福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月3日 ≪降誕節第2主日/新年礼拝≫ 『ここは、主の家』ルカによる福音書2章41~52節 沖村裕史 牧師

1月3日 ≪降誕節第2主日/新年礼拝≫ 『ここは、主の家』ルカによる福音書2章41~52節 沖村裕史 牧師

■最初の言葉
 「一年の計は元旦にあり」と言われます。「物事の始めに、その本質が宿る」と言い換えてもよいでしょう。物事の始め、始まりこそ、物事の本質を端的に示し、また、その本質を決定するということです。
 今年、最初に与えられた聖書の言葉は、イエスさまの少年時代のエピソードです。
 「イエスが十二歳になったとき」とあります。マリアとヨセフ、両親にしてみれば、ここまで育て上げるのに、言葉にならないほどの苦労があったに違いありません。思い返せば、マリアはイエスさまを授かったことで、普通では考えられないような経験をしてきました。婚約者であるヨセフから疑われ、ナザレの村人たちや親戚からも白い目で見られるようなことがありました。ヘロデの手から逃れるため、しばらくの間、エジプトで乳飲み子を抱えての難民生活を強いられました。それもこれも、イエスさまを授かった故でした。
 マリアにしてみれば、ここまで育てるのにどれだけの苦労をしてきたことでしょうか。この年の過越祭に来て、「あと1年で、この子は成人する」と考えただけで、何か内側からこみあげるものがあったでしょう。
 祭りも無事終わり、ナザレへと帰る途中、二人は、わが子を見失います。二人の心は、不安でいっぱいだったことでしょう。巡礼の仲間たちと別れ、ふたたびエルサレムヘの道を引き返します。祭りが終わり、それぞれの地へと帰っていく巡礼の群れはどこまでも続いています。その群れに逆らって、その波をかきわけながら、その群れのどこかに迷いこんでいないかと、わが子を捜し尋ねながらエルサレムヘと戻りました。
 夜も眠らずに三日も捜しまわって、ようやく見つけ出したところで、マリアとヨセフは、わが子から意味不明の言葉を投げかけられます。49節、
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」
 これが、聖書の伝える、イエスさまの最初の言葉となります。
 少年時代のエピソードといった外見を取ってはいますが、ここに語られる「あなたはわたしをどこに捜しているのか」「わたしが自分の父の家にいることを知らないのか」というこの言葉こそ、最も重要な問いかけとなっています。問いかけのキーワードはふたつ、「捜す」、そして「父の家」です。

■捜し求める
 まず、「捜す」ゼーテオーです。
 人は大事なものを見失えば、それを捜し回ります。 商人は真珠を「探し」(マタイ13:45)、羊飼いは迷い出た一匹の羊を「捜し」(同18:12)、女は銀貨一枚を念入りに「捜します」(ルカ15:8)。真珠は値の張る商品、羊は手塩にかけた財産、銀貨は苦労して稼いだ生活費だからです。そのことから、この言葉は「願う・求める」という意味にもなります。信じる者は、上にあるものを「求め」(コロサイ3:1)、自分の益を「求めず」(1コリント10:24)に、平和を「願います」(1ペトロ3:11)。
 この二つの意味を巧みに用いるのは、人々から忌み嫌われていた徴税人ザアカイの物語です。ザアカイは、イエスさまがどんな人か見「ようとし〔まし〕た」が、背が低かったので見ることができず、いちじく桑の木に登ります。するとイエスさまがそのザアカイに目を止め、彼の家に泊まられます。ザアカイと出会い、共にいてくださるのです。喜び溢れるザアカイにイエスさまは、「今日、救いがこの家を訪れた…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と宣言されます。「探す者」は必ず見いだすことができます。なぜなら、神が捜してくださるからです。
 もうひとつ、イエスさまが十字架にかかって死なれてから三日目に、墓場で泣く女たちが聞いた、天のみ使いの言葉が思い起こされます。24章5節以下、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。神がこの世界に与えてくださった御子は、単なる歴史上の偉人でも、過去の遺物でもありません。本の中にひそんでいる架空の存在でもありません。イエスさまは、甦られて、今もここに生きておられる、今、生きて語りかけておられる、と福音書は教えます。
 ところが、わたしたちは、的外れな場所ばかりを捜し求めてしまいます。この時のヨセフとマリアのように、不安と恐れに心ふさがれ、的外れの場所ばかりを捜し求めては失望します。罪とはまさに「的外れ」という意味です。
 わたしたちは、何度も何度も、捜す場所を間違えてしまいます。
 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。…それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」とは、ヨハネによる福音書(5:39-40)に記されているイエスさまの言葉です。人々は神殿に詣で、そこで聖書を読みながらも、そのことが「生ける神」、「今ここに生きておられる神」とつながっていませんでした。神は単なる抽象的な観念にすぎなくなり、信仰は、今ここに救いがもたらされているという福音の光を見失い、生ける力とならず、ただ律法を、掟や決まりを守るだけのものへと変えられました。
 今、イエスさまは、自分が「父の家」にいて、何がおかしいのかと問い返されることによって、わたしたちが不安の中に的はずれの場所を捜し求めずとも、神の方から捜し出してくださり、今もここに、わたしたちの傍にいてくださるのだという福音を示し、真の信仰を回復してくださろうとしています。

