福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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10月24日 ≪降誕前第9主日—朝拝≫ 『愛は裁きに勝る』 マタイによる福音書18章21~35節 沖村裕史 牧師

10月24日 ≪降誕前第9主日—朝拝≫ 『愛は裁きに勝る』 マタイによる福音書18章21~35節 沖村裕史 牧師

≪説 教≫

■赦されるべきは?

 西宮に住んでいた頃のことです。今は広島大学の教授をされているT先生から中古のバイクをいただき、早速そのバイクに乗って、教会に向かって走っていました。と、右側後方から追いついてきたワゴン車が、ウィンカーもつけずに急に目の前で左折しました。危ない!なんてひどい運転をする人だろう。腹を立てて、追いかけて行って注意をしました。

 「危ないでしょう。あんな曲がりかたして」

 すると、「うるさい。バカヤロー!」なんて無礼な。

 それでわたしはどうしたか。スゴスゴとひき返しました。クヤシイ!でも、牧師になろうとする者がケンカするわけにもいきません。

 ある日、教会の駐車場に勝手に駐車した車の後ろに、教会の青年が駐車したまま、どこかに行ってしまいました。さて、前に駐車した人は出ようにも出られません。「カギを教会に預けないなんて非常識な!」と怒っていましたが、どちらが非常識なのか、よくわかりません。

 結局のところ、わたしたち人間はみんなエゴイストだということです。自分中心で、自分のしていることは正しくて、人のしていることは間違いだらけ。しかし、本当にいちばんひどいのは自分自身だ、とは気がつきません。

 旧約聖書にも、ダビデ王が預言者ナタンから、「それは、あなただ」と罪を指摘されるところがあります。サムエル記下12章の場面です。自分の部下ウリヤの妻を奪うために彼を戦場に向かわせて殺した、その罪をナタンから告げられるまで、偉大な王と言われたダビデでさえ、自分の過ちに気がつかなかったのです。

 ある時、イエスさまは、ファリサイ派の人の家に食事に招かれました。するとそこに、その町で「罪の女」というレッテルを貼られていた女が入って来て、自分の流す涙でイエスさまの足を洗って、それを自分の髪で拭い、そして足に接吻し、香油を塗りました。ファリサイ派の人は、そんなことを許しているイエスさまを軽蔑しました。するとイエスさまは、たくさんの借金を帳消しにしてもらった人と、少しだけ借金をしていてそれを帳消しにしてもらった人と、どちらが赦してくれた人をより愛するだろうかと、譬えを用いてお尋ねになりました。弟子のシモンが、「帳消しの額の多いほうだと思います」と答えると、この女性こそ、多く帳消しにしてもらったと思って誰よりも深く感謝しているのだ、と言われました。

 つまり、人を裁いている間は、自分こそいちばん赦されねばならなかった者だという自覚がないのだ、ということを示されたのでした。

 今、イエスさまが「七の七十倍するまでも赦しなさい」と言われる時、それは、赦す「忍耐」を求められたのではなく、実に、自分こそ裁く資格のない人間であることに気づけ、と言われたのではないでしょうか。

 

■我慢くらべじゃない

 とは言え、「七の七十倍するまでも赦しなさい」と言われると、わたしたちはどうしたらいいのだろうかと考え込んでしまいます。

 「我慢をしなさい。お互い人間なのだから過ちもあるだろう。赦してやりなさい」。イエスさまに教えられなくても、誰もが知っている知恵です。当時のユダヤ教の教師、ラビたちも民衆に意見を求められ、我慢して、耐えて、赦してやらなければいけないと教えたようです。でも、どこまで我慢したらよいのか。そのことが問題となりました。そこでラビたちは、「三回までは赦してやりなさい」と教えました。「仏の顔も三度まで」ということわざと同じです。三という数字は、完全数―聖なる数の一つです。三度までは神様も勘弁してくれるだろう。神様が赦してくださるなら、わたしたちも、そこまでは赦してあげなければならない。とはいえ限度があります。四度目になると、もう赦す必要はなくなる。そこまで寛容になる必要はありません。

