福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月1日 ≪降誕節第2主日・元旦礼拝≫『新しい葡萄酒で乾杯!』ルカによる福音書5章33~39節 沖村裕史 牧師

1月1日 ≪降誕節第2主日・元旦礼拝≫『新しい葡萄酒で乾杯!』ルカによる福音書5章33~39節 沖村裕史 牧師

■転石、苔を生ぜず

 「転石、苔を生ぜず」という諺(ことわざ)があります。転がる石には苔がつかない、外山(とやま)滋比古(しげひこ)という英文学者がこの諺について、こんなことを書いています。

 このことわざは英語の “A rolling stone gathers no moss.” の訳だけけれども、イギリスとアメリカでは全く反対の意味で使われるようになった。イギリスでは、一箇所に長く腰を落ち着けることができず、たえず商売替えをするような人間にはmoss苔はつかない、つまりお金が貯まらないという意味で使われているけれども、アメリカでは、優秀な人間なら引く手あまた、席の暖まる暇もなく動き回る、じっとしていたくてもそうはさせてくれない、次から次へと新しい職場に引き抜かれていく、こういう人はいつもぴかぴか輝いていて、新しくて、苔が付着する暇もない、そういう意味で使われている、と。

 外山は続けて、定住社会と移動社会の違い、風土から生まれる感覚の違いから、苔を良いものと思うのか、それとも何の価値のないものと思うのか、その理由を説明します。なるほどと思いつつ、わたしたち日本人はどちらかと言うと、イギリス人と同じ感性を生きているのではないか、と思わされました。

 わたしたちは今、新しいことは良いことだという時代を生きていますが、それでも、古いものは良いものだということもよく知っています。その二つの思いを融通無碍(ゆうずうむげ)に、いえ、自分に都合良く使い分けて生きているのではないか、そのことを心に止めながら、今日のみ言葉をご一緒に味わいたいと思います。

 

■新しい人生、新しいいのち

 元日の朝、わたしたちに与えられた聖書のみ言葉は、ルカによる福音書5章33節以下ですが、それ先立ってこの5章には、神様のご用に召された二人の人物の記事が出てきます。初めの一人は漁師だったペトロ、もう一人は徴税人レビ、またの名をマタイという人です。それと、病に苦しんでいた二人の人のことも書かれています。一人は今でいうハンセン病の人、もう一人は中風の人で、この二人の癒し、救いの出来事が記されています。

 なぜ、この四人の記事がここに一緒に記されているのでしょうか。この四人に共通していることとは何でしょうか。

 それは、この人たちが皆、罪人と見なされていたということ、そして何よりも、イエスさまに出会い、新しい人生を歩み始めた人たちだったということです。神様に召されるとは、この四人のように、まったく新しい人生を、まったく新しいいのちを与えられるということです。それはとても喜ばしいことです。神様に召されるのは、わたしたちがそれにふさわしいからではなく、ただ神様の愛ゆえです。そんなすばらしい、大きな愛に包まれて、新しいいのちを、新しい人生を歩み始めること、それが召されるということです。

 ある先輩牧師の体験です。

 高等学校二年生のときのこと、田舎の学校にはめずらしいクリスチャンの同級生がいた。クリスチャンの女子高生は何人かいたが、男子は他にいなかった。わたしは彼に議論を仕掛けた。世の中の矛盾や世界の不条理を引き合いに出し、神が存在するなら、なぜこんなことが起こるのかと問い詰めた。わたしはクリスチャンである彼を追及しているつもりでいたが、たぶん胸の奥には自分の生きる根拠を求めるあがきがあったのだと思う。彼の答えはしどろもどろだった。それでも、話の終わりに彼はいつもこう言っていた。

 「いちど教会に来てみろよ」

 で、教会に行き始めたのがその年の秋。教会に行き始めて、礼拝をしている姿に強い印象を受けた。二十数名の会衆が聖書の言葉に耳を傾け、起立して讃美を献げている。ここには道があるな、と思った。まっすぐに前に向かって行く道がある。駅前の飲み屋に育ったわたしには新鮮な驚きだった。人生にはドロドロした愛憎の世界しかないと思っていたからだ。あきらめ、断念し、なるようにしかならないと投げ出すように生きていた。

 踏み入ったのは、思いもかけない世界だった。教会の大きな窓からは、見なれた入り江の対岸の山並みが見えていた。よその世界の風景のようだった。翌年、高等学校三年のクリスマスに洗礼を受けた。

 考えてみれば、あのとき精神的に荒廃し、あがいていたんだろうと思う。苦しまぎれに目の前に現れた扉を開いたら、前方に向かう道があった、ようやっと見つけることができた、それがわたしの信仰への歩みだった。

 しかしそれは、神の側からいえば、神が迷い出た羊を探し出し、見つけ出してくださったプロセスだった。放蕩息子は自分の足で歩いて帰って行った。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて…抱き、接吻した」(ルカ15:20)。息子が行きづまり、転落し、父をあえぎ求めるよりもはるかに切実に激しく、父は息子を待っていた。そのことは、神のふところに抱かれたあとでわかったことだった。自分が帰ったのではない。神が自分を見つけ出してくださったのだ、と。少しずつわかってくる。次第にわかってくる。(小島誠志『55歳からのキリスト教入門』一部変更)

