福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★7月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『アッバ、父よ』ローマの信徒への手紙 8章15~17節 沖村裕史 牧師

★7月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『アッバ、父よ』ローマの信徒への手紙 8章15~17節 沖村裕史 牧師

■最初のひと言

 人がいのちを与えられて、最初に発するひと言は何でしょう。それは、だれもが同じ、「おぎゃ」という泣き声でしょう。その後(ご)、どんなにたくさんの立派なことをしゃべるようになっても、だれもが人生の最初をそんな泣き声で始めたはずです。

 いつしか大人になり、何でもできる気になっていますが、ときには、自分の人生最初の、そのひと時を想像してみるのもいいかもしれません。

 何もできず、何も言えず、何もわからず、まるでそうすることが生きることのすべてであるかのように泣くわたしたち。不安そうに見開いたその目は、何を求めていたのでしょう。その震える小さな手は、何をつかもうとしていたのでしょうか。

 言うまでもないことですが、そうして生まれて間もないわたしたちが、言葉にならない言葉を発するのは、それを聞き、それに応えてくれる存在がいるからです。生まれ出たら、そこには確かに生みの親がいて、泣けば、呼べば、たちどころにその要求を満たしてくれるとその本能で知っているからこそ、安心して泣き声を上げるのです。

 抱き上げられて、抱き締められて、天使のようにほほえむためにこそ、あの天地を揺るがすほどの声を上げる。わたしたち人間は、そうして泣くために、求めて呼ぶために生まれてきたのだ、と言えるのかもしれません。

 

■アッバ

 「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

 「アッバ」というアラム語もまた、如何にもという感じです。生まれて間もない赤ん坊が、少し物心がつき、やがて目の前にいる人に向かって、パッパッとか、ンマンマとか、アブアブと聞こえる音を発するようになります。それをそのまま表記しただけの言葉です。しかしそんな言葉によって、幼な子は親を求めるようになり、慕うようになり、信頼し切って呼ぶようになります。

 井上洋治という人が「私にとっての祈り」という一文の中に、こんなことを書いています。

 祈りとは、「アッバ、父よ」という言葉を口にすることだ。「アッバ、父よ」というのは、幼な子の言葉。成長して、ひとりの息子が、今日は父親と話し合いたいことがあると身構えて、「親父!」と言うように呼びかける言葉とは違う。父と子が向かい合っているところで使われる言葉ではなく、むしろ父親の腕の中に抱(だ)かれている幼な子が、自分を暖かく包み込んでいてくれているその人に向かって、自然に発する声―「自ずからなる呼びかけだと思う」、と。

 「自ずからなる」呼びかけ。何も考えず、ただ思わず口を突いて出て来る言葉ということです。父親にやさしく抱かれながら、その顔を見ながら、「アッバ、アッバ」と呼ぶ。信頼し、喜びに満ちてそう呼びかけます。

 この「呼ぶ」という言葉も、どうにも抑え切れない心の奥底から出てくる声、叫びといった意味の言葉です。何の心配事もないときに、安心して「アッバ、父よ」と呼ぶというのではありません。そうせずにおれない、そうするほかないようなところで、父である神が、わたしたちをそのみ腕の中に幼な子を抱くようにして支えてくださっている。だからこそ、わたしたちはどんなときにも、いえ、どうしようもないときにこそ、「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのだと言います。大きな恵みだとは思いませんか。

 

■父の姿

 とは言え、こどものときであればともかくも、大人になっても、「アッバ、アッバ」「アブアブ」と呼びかけることは、それほど簡単なことではないかもしれません。

 「おやじはキライだ」。

 自分ではよくは覚えていないのですが、大学に入ったわたしは母親にそう言ったそうです。中学になったころから、父親に対して根深い抵抗感を持ち続けていました。その抵抗感が次第にとけ始めたのは、皮肉にも「キライだ」と言った大学生になってからのことでした。親元を離れ、少し距離をおくことができたからかも知れません。四十歳も間近になって、自分のこどもが思春期を迎え、自分自身がこどもとの距離に悩み始めた頃、そして父親の頭に白髪が目立ち始めた頃、何とはなしに、ときに意識しながら突き放していた父親の姿が、ようやく、でも、はっきりと近づいてきたように思えました。

 こどもの頃は何の抵抗もなく「父ちゃん」と呼んで、頼り切り、信頼していたのに、成長し、背たけが伸びてくると、頑固一徹な父親の存在がどうにも煙たいものに思えました。父親が変わったというのではありません。わたしが父に追いつき、追い越そうと、もがき始めていたのでしょう。しかしそれは到底叶わぬこと。であればこそ、余計に反発を感じていたのでしょう。そのときのわたしは明らかに、父の姿を見失っていました。見失っていたからこそ、「父ちゃん」「父さん」と呼びかけることができずにいました。

 でも本当は、そんなときこそ、そんなときだからこそ、「アッバ、父よ」「父ちゃん」と言って、父親に真正面からぶつかっていけばよかったのだ。それは自分が父と同じ親になって初めて、気づかされたことでした。

 

■神の子どもとして

 イエスさまの言葉が思い出されます。

 「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:9-11)

 人間の父であっても、求めてくるこどもには応えます。パンを求めるこどもに石を投げてよこすなんてことはありません。まして、あなたがたの求めに対して、いのち与えてくださった神様が応えられないはずがあろうか、とイエスさまは言われます。

 でも注意してください。たしかに人間の父親でも、こどもの求めに応えます。しかしそのとき、いつも、求められたものを与えるわけではありません。父親は、こどもの求めに対し、今、こどもにとって本当に何が必要かを考えて、応えることでしょう。別のものをあたえるという形で応える場合もあります。ときには、与えないという形で応えることもあるかもしれません。

 父なる神もそうです。求めに対して、思いがけない形で応えられることもあるでしょう。そうではあっても、それはすべて「良いもの」だとイエスさまは言われます。求めるわたしたちにとって、何が一番よいのか、父なる神はよくご存じです。今、わたしになくてはならないものが何なのか、あるときには、あってはいけないものが何なのかをご存じなのです。だからこそ、わたしたちは深い信頼をもって、こどものように神様に「アッバ、父よ」と呼びかけ、助けを求めることができます。

 神様にいのち与えられた者の幸い、わたしたちの本当の幸せとは、ただ、求めるものを手に入れることができるということではありません。それは、どんなときにも、わたしたちのことを誰よりも愛し、よくご存じの「父なる神」に祈り求めることができることです。「アッバ、父よ」と自分を思いきりぶつけていくことができる神様の下に、わたしたち一人ひとりが生かされ生きていることです。

 だからこそ、神のこどもとして安心して、信頼して、何もかもすべてのことを委ねて、どんなときにも「アッバ、父よ」と呼びかけ、希望と喜びをもって、与えられた人生を大切に歩んでいただきたいと願わずにはおれません。

 

祈ります。父なる神。今ここにいる一人ひとりに、あなたの愛を感じさせてください。その愛に支えられて、よろめく自分のからだが支えられる幸せを味わうことができますように。悩みは尽きません。苦しみがなお続くかもしれません。そんなときにこそ、いつも共にいてくださるあなたに「父よ」と呼びかけ、祈り求め続けることができますように。主の御名によって。アーメン