福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★8月15日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『欠けてなんかない!』ルカによる福音書4章1~13節 沖村裕史 牧師

★8月15日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『欠けてなんかない!』ルカによる福音書4章1~13節 沖村裕史 牧師

■誘惑と試練
 イエスさまが言われていることは、たったひとつ。
 「あなたはもうすでに赦されている、受け入れられている、愛されている」という福音(Good News)でした。
 今日ご紹介をする聖書のみ言葉も、様々な試練や誘惑に遭って苦しみ悩むあなたへの、神様からの福音です。
 今、「試練や誘惑」と言いましたが、聖書では両者に大切な違いがあります。苦しみが「誘惑」となるのは、苦しみに打ち負かされそうな自分に気づいているときです。しかし、この苦しみを自分の揺るがぬ確かさを示す機会とすることができれば、それは意味をもった「試練」となります。
 聖書では、「試練」も「誘惑」も、同じ言葉「ペイラスモス」で表します。たとえば、ゲッセマネのイエスさまが、「ペイラスモス」に陥らないように目を覚まして祈りなさい、と弟子を戒めるときには「誘惑」の意味で使っています。それが「試練」の意味になることもあります。たとえば、ヤコブは、いろいろな「ペイラスモス」に出会うとき、それをこの上ない喜びと思いなさいと教えますが、それは、積極的な意味での「ペイラスモス」、つまり「試練」です。さらにパウロが、神様を信じる者を襲う「ペイラスモス」で耐えられないものはなかったし、神様は「ペイラスモス」と共に、それに耐える道をも備えてくださると説くときにも、それは「試練」の意味です。
 「誘惑」と「試練」との境目はぼんやりとしていて、どちらにも転ぶ可能性を秘めています。

■何ひとつ欠けていない
 イエスさまはご自分の歩みを始めるにあたってまず、悪の本質と向かい合われます。 悪の本質が何であるか、その誘惑や試練の正体が何であるかを知っておくことは、わたしたちが本当に豊かな人生を生きる上で、非常に有益だからです。
 悪魔がやって来て、イエスさまに三つの誘惑をもちかけています。その一つひとつにいろいろと説明されますが、ここでは、ひとつのことを強調したいと思います。それは三つともが要するに、「あなたには今、欠けたものがある」という誘惑だ、ということです。あなたは足りない、あなたは持っていない、あなたは愛されていない、と。だから、それをパンで満たせ、権力や富で満足しろ、本当に愛されているのか試してみろ、そう誘惑するのです。
 そしてそれは、わたしたちが今まで、そして今も受け続けてきている誘惑です。「わたしは足りない」、「わたしは欠けている」、「わたしは値しない」。悪魔はその欠けをあおり、その欠けをこの世の富や力で満たさせよう、と誘惑するのです。
 それに対するイエスさまの答えは、とてもシンプルです。欠けは、神様が満たしてくださる。いや、もうすでに神様はあなたを満たしている。「あなたは何ひとつ欠けていない。神様からいのち与えられた神の子どもなのだから。あなたは何も求めなくても、試さなくても、もうすでに神様の愛の中を生きている」と。言うならば、そんな全面的な神様の愛への信頼こそが、信仰によって与えられる恵みです。

■理想と現実
 今思えば、わたしは両親から愛されて育ち、相当自由に生きてきたはずです。しかしそれでも、中学生になると反抗ばかりするようになりました。口先だけの、生意気盛りでした。当然、叱られることもしばしばです。しかし理屈も理由もなく反発ばかりするのですから、次第に腫れ物に触るようにされます。そうされればそうされるほど、いらだち、傲慢な態度とは裏腹に、心の中は萎縮していきました。親は精いっぱい受け入れようとしてくれているのに、「今のこのままでは愛してもらえない!」という思いが、わたしの心の奥深くに沈殿するように閉じ込められていました。
 思春期に誰もが経験する、飢え乾くようなあの「いらだち」の正体は、一体何だったのか。それは、思春期だけのものなのでしょうか。決してそうではありません。理想の自分と現実の自分、その決して埋まることのないはざまに、すべての悩みと苦しみが渦巻いています。理想の自分がないという人はいないでしょう。それをどの程度強く望むかどうかはともかく、だれでも必ず、心のどこかに理想のセルフイメージをもっています。たとえば健康で、美しく、才能にあふれ、だれからも好かれる、明るい自分。そして、だからこそ、いらだつのです。不健康で、さえない、無能で、嫌われる、暗い自分、つまり現実の自分に、いらだつのです。特に、失敗したとき、失望したとき、失恋したときなんかは、最悪です。甘く夢見た理想の自分は崩れ去り、後には決して見たくなかった現実の自分が取り残されている、そんな現実に耐え切れず、わたしたちはつぶやきます。
 「こんな自分なんか、いないほうがましだ」
 たしかに、人は理想がなければ生きていけません。みんな夢見て、憧れて、少しでも現実を理想に近づけようと、けなげな努力を続けています。それこそが、人間らしさの本質だとさえ言えるでしょう。
 でも、もしもその理想が、人を苦しめ、ついには夢見た当の本人が「いないほうがましだ」と消えてしまうならば、それこそ究極の本末転倒というべきです。自分自身を否定するのではなく、本当はこう言うべきではないでしょうか。
 「こんな理想なんか、ないほうがましだ」
 やることなすことうまくいかず、人からは誤解され、自分の弱さにうんざりする夜更け。わたしは鏡の前に立ち、やつれた自分の顔をまっすぐに見つめて、こうつぶやくことにしています。
 「これが、ぼくだ。これを、生きよう」
 思えば、いつも理想を追いかけて、「あれが、ぼくだ」と思い込んできました。だから、そうでない自分をあばき、そのイメージを傷つける人に対して、逆恨みさえしてきました。しかしそんな悲しいことは、もうやめにしようと思うようになりました。ここに、現実のわたしがいる。自分でかってにつくった、ときにこの世の基準によって押しつけられた、自分の理想に振り回されるのではなく、この自分から出発しよう。この現実を全面的に受け入れて、ここから出発するなら、きっと、貧しい理想を超えた、豊かな現実が待っていると信じよう、いや信じることができる。そう思えるようになりました。
 どんな理想も、決して現実にはかないません。なぜなら、理想は、すべて頭の中のことで、頭の中は、それほど正しくも、美しくもないからです。理想は、人間がつくったもので、現実は、人間を超えるお方―神様がつくっておられるのではないでしょうか。ですから、いつだって、理想より現実のほうが、ほんの少しだけ尊いのです。
 受け入れがたい現実、認めたくない自分に、そっとつぶやきましょう、「これが、わたしだ」。そのとききっと、「そう、それがきみだ。それを生きろ」と、神様が答えてくださるはずです。

お祈りをいたします。愛の主よ、わたしたちは躓きます。裁いてしまいます。祈ることをやめてしまいます。驕っている時にも、絶望している時にも、あなたの姿が見えなくなります。主の十字架が見えなくなります。それが、わたしたちの姿です。わたしたちの世界です。しかし、御子は勝っていてくださいます。あなたの愛が勝利していることを、わたしたちがあなたを愛し続けることができることを、わたしたちの確信としてくださいますように。主のみ名によって。アーメン