 この先輩牧師も、そして「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白したペトロも、軽蔑され嫌われていた徴税人のレビも、穢れた者として誰からも触れられることさえなかったハンセン病の人も、体がまったく動かず家族の重荷となって絶望していた中風の人も、彼らすべてがイエスさまによって見出され、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と宣言されたイエスさまによって、その罪を赦され、救われ、大きな喜びに包まれて、まったく新しい人生を歩み始めました。

 イエスさまによって招かれたこの四人の出来事に続けて、今日のみ言葉が語られています。

 

■断食

 冒頭33節に、「人々はイエスに言った」とあります。

 この「人々」が、30節に「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」と書かれている人たちのことなのか、それとも全く別の人々のことなのか、はっきりとは分かりません。分かりませんが、ファリサイ派の人々と同じように、自分たちは罪や穢れから離れ、清く正しく生きていると考えていた人々でしょう。イエスさまと弟子たちの様子を見ていた彼らが、こう問いかけます。

 「洗礼者ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈りをしており、わたしたちファリサイ派の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」

 彼らが問題としているのは「断食」です。旧約聖書では、断食は本来、悲しみのしるしでした。皆で一緒にごちそうを食べることが祝いや喜びのしるしであるとすれば、断食は深い悲しみと哀悼のしるしでした。それが後に、古代イスラエル暦の第七の月の十日、贖いの日に、犠牲を献げて自らの罪を告白し、断食と祈りの時を守ることが、イスラエルの人々にとって最も大切な儀礼のひとつとなります。バビロン捕囚以降のことと考えられています。国を失い、遠く異国の地に奴隷として連れ去られるという苦難を受けることになったのは、自分たちの罪のゆえ。その罪を悔い改めなければならない。断食は、その「悔い改め」のしるしとなりました。

 ところが、イエスさまと弟子たちがその断食をしません。

 あなたとあなたの弟子たちは今、レビの家で宴会をして、たらふく食べたり飲んだりしている。愉快な宴会なのだろう。しかし考えてもごらんなさい。あの徴税人レビは罪を悔い改めたのではなかったのか。今までのことを悪かったと詫びたのではないか。詫びたのなら、なぜ涙を流して、今までの人生は間違っていましたと言って、せめてその日一日ぐらい断食しないのか。いや、レビに断食する気がなかったのなら、あなたやあなたの弟子たちが教えるのが当然ではないか。断食して、神様、わたしが悪うございました、とお詫びの祈りをするよう勧めるのが当たり前ではないか。それなのになぜ、愉快に飲み食いするのか。あなたたちは不真面目ではないか。いったい何をやっているのか。

 ファリサイ派の人々はそう言って、イエスさまを咎めました。

 

■花婿が一緒にいる

 しかしイエスさまは言われます。

 「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか」

 花婿とは、イエスさまご自身のことです。わたしがここにいる。わたしがここにいるということは、わたしと一緒にいる人々にとっては、結婚の大きな喜びが、今ここにもたらされているということです。そのような喜びの訪れがここにある。婚礼の時に、あなたは食事を用意して、祝い、喜びを共にしないのか。そのような喜びの時に、なぜ、断食などさせることができるだろうか、できはしない。

 悔い改めによって、喜びが生み出されることはありません。四人の人たちがそうであったように、神様の愛が、恵みが驚くほどに大きいので、わたしたちは、自分が本当に罪深い、ということが分かるのです。わたしたちの罪深さはとても深刻です。「あなたはひどいことをしたでしょう」「あんなことやこんなことをやったでしょう」と言われて、「本当にひどいことをやりました」と言うかというと、そうはいきません。「謝ったら赦してあげる」と言われて、赦されたことも赦したこともないのが、わたしたちの現実の姿だからです。

 そうではなく、もうあなたの罪は赦されていると、悔い改めに先立つ赦しが与えられているからこそ、ペトロのように「わたしは本当に罪深い者です。イエスさま、わたしから離れてください」と罪の告白をすることができたのです。まことの悔い改めをすることができるのです。

 そんな悔い改めを、神様は必ず受け止めていてくださいます。そんな悔い改めを求め、それを迎え入れてくださるイエスさまが、ここにおられるのです。そのイエスさまが、すでに人の罪は赦されている、神の国がもう来ている、神様の愛の御手が今ここに差しだされている、という喜びの知らせをもたらしてくださっているのです。

 花婿イエスさまが来られることによって、そのような喜びがもたらされているのです。その喜びに満たされて、わたしたちは新しくされ、イエスさまの弟子になるよう招かれているのです。そんなときに、どうして暗い顔をして断食などしておれるでしょうか。

 

■古いものと断絶した新しさ

 この花婿の言葉に続いて、イエスさまは新しい着物と古い着物、新しいぶどう酒と古い皮袋というたとえを用いて、ユーモアたっぷりに、そして幾分かの皮肉を込めて、教えられます。

