福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

★9月19日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『いのちは奇跡』創世記2章4b~7節 沖村裕史 牧師

★9月19日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『いのちは奇跡』創世記2章4b~7節 沖村裕史 牧師

■トンボの死
 「こどもは残酷だ」と言われます。
 小学校3年生の夏休みも終わりの頃、わたしは捕まえたトンボに糸を括りつけ、それを飛ばして遊んでいました。逃げようとすればするほど、トンボはわたしのまわりを勢いよく回り続けます。そうしているうちにだんだん力も尽きて、回るスピードも落ちきます。それでも、紙飛行機に糸をつけて手でぐるぐる回すよりは、ずっと面白くて、興奮気味に「見て!見て!」と、友人にその様子を見せたときのことです。
 友人が、弱っていたトンボをわたしの手からいきなり取り上げると、その糸を解きます。そして何と、トンボを手の中でぎゅっと握り締め、殺してしまいました。驚いたわたしは、トンボを殺したことを咎めるように、「何すんだよ」と食って掛ります。すると彼は、わたしを睨みつけ、「かわいそうだ」とひと言呟きました。
 「アッ」、心の中で叫びました。「ぼく、ひどいことした…」
 トンボの死によって、わたしはトンボのいのちを弄んでいた自分の愚かさ、残酷さに気づかされました。死によって、わたしが自由にすることのできない、またそうしてはならない、小さくとも、かけがえのないいのちであったこと、そしてわたしたちのすぐ傍らに「死」がある、そんな危うい、頼りない「いのち」を生きているということに、ぼんやりとですが、気づかされたように思います。
 今もまざまざと甦る、強烈な思い出です。

■生と死としてのいのち
 こどもは、身近な「いのちの終わり」「死」を通して、ある時には、身近に体験する新しい「いのちの誕生」を通して、生きることと死ぬことの意味、いのちの尊さについて考え始めます。そして漠然とではあっても、生と死とが別々のものではなく、実は、いのちと呼ばれるものの「表と裏」であることを知るようなります。
 今日の聖書のみ言葉は、その生と死そのものである「いのち」について、こう教えます。7節、
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
 人間は、「土くれ」でしかない、この地上にあるすべてのものと何一つ変わらない「限りある者」である。しかし、そのわたしたちのいのちは、神の御心によって、与えられたものである、と教えます。
 そのことは、わたしたちの「誕生」に思いを致せば、容易に頷けることです。自分が生まれた時のことを覚えている人は、どこにもおられないでしょう。それはつまり、自分の意志によって生まれて来た者はいない、ということです。自ら望んで、この世に生まれてきた者は誰ひとりいません。
 がしかし、望まれずに生まれてきた者も誰一人としていません。「生まれた」ということは、「いのちを与えられた」ということであり、「望まれた」ということです。それも、単に肉の親の望みというのではなく、この世界の根源にある「望み」、神の「願い」によってです。

