福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★7月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『ありがとう』マタイによる福音書6章5~15節 沖村裕史 牧師

★7月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『ありがとう』マタイによる福音書6章5~15節 沖村裕史 牧師

■父のまなざし
 「天におられるわたしたちの父よ」
 天の父なる神に、滔々とお祈りをする必要はありません。わたしたちの両親に「お父さん、お母さん」というように呼びかけ、ありのままに話をすればよい。親が、真面目に、けなげにやっている子どもに、必要とする以上の物を与えようとしないなどということがあるでしょうか。ですから、「異邦人のように、くどくどと祈るな。」「彼らのまねをしてはならない。(なぜなら)、あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(から)」と言われます。 父なる神は、わたしたち一人一人にいのちを与えてくださった方だからです。
 昔のことを思い出します。
 小さいころ、初めて自転車に乗る練習をしたときのことです。乗るまえの不安と、乗っているときの緊張。転んだときの痛さと、ついに乗れたときの喜び。だれもが体験する、ささやかな人生のひとこまですが、今にして思えば、生きるうえでの非常に重要な体験であったように思えます。
 多くの方がそうであったように、わたしの場合も自転車の乗り方を教えてくれたのは父でした。父は、自転車の後ろを両手で支え、「さあ、ちゃんと持ってるから、思いっきりこいでみろ」と言います。恐る恐るペダルを踏むと、思いのほか簡単に進みます。歩くのとは違う爽快なスピード感に胸が躍ります。ところがふと気がついて振り向くと、なんと、父はとっくに手を放してしまっているではありませんか。しかもニコニコと笑いながら。
 その瞬間、「すごいぞ、ぼくは自分ひとりで乗れてる!」と喜び、そのままこぎ続けることができる人がいるとすれば、その人はきっと大人物になるでしょう。悲しいかな、わたしを含め、多くの人はこう思ってしまいます。「うわっ、父さん、手を放してる。もうだめ、転ぶ!」
 事実、転んでしまいました。
 痛い体験でしたが、これは大変貴重な体験です。
 転ぶ前は、ちゃんと乗っていました。後ろで父が押してくれていると信じていたからとはいえ、たしかにひとりで乗っていたのです。しかし、自分ひとりでこいでいると気づいた瞬間、「うわっ、もうだめだ、転んじゃう!」と思い、そのとおりに、転んでしまう。
 その後も、何度転んでも、父はニコニコ笑うばかりです。そんなまなざしに見守られ、やがて転ぶのにも慣れてきたころ、いつしかこう思うようになります。「いつまでも怖がっていてもしようがない。もう、転んでもいいから、ともかく思い切ってこいでみよう」。そうして勇気を出してこいでみると、不思議なことに転ばないのです。スイスイこげるようになり、なんでこんな簡単なことができなかったんだろう、とさえ思うようになります。
 これは、祈りにとって、また生きる上でとても大切な体験です。
 聖書の中で、イエスさまは弟子たちに繰り返し「恐れるな」「心配するな」「思い煩うな」「勇気を出せ」と言われます。そうした恐れや思い煩いや不安こそが人を縛り、この世を苦しめる最大の原因であることを知っておられたからです。人が真の自由と幸福を手に入れるためには、そうした恐れや不安を乗り越えなければならないことを知っておられたからです。イエスさまは、父なる神の思いを代弁しておられます。もうちょっとで自転車に乗れるようになるわが子を見守る父親のような、天の父の愛情あふれる思いを語っておられるのです。「天のお父さま」と祈りなさい、と。
 愛を失って傷ついた人は、愛することを恐れるばかりか、愛されることさえも不安の種になります。特に幼いころに傷ついた人の恐れや不安の闇は深いものです。愛を失った痛みは、自転車で転ぶ痛みの比ではありません。しかし、どれほど痛くとも、その闇から解き放たれ、真の自由と幸福を手に入れる方法は、たったひとつしかありません。愛にあふれる父なる神のまなざしを背中に感じながら、「転んでもいい、思い切ってこいでみよう」と思ったとき、わたしたちは新しいいのちへと招かれます。