 ペトロが「七回までですか」という問いは、この「三回まで」という世間の常識の超えるものでした。驚きの言葉です。イエスさまは、世間の常識よりももっと深い愛を説くお方だ。ペトロはそういうことを計算に入れて、少し先回りをして、先生に褒めてもらいたいと思ったのかもしれません。世間の人は三回までと言っているけれど、もっと増やして、七回まで赦してやればよいのでしょうか。七も完全数の一つです。七回も赦せば、完璧な赦しになると思ったのでしょう。

 ところが、イエスさまは「七の七十倍するまでも赦しなさい」とお答えになります。そしてその意味を説明するかのように、一万タラントンを赦した王の譬えをお話しになります。

 でもこの譬え話、七の七十倍するまでも赦すのはなぜか、ということの直接の説明にはなっていません。この話の中に、たとえば、ある人がペトロの言うように自分の仲間の罪を七回までは赦してやった。ところが、八回目の罪を重ねた時に、もう我慢ができなくて殴り倒してしまったか、牢獄に放り込んでしまったかした。そういう姿が描かれていて、それに対してもっと忍耐深く、もっと愛の大きな人が、それとは別に七の七十倍するまでも赦してやった。そういう話が語られているのではありません。

 もともと赦しは、道徳の問題―自分の徳の高さや寛容さの問題ではありません。一度しか赦せない人間よりも、三度まで赦せる人間の方が偉い。三度しか赦せない人間よりも、七回赦せる人間の方が偉い。七回しか赦せない人間よりも七回を七十倍するまで赦せる人間は偉い。そういう話ではありません。偉さの問題ではないのです。

 七の七十倍する、それだけの忍耐力を持っている人間が四百九十回は赦せたが、四百九十一回目の罪を重ねられた時には、どうするのか。七回我慢した人間が八回目にやり返すよりも、四百九十回我慢したときの報復の方がはるかに激しいかもしれません。わたしたち人間のすることは、そういうことでしかありません。こんなに我慢してあげているのに、まだ分からないのかということになってしまうのです。

 イエスさまはここで、我慢くらべをさせようとしておられるのではありません。

 

■愛されているから

 では、どんなお話しなのでしょうか。

 そもそも一万タラントンという金額は、十数万年分の賃金にあたります。一タラントンが六千デナリオンですから、六千万デナリオンということになります。一デナリオンが、当時の労働者一日分の賃金とされていましたから、仮にそれを一万円として換算してみると、六千億円という巨額になります。ちなみに、当時の王ヘロデ・アンティパスがその所領ガリラヤとペレヤから得た年収は二百タラントンで、ヘロデ・フィリポが百タラントン、ユダヤを統治していたアケラオスは六百タラントンでした。権勢を誇った王たちの一年間の税収が数百タラントンの桁であったとすれば、一万タラントンという金額が、どれほど法外な金額であったかがお分かりいただけるでしょう。

 つまりこれは無限の負債です。現実にこれを借りることも、返済することも到底不可能な負債でした。そこで主人は家来に、妻子も財産も、すべてを売り払って返済するよう命じたと言います。

 「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」

 「どうか待ってください」と訳されている言葉は、直訳すれば「わたしに対して寛大であってください」となります。それに続いて、「きっと全部お返しします」と言っているのを見ると、家来はそれでも何とかして負債を償おうとしています。免除されることなど、考えもしなかったのでしょう。しかし思いもかけず、主人は、この返済を無条件に免除してくれたというのです。この話にわたしたちは驚き、そして感動します。

