退け。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われた、とマタイやマルコに書かれています。しかし、そのペトロがイエスさまの十字架と、永遠のいのちへの復活という栄光の世界を知って、「神のことを思う」生涯を全うする者へと変えられました。
 わたしたち人間はペトロと同じく「人のことを思う」ようにできています。わたしも皆さんも99%、人のことを思っています。この世の考え、自分の考えに支配されています。それが人間ですから仕方がありません。けれども、1%、たった1%だけでも「神のこと」を思うとき、「人のこと」ではありえない、心からの安心が生まれることを知るべきです。今、この分水嶺に立ってイエスさまは、そういう永遠の世界にわたしたちを招いてくださっています。感謝。