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1月29日 ≪降誕節第6主日礼拝≫『後悔したら、あなたならどうする?』マタイによる福音書27章1~10節 沖村裕史 牧師

1月29日 ≪降誕節第6主日礼拝≫『後悔したら、あなたならどうする?』マタイによる福音書27章1~10節 沖村裕史 牧師

 

■ユダは悪人?

 「ほんの僅かでも人間についての認識を持っている者なら、ユダがキリストの崇拝者であったという事実を一体、誰が疑うだろうか」とは、19世紀の哲学者であり、牧師でもあったセーレン・キルケゴールの言葉です。

 ユダは最終的にイエスさまを裏切りますが、これは他の弟子にとっては驚きの出来事だったはずです。ユダは一行の会計を預かるほどにみんなから信頼されていました。最後の晩餐のときにも、イエスさまが弟子の一人が自分を裏切るだろうと言われ、そこにいた弟子たちの誰もが衝撃を受けますが、ユダが裏切ることになるとは、誰一人として思いもしませんでした。

 そのユダが、イエスさまをエルサレムの宗教指導者―祭司長や長老たちに引き渡すことに同意します。報酬の銀貨30枚は、奴隷一人の平均的な代価でした。イエスさまは、ユダヤの宗教指導者たちによって死刑を宣告されますが、死刑執行の権限はローマ帝国にあったため、ユダヤ総督ピラトに引き渡されることになりました。こうして、イエスさまの十字架刑が確定します。

 ユダはまさに裏切り者でした。

 このユダに対する聖書の評価は、とても厳しいものです。たとえば、十字架の時が迫って来ていた頃のことです。イエスさま一行がベタニアで食事をされていたとき、一人の女が高価な香油の入った石膏の壹を壊し、その香油をイエスさまの頭に注いだ、という有名な出来事が、最も古い福音書と言われるマルコ福音書の14章3節以下に記されています。そして、その様子を見ていた「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか…』」とあります。最も古い伝承では、この女を非難したのは「そこにいた何人か」でした。ところが最も新しい伝承と考えられる福音書、ヨハネの12章1節以下では、この女はマリアであるとされ、非難した人間は「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った」となっています。しかも、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」という説明までつけ加えられます。マルコからヨハネへのこの変化に、感心な女はマリアで、悪者はユダであるという評価が形作られていく、その過程を見ることができるでしょう。

 イエスさまの十字架が大切なものとして重んじられるほど、その直接の原因をつくったユダが悪人であるということが強調され、悪いことはみんな、ユダのせいにされてしまうほどであったと言えるでしょう。

 

■後悔するユダ

 でも、ユダに対するこうした評価は正当なものでしょうか。

 そもそもマタイは、ユダの最後の場面を、弟子の筆頭であったペトロの否認の出来事と並べるようにして描いています。「そんな人は知らない」と言ってイエスさまを見捨てたペトロと同じように、イエスさまを裏切った弟子たちの一人、それがユダなのです。事実、他の十人の弟子たちもみんな、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ出していました。

 裏切るついでに銀貨を手に入れようとするところは、いささか意地汚いとしても、会計を預かっていたユダらしくもあります。聖書の中には、多くの人からたくさんの金を騙し取っていたザアカイのような人も出てきます。何も、ユダだけが特別な悪人というわけでもありません。

 しかも、ユダは冷酷な悪人になり切れていないという点でも、他の愛すべき人たちと共通しています。徴税人ザアカイや一緒に十字架につけられた犯罪人のように、ユダも最終的には悪に徹することができませんでした。ユダはイエスさまを裏切りながらも、その後、自分の罪に苦しみます。3節から4節です。

 「そのころ、イエスさまを裏切ったユダは、イエスに有罪の判詞が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」

