福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月2日 ≪聖霊降臨第18主日礼拝≫『突然の相続に…』エフェソの信徒への手紙1章3〜14節 沖村裕史 牧師

10月2日 ≪聖霊降臨第18主日礼拝≫『突然の相続に…』エフェソの信徒への手紙1章3〜14節 沖村裕史 牧師

■祝福

 エフェソの信徒へあてられたパウロの言葉はとても印象的です。

 特に心に残るのは、冒頭3節の「祝福」という言葉です。実は、最初と途中と最後に三度も繰り返される「たたえる」という言葉もまた、この「祝福」と同じギリシア語です。

 アメリカの神学者ウィリアム・ウィリモンの言葉に、はっとさせられました。「祝福」ということは、ただ美しい言葉であるというよりも、もっと具体的な事柄、もっと価値あるものを渡すことだ。祝福するとは、単なる言葉ではなく、自分の大事なものを相手に差し出すことだ、と言います。とすれば、神の祝福とは、最も良いものを受け取ること、神様の最も良いものをわたしたちがいただく、ということです。

 そして、今ここでパウロが語ろうとしていることこそ、わたしたちが祝福に相応しいかどうかとは関わりなく、神様がイエス・キリストにおいて、わたしたちを祝福してくださっているのだ、ということです。11節の「キリストにおいてわたしたちは、…前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」というこの言葉が、その祝福の意味を端的にわたしたちに示し、教えてくれています。

 「相続者とされた」

 ある日突然、名前も知らない人の遺言によって、莫大な相続財産が転がり込んでくるとします。それも、わたしたちがそれを望んだというのではなく、わたしたちの預かり知らぬところで、ずっと前から約束されていたのだ、と言います。しかもその約束は、4節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…お選びになりました」とあるように、わたしたちがそれに相応しいからではなく、ただわたしたちを造られた神様の愛ゆえだと言います。

 どういうことでしょう。

 

■望まれて

 中学生の頃、思いっきり親に反抗していました。「親だから、あなたのことが心配なのよ」と事あるごとにうるさく言う母に、「心配なんかしなきゃいい。そもそも、あんたに産んでくれ、親になってくれと頼んだわけでもない」と口汚い罵声を浴びせていました。今思えば、身が竦(すく)むほどの酷い言葉ですが、ただやり場のない感情を口走ってしまっただけの情けないその言葉が、まったくの偽りだとも言い切れません。

 確かに、誰ひとりとして、自分の意思で、自分の力で、この世に生まれてきた者はいないのです。また、死ぬときを知り、そのときを自分の自由に決めることのできる者もいません。生まれることも死ぬことも、わたしたちの自由にはならないこと、わたしたちにはどうしようもないことです。

 そのことを聖書は、生と死そのものであるわたしたちのいのちは、わたしたちを越える存在、神が与えられたものだと教えます。神様がいのちを与えられた、神様がわたしたちを造られたのだと語ります。

 そうです。あらゆるものは造られ、生まれてきました。虚空(こくう)から突然出現したものは何ひとつありません。星にも誕生があり、のら犬にも誕生日があります。目には見えない勇気や希望だって「生まれる」もので、無から沸き起こるわけではありません。すべてのものが、そのように「造られたもの」「生まれたもの」であり、生み出す源である造り主なる神を前提としています。

 生み出す側の「望み」がなければ、小さな虫―今朝、教会学校でお話をしたテントウムシ一匹でさえ、生まれてくるはずがないのですから、「生まれた」ということは、すなわち「望まれた」ということで、このわたしたちも例外ではありません。それも、単に親の望みのことではなくて、この世界のいちばん根源にあると言えるような望み、願いです。そしてそれだけが、あらゆるものの存在の根拠です。わたしたちの生きていることの意味、理由です。

 人がひとり生まれてくるためには、そのために必要なあらゆる要素が、その誕生をうながす悠久の磁場の中で寄せ集まり、奇跡のように組み合わされていかなければなりません。わたしの父がいなければ…、わたしの母がいなければ…、二人が出会うことなく、何よりも、出会った二人が愛し合わなければ…、わたしは、今ここに存在しません。