 何を教えようとされているのか。一言で申し上げれば、イエスさまがおられるということ、やって来られたということは、決定的に新しいことだということです。イエスさまと共に生きるということは、まったく新しいことなのです。

 古いものとは断絶した、新しさです。これまでの古いものを捨てず、それに新しいものを少しばかりくっつけるわけにはいかない。古いものは捨て切れないけれども、ああ、あの新しいものもよさそうだ、こっちの新しいものもよさそうだと言って、そこに何かをくっつけてみるということで成り立つような生活が、ここに語られているのではありません。

 それなのに39節です。それがわたしたちの姿です。

 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』と言うのである」

 「古いものの方が良い」とは、古いぶどう酒のほうが穏やかである、酒の味としてはまろやかというか、口当たりがよいということです。飲みやすいのです。それに反し、新しいぶどう酒はなじまない、どうしてもそれを口にふくんだ時に渋みが強く、それを拒否したくなってしまう。それと同じように、人はなかなか新しいものを受け入れることができないのです。

 大切なことは、悔い改めはまったくの喜びの中で起こるのだということです。

 ファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネの弟子たちは、悔い改める、罪を悔いるということは悲しむこと、嘆くこと、詫びること、厳しい思いになることだから、それが悲しみになるのは当然のことではないか、そう考えました。その時に、違う、そうではない。悔い改めるとは、大いなる愛ゆえに罪赦され、罪から解き放たれ、大きな喜びの中に生きることだ、と告げられるのです。

 誰だって、ああ、そんなすばらしいことか、と思うはずです。ところが、実際にはそうは思わない。なぜでしょうか。新しい喜びの中に飛び込むよりも、古い酒を楽しむように、悔い改めの悲しみの中に、罪を責める厳しさの中にいることのほうが楽だ、居心地がよいと思ってしまうからです。

 わたしたちもむしろ、そんな悲しみの中に、厳しさの中に生きていることが多いのです。そのようにしているほうが、自分がまじめであることができ、そのまじめさを確保できると思い、そのことによって自分が自分であり続けることができると思うからです。

 新しい喜びの中に飛び込むことは、自分のまったく知らない新しい味を口に含むことですから、その中に飛び込んでしまうことができなくなるのです。まったくの新しさに生きることをなかなか納得することができない。こういう古い酒、断食へのこだわり、まったき喜びへ飛び込んでいくことを拒否する思い、これは、わたしたちの誰もが知っている心です。それほどにわたしたちは自分自身にこだわるのです。

 罪の姿がそこに現れます。

 そして、その罪のためにイエスさまは十字架につけられます。35節、

 「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をする…」

 イエスさまは十字架につけられ、殺されます。それは、人々が花婿と一緒にいる喜びを、天から与えられている喜びを拒んだということです。花婿が奪い去られる日が来る、その日には断食をする。しかしそれで終わりだとは言われません。

 やがて、そのイエスさまが復活されて弟子たちのところに帰って来られます。そこでまた、弟子たちと一緒に食事をなさいます。そして喜びに満ちた宴会をなさいます。聖書には、復活のイエスさまと共にある喜びが、至るところに描かれています。わたしたちの一人ひとりが花婿イエスの祝宴に招かれているという、大きな喜びを語るみ言葉が溢れています。

 

■喜びの微笑みに生きる

 長い人生を生かされてきた高齢の信徒の方に出会う時に感じることがあります。それは、その方がとても素朴に喜びに生きておられるということです。なぜ、あのように嬉しそうにしておられるのだろうか。なぜ、あんなに喜びそのものというような生き方を作ることができているのだろうか。話を聞くと、特にしあわせいっぱいな生活をしておられるというわけでもない。むしろ厳しい試練を数多く身に受け、肉体も心もどんどん弱まっていく。しかし、そんな苦難から生まれる喜びというのではなく、喜びの微笑みがその顔に自然に溢れ、喜びに生きておられます。

 谷川俊太郎の詩にこんな一節がありました。

 「他人に求められなくても、自分の内から湧いてくる生きる歓びをどこまでもっていられるか、それがわたしにとっての老いの課題かもしれない。どうせなら陽気に老いたい」

 それは、ほんとうに新しい人生です。しかしそれは、ただわたしの内から湧いてくるというよりも、イエスさまがおられるところに、いつでもある新しい喜びではないのか、そう思えてなりません。

 わたしたちは、いつもその喜びの中に帰って行くことができます。その意味でも、まだまだ古いものに未練を持っている自分であることに気づきたいと思います。そして新しい喜びの中に、ただそこだけにだけ立ち続けることを、もう一度切に祈り求めたいものです。

 新しさは、若い人だけのものではありません。新しさは、皆のものです。年を取ることによって、より深く味わうことのできるものです。死の床にあってなお、わたしたちはこの喜びの中にあって、希望をもって神様に召されることができます。その幸いを感謝して、ボジョレ・ヌーヴォーならぬ新しい葡萄酒で祝杯を挙げるようにして、ご一緒にこの新しい年を始めたいと願う次第です。