 ユダは、イエスさまが有罪判決になるとは思ってもいなかったようです。自分のやったことは間違っていたと気づき、悲しんでいます。ペトロ、パウロ、壺を持ってやって来た罪深い女…。イエスさまに巡り会った、すべての人たちがそうであったように、ユダもイエスさまと出会い、自分の犯した罪の大きさに悲しみ、「後悔し」ます。

 ここに、ユダがどうしてイエスさまを裏切ったのか、その動機の一端が垣間見えてくるようです。少なくとも、ユダが会計係として使い込みをしたのでも、その穴埋めにお金が必要だったからでも、ユダがお金の亡者だったといった単純な動機でもなかったのでしょう。むしろ、「こんなはずじゃなかった」と後悔したのですから、そこにはまた別の期待が込められていたことを伺わせます。多くのユダヤ人がメシア=キリストに期待していたことは、ローマ人を打倒し、ユダヤ人の祖国を回復して、ダビデやソロモンの時代の栄光を取り戻すということでした。イエスさまの弟子たちもまた、同じ期待を抱いていました。ユダは、イエスさまが逮捕や投石から逃れる場面を何度も目の当りにしていましたし、病人を癒し、死者を生き返らせるのも見ていました。こうしたことから、ユダはイエスさまを当局に売り渡せば、ついにイエスさまもローマ人との戦いを始めざるをえなくなると期待していたのかもしれません。自分がそのきっかけをつくろうとしたのですが、もくろみとは違って、イエスさまは処刑されることになってしまいました。

 動機がどのようなものであれ、ユダは「しまった。大変なことをしてしまった」と自分のやったことを後悔したのです。

 

■ユダの自殺

 それは、ペトロたちが味わった罪の意識といささかの違いもありません。ただ問題は、この後のことです。後悔したユダは、この後、どうしたでしょうか。

 彼は奇妙な選択をしてしまいます。祭司長や長老たちの所に帰ってしまったのです。

 後悔して、もともとお金が目的ではなかったのですから、その銀貨三十枚を返却しようとしたのです。そして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言います。罪の、悔い改めの告白です。そして、イエスさまのことを「罪のない人」と告白しています。祭司長や長老たち、当時の指導者たちがイエスさまの有罪判決を下しているそのただ中で、ユダはイエスさまの無罪をはっきりと証言します。

 しかし彼らは、銀貨を受け取ろうとも、その証言を受け入れようともしません。証言を受け入れて、イエスさまを無罪とすることなどありえないことでした。彼らの殺意はすでに定まっていたからです。このとき、ユダは自分の罪に苦しみ抜きましたが、祭司長たちに罪の意識などまったくありません。もともとこの銀貨は彼らがユダに与えたものなのですから、彼らもまた少なくとも共犯者、いえ、実質的な主犯格であるはずです。しかし彼らは、あたかも自分たちは何事もなかったかのように、そして、ユダをあたかも汚いものを取り扱うように始末しようとします。4節から5節、

 「しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」

 ユダの悲劇、それは、イエスさまを売り渡したこと、神の子を売り渡すという救い難い罪を犯したことではありません。帰るべき場所を見失ったこと、いえ、間違った場所に帰ってしまったことでした。悔い改めの言葉を、誤った人物に告白したことでした。

 「我々の知ったことではない。お前の問題だ」

 なんと冷たく、酷い言葉でしょうか。「ユダ、悔い改めの言葉をわたしたちに持ってきてどうするのか。お前の悲しみをわたしたちにどうしろというのか。そんなこと自分で考えろ」ということです。しかし、今のユダに必要なのは、考えることではありません。ただ、その告白を受けとめてもらうこと、赦してもらうことです。崩れ落ちてほころびた自分を、抱きしめてもらうことでした。

 でも、そんな人はこの地上に誰ひとりもいませんでした。

 彼は、イエスさまを裏切ることによって、十二弟子の一人として歩んで来た交わりの輪から離れて、帰るべき場所を失くしたのでした。と言って、祭司長や長老たちに受け入れられるはずもありません。ユダは、イエスさま逮捕の手先として利用されたに過ぎませんでした。それ以上でも、それ以下でもありません。事が終った後は、容赦なく棄てられたのです。こうして彼は帰えるべき場所を見失いました。