 どんなに小さなひとりでも、その誕生は、驚くほどの偶然の積み重ね、奇跡と言う外ない出来事によって―それを聖書は神の御心、神の愛と言いますが―、人は誰もが例外なく、天地創造の初めから用意されていて、ふさわしい瞬間に大きな祝福を受けて生まれるのです。

 

■選ばれて

 自ら望んで生まれてきた人はいません。しかし望まれずに生まれてきた人もいません。すべての人が、そのような愛の中に造られ、生れてきたということ―それが、わたしたちが神様の相続人として選ばれていることの、ただひとつの理由です。

 わたしたちに、相続人としての特別な資格があるのではありません。いのち与えられた、ただそれだけの理由で、神様はわたしたちを愛してくださるのです。わたしたちでさえ、自分が初めてつくった料理や、勇気を出して書いたラブレターや、心を込めて編んだセーターは、それがどれほど不出来なものだろうと、大切で、かけがえのないものであるはずです。ましてや、神様は愛のお方です。ご自分が造られたわたしたちを愛されないはずはありません。それだけが、わたしたちがいのち与えられ、愛され、神の相続人として選ばれ、神様の子どもとされている、ただひとつの根拠です。

 思いがけず相続人とされた人はきっと、思いがけないことに戸惑いながらも、予測もしていなかった経済的な安定を、冨を得ることができたと考えて、心密かに喜ぶことでしょう。たとえそれが、いつ失われるかわからない、そしてよく目にし耳にするように、何らかのトラブルの原因となるこの地上の富であったとしても、きっと喜ぶことでしょう。この地上での相続財産であれば、その財産の使い道に無関心である人はいないでしょう。きっと多くの人は、その財産の使い道についてあれこれと思いを巡らすことでしょう。

 しかし今ここに語られる、神様の相続者とされたということは、目に見える、この地上の富としての財産を与えられたということではありません。それは、神様にいのち与えられ、愛されている神様の子どもとして選ばれ、受け入れられ、神の御国の世継とされ、永遠のいのちへと招かれているということです。わたしたちは、「相続者とされた」というこの知らせを、地上の相続権を得たという知らせと同じように、いいえ、それ以上のすばらしい知らせとして、深い喜びをもって聞くことが果たしてできているでしょうか。そして、この遺言状を聞いて、揺らぐことのない安心感と希望を得ているでしょうか。

 パウロは今、そのことをわたしたちに問いかけています。

 

■あと一歩

 イエスさまのもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねたひとりの青年のことを思い出します。彼はまさに、わたしたちのための代表質問をしているようなものでした。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」

 イエスさまが本当に救い主であるなら、それこそが聞くべき質問のトップでしょうし、その答えを知るためなら何を犠牲にしてもかまわないということでしょう。ところが、イエスさまが「すべてを売り払って、わたしに従いなさい」と答えると、彼は悲しみながら立ち去ってしまいます。聖書はその理由を、「たくさんの財産を持っていたからだ」と語ります。

 実に残念です。全く次元の違う、地上の「財産」と天上の「財産」とを天秤にかけてしまうなんて…。

 地上の財産とは、この世のいのちのためのものです。有限で、不完全なこの世のいのちを、ひととき守り、つかの間慰めるためのものであって、それ自体が悪いものだというのではありません。最近、小学生に「幸せのために必要なものは」とアンケートしたら、最も多い答えが「お金」だったという、何を今さらというニュースが流れていましたが、別に嘆くにあたりません。この世の価値観の中で、こどもたちは当然のことを答えているだけで、この世のお金とは本来、そういうものです。

 しかし、神の御国、永遠のいのちは、神様からの純粋で完全な贈り物であって、この世のいかなる財産に頼る必要もないものです。この世のいかなる掟や律法に守ってもらう必要もありません。この世のいかなる幸せを付け加える必要さえありません。

 神の御国、永遠のいのちこそは、「神の愛」による一方的な贈り物、地上のどんな財産にも勝る「天の冨」であって、むしろ、それやこれやの、この世の不完全を脱ぎ捨てたところに開け、与えられるものです。

 悲しみながら立ち去った青年に、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。そう、実は、イエスさまご自身が、その彼の求めてやまない神の御国、永遠のいのちそのものなのです。究極の答えは、いつでも超越的な世界からやってきて、突然、目の前に立ち現れるものです。