■父の家
 二つ目のキーワード、「父の家」は、実は意訳で、正確な訳とは言えません。
 ルターは、「わたしが自分の父の家にいる」という言葉を、もともとの言葉に忠実に、「わたしがわたしの父の事柄―出来事の中に、あるいは、父に属することの中にいる」と訳しています。ここに「家」という言葉はありません。ただ、イエスさまはどこにおられるのかということが話題になっていて、マリアたちもどこにおられるかと捜していたことから、イエスさまはわたしの父に属している、わたしの父の事柄の中にいる、つまりわたしの父の家の中にいると理解し、現在のような訳になっています。しかし本来は、わたしはわたしの父に属する者、わたしは父なる神のものだ、そうイエスさまは言われているのです。
 その意味で、もうひとつ注意いただきたいのは、マリアの「お父さんもわたしも心配して」という言葉です。この「お父さん」という日本語的な表現も実は、原文では「あなたの父」です。あなたの父もあなたの母であるわたしも、あなたのことでどんなに心配したことか。マリアはそう言います。それに対してイエスさまもまた、「わたしの父」と答えておられるのです。もちろん、ご自身の父である神のことです。
 マリアとヨセフはこのとき、とても大切なことを見失っていました。イエスさまの本当の父は別におられるのだ、ということです。
 過越祭のたびにエルサレムに上るほどの信心深さを持っていたヨセフです。わが子イエスの生まれた時の誕生の秘密を心にとめ、そのことを受け入れ、思い巡らすことのできるマリアでした(2:19)。しかし、そんなヨセフもマリアも、むしろ親であるがゆえに、あるいは不安と恐れのために、真実のイエスさまの姿を、わが子イエスが誰に属するものであるのか、誰のものであるのかを見失っていました。
 これは、わたしたちの姿でもあります。
 「子は授かりもの」、わが子が神から与えられたかけがえのないいのち、存在であることを忘れ、まるで自分の所有物のように見てしまう過ちをわたしたちもしばしば犯してしまいます。教育学者の村瀬幸浩が、親の子どもに対する過干渉に触れ、こう記しています。「ではなぜ親はそんなに子どもに執着するのか。それは親が一人の大人として、安心して生きていないからではないか。子どもとのかかわりの中でしか、自分の存在感を感じることができないとか、親自身が自己肯定的な展望を持っていない、そんなふうに思えるのです。夫婦の間で、楽しい将来が待っているというふうになかなか感じられないから、子どもが離れていくことに耐えられないのでしょう」と。
 つまり、親自身が自分自身のあり方に満たされない思いがある時に、子どもを通してその満たされないものを満たそうとすることがあるというのです。本来、夫婦の間で満たすべきことを、子どもとの関係の中で満たそうとする夫婦もあります。
 それと同じように、信仰生活の中で、わたしたちはいつのまにか、イエスさまが自分の手の中に入っている、と思い込んでしまうことがあります。自分の望む、自分の欠けを満たしてくれるイエスさまだけを捜し、求めます。そして、その手の中に入っているはずのイエスさまが見失われるとき、不安と恐れを抱きます。
 マリアとヨセフも、そんな不安と恐れに囚われ、とても大切なことを見失っていたのかもしれません。

■当たり前
 大切なこと。わたしたちがもう一度見出さなければならないのは、本当のイエスさまのお姿です。
 この地上に神のみ子が来られたということは、神そのものが来られた、ということです。愛の神が、そのようにして、この世界にご自分の支配を、愛の支配を打ち立てておられるのだ、ということです。そのようにして、わたしたちは生かされ生きているのだ、ということです。
 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とイエスさまはお答えになっています。
 「当たり前」とは、神の必然性を表す言葉です。「ここにいなければならない、それが神の御心だ」ということです。とても自然なこと、当然のこと、神の御心として、わたしはここにいる、と言われるのです。
 冬から春になるとき、凍った土の中に隠されていたひとつの種が芽を出し、やがて葉が出、花が咲き、実が生じるのは、自然で、当然なことです。それが神の御旨であるように、イエスさまにとって、父に所属する者、父に連なる者であること、そして、今ここにおられることもまた、神の御旨でした。
 そのことは、わたしたちの努力によるのでもなく、わたしたちの知恵によるのでもなく、ましてや、わたしたちの正しさによるのでもなく、ただ神の御心によることでした。自然の定めで、種があって花が咲く必然性があるように、神が生きておられるということは事実であり、必然なのです。
 そのようにして、愛の神は、今ここに生きておられ、生きて働いておられるのです。御子イエスは、その神が神として当然なすべきことをなさるために、父なる神がこの世に与えられた存在なのです。
 その御子イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と宣言してくださいました。そして「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とも言われました。神のみ言葉を聞いて行う人たちが集うところに神の家族があり、そこにイエスさまがおられる、イエスさまの家があるのです。 わたしのような、小さく、貧しいところにも、神の御子が来られて、今ここに、神の国(神の支配)を始めてくださっているのです。
 ここもまた主の家です。神のみ言葉を聞いて従う、神の家族の一人ひとりが、主の家とされているのです。
 ここに福音のあることを知っているからこそ、新しい年も、この世にある悩みと共に、悩みつつ生きていくことができます。悩みの中で、「天にましますわれらの父よ」と呼び続けることができます。たとえ何があっても、この恵みを忘れることなく、ご一緒に歩んで参りましょう。