 それでも後悔したのだとすれば、すべての罪を告白して、イエスさまの前に身を投げ出すことだけが、残された唯一の道であったでしょう。ところが、イエスさまがすでに囚われの身となった今となっては、その道も閉ざされていました。もしユダが、かつての仲間たちのもとに帰り、赦しを求めたとしても、弟子たちはユダを赦しはしなかったでしょう。

 帰るべき場所、受け止めてくれる人がいる所、何があっても安心できる場所、そんな場所を見失ってしまうとき、人は死ぬほかなくなります。たとえ死ななくても、死んだように投げやりに生きるしかなくなります。少なくとも、相当に荒んだ生活になることでしょう。そんな状況で生きていて、何が楽しいでしょうか。こうして彼は、文字どおり進退きわまったのでした。

 

■帰るべき場所

 それでも、それでもなお、思わずにはおれません。

 どうして、ユダだけが後悔して、自殺したのでしょうか。どうして、ペトロやパウロは自殺しなかったのでしょうか。

 最初は、威勢よく「あなたにどこまでもついていく」と誓ったのに、肝心な時には「あんな人なんか知らない」と言って、逃げ出したペトロではなかったでしょうか。これもまた、相当の裏切り行為です。卑怯極まりない人間です。のたうち回るほどに後悔して、自殺してもおかしくないでしょう。パウロもまた、一体どれだけのイエスさまの弟子たちを、クリスチャンを迫害し、死に追いやったことでしょう。後悔し、罪責感に押しつぶされそうだったに違いありません。ユダよりも、パウロこそ青ざめたまま首をつってもおかしくありませんでした。

 しかし彼らは死にませんでした。それどころか、罪を犯しながら、後悔しながらも、希望にあふれて歩み始めました。どうしてでしょうか。彼らは少なくとも、「祭司長や長老たち」のもとには帰りませんでした。そう、彼らは帰るべき正しい場所を、イエスさまに教えてもらっていた、と言えるのかもしれません。例えば、ある放蕩息子のたとえです。

 「…彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)

 ペトロやパウロは、「首を抱き、接吻」してくれる父のもとに帰ったのです。イエスさまが弟子たちに求めたのは、罪を犯さない人間になること、立派な人間になることではありませんでした。ただひとつ、正しい場所に帰ることでした。罪を犯し、もうダメだと自暴自棄になり、「銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死ぬ」その直前に、こう思うことでした。

 「お父さんのもとに帰ろう!」

 イエスさまが、死の淵に吸い寄せられるわたしたちに求められることのすべては、これです。ペトロやパウロはこのことに気づかされたのです。彼らは確かに取り返しのつかない罪を犯しました。パウロは「わたしは、その罪びとの最たるものです」(1テモテ1:15)と心から後悔しています。しかしそれでも、帰れました。天の父のもとに、情けない姿で、プライドを捨てて、恥ずかしい姿のままで帰っていくことができたのでした。

 なぜなら、天の父が、駆け寄よるようにして、そんなわたしを抱きしめ、そして赦してくれる。そして宴会まで開いてくださる。そう信じることができたからです。

 わたしたちも、多くのものにつまずき、裏切り、失敗を重ねてきました。その一つひとつ思い出せば、気がふさがって倒れそうになります。でも今、この限りなく赦すイエス・キリストの父なる神を知るとき、本当に帰る場所を知るとき、とにかく今日は帰ろう、そう思えます。このままトボトボ、少し寄り道するかもしれないけど、帰りたいと願うことでしょう。

 わたしたちは、ユダの死を決して無駄にしてはならないでしょう。どんなに惨めで駄目なときも、いえそんなときにこそ、ご一緒に、天の父のもとに帰りたいものです。