■土台は神の愛
 では、その「天の父」にどう祈ればよいのか。イエスさまは、手を取り足を取るように懇切丁寧に教えてくださいます。
 「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」
 この世の終わりにやってくる神の御国の到来が早く来るように、父なる神の御心が地上でも行われますように祈りなさい、と言われます。神の国の到来とは神の御心がこの地上で成就するときのことです。そのときを、いつか分からない遠い事柄としてではなく、今、ここに来たらせ給えと祈るということは、そのような父なる神がわたしたちと共に、今ここにいてくださることを確信するということです。
 ところが、実際のわたしたちの祈りはそれとはほど遠く、「こうしてください、ああしてください」と祈ることばかりです。それがいけないというのではありません。それも確かに、自分や家族が様々な困難を避けることができますようにという切実な祈りではあります。
 しかしイエスさまは、まず神の御業、神の御国が現われますように、神の御心が成就しますようにと祈り、それから「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈りなさい、そう教えておられます。明日の糧、その先の糧ではなく、ただ、今日一日の糧のことを祈る。それで十分なのです。神の御国が来ている、神の愛の御心がもたらされている、神の愛の御手が今ここに差し出されているからです。
 そして、わたしに負債のある者、それが金銭であれ、恩であれ、過ちであれ、他の何かのことであれ、そのようにわたしに対して負い目のある者をわたしが赦すから、わたしの負い目も赦してください、と祈るようにと言われます。わたしはどうしてもあの人を赦すことができない、でも神よ、わたしの罪は赦してください、と祈るのではありません。もうわたしがあの人のことを赦しましたから、わたしの罪をも赦してください、と祈るのです。
 わたしたちの誰も、父なる神の御前で、自分には負い目は何ひとつない、自分のことを「義」―正しい者だと言うことなどできるはずもありません。わたしたちの祈りはただ、イエス・キリストの十字架においてわたしたちの罪を赦してくださった、限りない父なる神の愛への信頼として祈るより、他に手立てはありません。
 ただ父なる神の愛ゆえに、わたしたちは祈ることができるのです。

■ありがとう
 その神の愛に触れたとき、わたしたちの口から思わず言葉がこぼれ出ます。「ありがとうございます」という祈りの言葉があふれます。そんな、ありがとう、としか言えないときがあります。
 あなたが助けてくれたこと、あなたが支えてくれたこと、あなたが受け入れてくれたこと。何よりも、あなたがいてくれたこと。それがどんなにうれしかったかを具体的に伝えたいけれど、言葉でいくら説明したところで、心にあふれる思いはとても表しきれないというとき。結局たったひと言祈る「ありがとう」という言葉。
 小さな声で、しかしすべての思いを込めて祈る、そんな「ありがとう」は、天の国の扉を一瞬だけでも開く力を秘めています。他にも尊い言葉、美しい言葉はあります。でもこの「ありがとう」のもつ力は比べようがありません。
 ひとりの赤ちゃんが生まれたときの光景を思い浮かべます。お母さんが我が子を胸に抱いて言いようのない喜びに満たされ、思わず呟く、「ありがとう」。これは、母が子に言っているのか、子が母に言っているのか、よくわかりません。二人が天の神に言っているのか、天の神が二人に言っているのか、はっきりとしません。その言葉自体がそこに生まれた、としか言いようがないものです。
 そもそも「ありがとう」とは、「有り難し」、本来ありえないものがあるという喜び、あること自体が奇跡だという驚きから生まれてくる言葉です。 生まれたての赤ん坊はまさにありがたく、本来なかったかもしれない存在がたしかにここにあるという、この感動以上に人の胸を打つものはありません。
 そのときあふれてくる「ありがとう」を言うためにこそ、人は存在し、そんな「ありがとう」を受け留めるために、人はいのち与えられ、生かされ生きているのではないでしょうか。とすれば、最もありがたく、最もありがとうと言わなければならない対象は、実は、本来いなかったかもしれないこのわたし、自分自身だということになるのかもしれません。
 自分に「ありがとう」と言う。しかしそれが、多くの人にとって、とても難しいことであることも事実です。だれにとっても自分自身を受け入れることが、一番困難なことだからです。特に、拒否されて育ち、自らを否定して生きてきた人にとっては、決して、できないと思い込んでいることのひとつでしょう。ときには、むしろ自分なんかいないほうがいい、消えてしまったほうがいいと思っていることさえあります。そんな自分に、どうしてありがとう、などと言えるでしょうか。
 だから、だからこそ、この祈りの言葉があるのです。
 イエスさまが教えてくださった「主の祈り」を一言で祈るとすれば、それは「天のお父さま、ありがとうございます」です。そのように祈るために、その祈りを聞くためにわたしたちは生まれてきました。そのひと言で、生きていける祈りの言葉を、どうか一度でもいい、イエスさまのこの祈りの言葉を信じて、自分自身に向かって、そして神にそっと祈ってほしいと願います。
 「ありがとう」。その瞬間、きっと、あなたにも天の国の扉が開かれることでしょう。

お祈りします。天の父なる神、あなたはわたしたちをいつも見守っていてくださいます。わたしたちが生まれる前から、今も、そして死して後も、わたしたちはあなたの愛のまなざしの中に生かされています。そのまなざしに応えて、わたしたちが、この世のものから、自分自身から、恐れや不安から自由になって、この新しい週を、互いに祈り合い、赦し合い、愛し合って歩んでいくことができますように。主のみ名によって。アーメン。