 その「わたしに従いなさい」というイエスさまの招きは、決して無理難題を吹っかけているのではなく、ただわたしを信じて従えば、それでもう神の御国を、永遠のいのちを生きていることになるんだよという、これ以上はない愛の言葉でした。

 ただ、イエスさまについていけばよかったのです。そうすれば、あと一歩で、神の御国の世継ぎとなり、永遠のいのちへと生まれるところだったのです。

 

■わたしのところに来なさい

 神様によって愛され、選ばれ、招かれているわたしたちは、そのことに心から感謝し、大きな喜びを持って応えていくことができれば…そう願わずにはおれません。応えるために特別な何かが必要なのではありません。いえ、むしろ何もない方がよいのです。ただイエスさまに従うこと以外に、何も必要ありません。

 アメリカ、カリフォルニア州のグレンデール市にあるフォレスト・ローン記念公園という墓地に、アーネスト・ガゼリ作の『人生の不思議』と題する彫刻があり、母親の胸に抱かれた幼な子、愛し合っている若い男女、年老いて憂いをたたえている人の姿などが刻まれています。

 その像が問いかけてきます。人はなぜ生まれてくるのか。人はなぜ恋し、結婚し、子どもを育て、ついには塵に帰らなければならないのか。また、人はなぜ病気になるのか、思いもしない不治の病にかかり、苦悩を味わわなくてはならないのか…と。彫刻の下のところに、「解答は左前方を見よ」と書かれています。その方向を見ると、少し離れたところにイエス・キリストが手を広げている立像があります。人生の難問を解決する方は、イエス・キリストだというのです。

 教会員の友人であった女性が緊急入院をしました。身体(からだ)全体に激しい痛みを訴え、自分の身辺処理にも不自由を強いられていました。経済的な問題も抱え、早く退院したいと申し出ていましたが、家には家族の問題が山積し、離婚話さえ出ているとのことでした。

 求めに応じて彼女のもとを訪ねるようになりました。ベッドの傍らで何度も、長い時間、その苦しみや悲しみを聞かせていただきましたが、具体的な解決も見出せず、わたし自身、無力感に襲われるばかりでした。

 そうしたある日、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というイエス・キリストの言葉に、彼女は捉えられました。そして、イエス・キリストにすがり、やがて信仰を持つに至った彼女が、こう呟きました。

 「先生、わたしは今まで、ただ自分のことばかり考えていました。身体の痛み、経済的問題、夫や子どもの問題について不平不満ばかりでした。…先生、でも、イエスさまの懐にこそ本当の安らぎがあるのですね。神様を仰ぎ見ればよいのですね。…先生、不思議なんです。イエスさまが身近に感じられると、心が温かくなり、自分ほど幸福な者はいないと思えて、ただ『イエスさま、イエスさま』と繰り返すんです…」

 彼女は日ごとに元気になり、信仰に支えられ、問題は依然として目の前にありましたが、平安のうちに退院していきました。

 イエス・キリストは、「わたしのところに来なさい」と言われます。そして、そこへ行くのも、行かないのも、わたしたちの自由です。キリストにすがっても、ひとつも現実の問題の解決にならないと言う人がいます。当面の問題に、それを解決することだけに目を奪われているからです。

 けれども、キリストの目は、山積する問題を抱えて、痛み、苦悩し、絶望しているその人自身に向けられています。苦悩と絶望の中で不平不満をもち、自分を呪っている人が変えられることをこそ、神様は望んでおられるのです。

 もし、わたしたちが地上の富を必要とせず、地上のいのちに囚われないでいることができるとすれば、それは、神様がわたしたちを愛し、選んでくださって、天の富、神の御国、永遠のいのちの相続人としてくださったからです。もうすでに、わたしたちのためにキリストの十字架が立てられ、わたしたちのためにキリストの復活のいのちが約束されたからです。そしてある日突然、名前も知らない人の遺言によって、莫大な相続財産が転がり込んでくるようにして、今もここに、わたしたちのためにイエスさまが招きの言葉をかけてくださっているからです、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と。感謝です。