 以前、こんなお話をしたことがあります。まだ小さな頃のこと、休みになると、バスで30分くらいかかる所に住んでいた祖母のところに遊びに行くのをとても楽しみにしていました。祖父は母が中学生のときに病気で亡くなって、祖母は一人で暮らしていました。ふくよかで、とてもやさしい人でした。わたしの大好きなオムライスやホットケーキをつくってくれたり、中に入って遊ぶことのできる大きな段ボールをいつも用意してくれたり…。でも、いちばん嬉しくて、大好きだったのは、祖母がいつもにこにこしていることでした。祖母の怒った顔を見たことがありません。わたしがいたずらをしたり、悪いことをしたときにも、決して怒ったり、叱ったりするようなことはありません。ただ、そんなときに決まって、少しだけ悲しそうな顔をします。大好きな祖母です。その悲しそうな顔をみると、わたしも悲しくなって、素直に「ごめんなさい」と言うことができました。素直に「ごめんなさい」と言えたわたしのことを、祖母は嬉しそうに褒めてくれました。それがまたとても嬉しくて、祖母のそばにいると、わたしはいつも温かな気持ちになりました。

 こどもを叱ったり、厳しく躾(しつ)けようなんてしなくても、こどものことを愛していれば、こどもは愛されていることを感じて、してはいけないことを自然に学びます。たとえ悪いことをしたときでも、素直に「ごめんなさい」と言うことができるようなります。愛されていることを知っているからです。必ず赦されることが分かっているからです。それは、大人のわたしたちも同じはずです。

 ところが、わたしたちは、人のことを非難ばかりしています。決して赦そうとしません。口では、「ごめんなさい」と言えば赦してやるのに、まず自分の罪を認めて悔い改めなさい、そうすれば赦してやろう。わたしたちは、いつもそう言います。でも、本当にそうでしょうか。「ごめんなさい」と言われれば、「そうだ、おまえが悪いんだ」とか、「本当にごめんなさいと言っているのか、口先だけじゃないのか」と言って、さらに責め立てます。最近の裁判を巡る様々な発言や社会の風潮は、謝罪があって初めて赦される、悔い改めがあって赦しがある、そんな風です。でもそこに、本当の赦しがあるのでしょうか。決してありません。

 ここでも注目すべきは、人が自分の罪を認めて、悔い改めることが赦しの条件であるなどとは、どこにも書かれていないことです。

 これと同じ言葉を、ルカはこう記しています。

 「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3-4)

 「悔い改めれば」です。ユダヤ教も同じです。ラビの伝承によれば、誰かが人に罪を犯した場合、相手に赦しを乞うことが、神の赦しにあずかるための条件でした。神の赦しにあずかるために、人に謝罪することが必要だとすれば、人間同士の赦しについても、謝罪が求められるのは当然のはずです。ところがペトロの問いにも、そしてイエスさまの答えにも、そうした悔い改め、謝罪の条件は全くありません。無条件の赦しが問題とされています。

 イエスさまがここで言われていることは明らかです。

 神様は、あなたたち一人ひとりに無限の愛と赦しを与えてくださっている。一人ひとりに今日というかけがえのない日、生きている喜び、出会い、恵みのすべてを無償で与えてくださっている。先週、天の国は「今、ここに」ある、というお話しをいたしましたが、文字通り、今ここに、小さく、弱く、過ちばかりを繰り返している者に、いいえ、そのようなわたしたちにこそ、神様の恵みが与えられているのです。それなのに、その恵みに、愛と赦しをもって応えず、逆に怒って、仲間の、友の首を絞めているような、わたしたちの毎日です。

 どうか、怒りによって人を裁いている自分こそ、いちばん赦されるべき、罪深い者なのだという自覚を持ちなさい。それでも大丈夫、そんなあなたたちを神様はどこまでも赦してくださっています。それは、いのち与えられた者への神様の限りない愛ゆえです。それは、神様からの一方的な贈り物、恵みです。だから、あなたたちも神様の愛に応えて、人を裁かずどこまでも赦しなさい。そう言われるのです。

 わたしたちが人をどこまでも赦すことができるとすれば、それは、わたしたちの忍耐によってではありません。それは、わたしたちが愛されていることを知っているからです。その限りない愛において、わたしたちもまた人を愛することができます。人を赦して、人を愛するのではありません。人を愛するからこそ、人を赦すことができるのです。

 その神様の限りない愛に感謝いたしましょう。そして、その大いなる愛に応え、たとえどんなに小さくとも愛を持って、今日からの一週間をご一緒に歩んで参りましょう。