■いのちは奇跡
 これを、「人間は奇跡」と表現した人がいます。
 井上ひさしという作家です。ユニークな作品を数多く残した井上ですが、子どもから大人まで、様々な世代を魅了したのはやはり、NHKの「ひょっこりひょうたん島」でしょう。完璧な登場人物―スーパーマンやヒーローは登場しません。個性的で、欠点だらけで、それでいてすぐ近くにいるような、親しみやすい登場人物たちが織りなすドラマは、ときにわくわくドキドキ、ときに滑稽で笑いを誘うその中に、人としての悲しみと苦しみが、そしてそのかけがえのなさが、心に沁み込んでくる、ペーソスとユーモアにあふれたテレビドラマでした。
 そんな作品から、彼の誕生と生い立ちが透けて見えてきます。父親は、山形の実家が薬屋だったため薬剤師を目指すその一方で、農地解放運動にも関わり、さらには地方の劇団を主宰する他に、小説も書き、その作品が大衆文芸新人賞に入賞する、そんな人でした。母親は、病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の父親と知り合い駆け落ち、籍に入らず、ひさしたち三人の兄弟は非嫡出子として生を享けます。青年共産同盟に加入していた父親は三度も検挙され、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くし、ひさしが五歳のとき、脊髄カリエスで死亡します。母親は懸命に三人の子を育てつつも、旅回りの芸人と同居を始め、ひさしはその義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症と吃音症になります。その後、義父は有り金すべてを持ち逃げ。行き詰まった母親は、仙台にあったカトリック修道会の児童養護施設に、子どもたちを預けざるを得ませんでした。カナダ人修道士たちが遠く祖国を離れ、献身的に子どもたちの世話をしていました。カナダから修道服を繕うために送られてきた羅紗も、まず子どもたちの通学服に回し、自分たちはぼろぼろの修道服に甘んじ、毎日額に汗して子どもたちに食べさせる野菜などを栽培する姿に感動し、ひさしは自ら進んで洗礼を受けました。彼の作品には、彼の描く人間には、そんな彼の体験が重なっている、そう思われてなりません。
 その井上ひさしが亡くなった直後、追悼のドキュメンタリーが放映されました。その中で、ある文学者が、井上文学のポイントは「人間は奇跡である」という彼の言葉にある、と語っています。「人間は奇跡」とは、どういう意味でしょうか。井上はこう書いています。「人間が生まれてくるのは精子と卵子の結合による。ところで、その合体のときにある卵子はたった一つ。しかし精子は少なくとも一千億あると言う。そして、そのうちのたった一つだけが卵子と結合するのだから、精子の生き延びる確率は実に一千億分の一。あとの999億9999万9999個の精子は、すべて死んでしまう。それほどわたしたちの存在は他の犠牲の上に成り立っており、一千億分の一の確率、つまり一千億倍の競争に打ち勝った精子によって、わたしたちは今、この世に生を享けているのである。だから、ここにいのちがあること、生きていることだけで奇跡なのである」と。
 さらに、井上は続けます。「『奇跡』は壮大だ。天上を見よ。天体を、宇宙を見よ。この宇宙には、あの太陽よりもでかい星が少なくとも五千億個ある。小さい星となると、その数はすごい。そしてそれらの星々のまわりを、さらに惑星という小さな星が回っている。そしてこれらの天体の中に、ごくまれに水がある星があるかもしれないけれど、人間がいるかどうかはまったく未知だ。すると、今、人間がこの地球で、手が動き、足が動いて生きている、それだけで、もう奇跡。せっかく人間として、この奇跡を生きているのだから、人生を無駄にするな!生きよ!」と。
 人間は、この世界の一切は、神によって創られたものでした。土くれに過ぎないものであるにもかかわらず、ただ神の御心、神の愛によって創られ、いのちを、その存在を与えられているのです。まさに人間は奇跡の存在です。壮大な宇宙の中に浮かぶ小さな星、地球。その上で、いのちを生きる奇跡的な存在としての人間。いのちを与えられたことを思うとき、その愛を思うとき、わたしたちのいのちは、自分のいのちも、他人のいのちも、神のもので、わたしたちが自分勝手にしてよいものではないことが、心に沁みて分かって来ます。どのようないのちであっても、どのような人であっても、どのような人生であっても、すべてがかけがえのないもので、傷つけたり、損なわれたりしてはならない。そのことが見失われている今日です。与えられたこのいのち―この奇跡に、神の願いに、感謝をもって応えていく、そんな歩みを共に続けていきたいと願わずにおれません。

お祈りをいたします。主なる神、与えられたいのちゆえに、あなたはわたしたちを愛によって結んでくださいました。この愛をこの世で全うすることができないように見えても、やがては皆あの広い海よりももっと広くてもっと深くて、永遠のいのちへと注がれていきます。そうしていつの日か皆が愛によってひとつとなります。それを信じて互いに「助ける者」であることができますように。人を裁くことを止めさせてください。自らのかたくなさに気づかせてください。そのかたくなさに打ち勝って主の十字架の愛が沁み通ってくるのを、幼な子のように受け入れさせてください。そのためにわたしたちを新しいいのちに生まれ変わらせてくださいますように。主のみ名によって。アーメン。