福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

10月31日 ≪降誕前第8主日/宗教改革記念日—朝拝≫ 『神が結ばれた』 マタイによる福音書19章1~12節 沖村裕史 牧師

10月31日 ≪降誕前第8主日/宗教改革記念日—朝拝≫ 『神が結ばれた』 マタイによる福音書19章1~12節 沖村裕史 牧師

≪説 教≫

■離婚の条件

 イエスさまは今、住み慣れたガリラヤを後にされ、ご自分に定められた十字架への道を進みゆかれます。そこに登場したのは、イエスさまを慕い、救いを求めて付き従う「大勢の群衆」と、こっそりと近づく「ファリサイ派の人々」でした。そしてイエスさまにこう尋ねます。

 「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」

 「何か理由があれば」とあるように、ファリサイ派の人々が直接問題としているのは、離婚の条件、その是非についてです。彼らにとって、夫が妻を離婚することが律法に適うことであるのは当然のことでした。そのことを些かも疑っていません。申命記24章1節に、こう書かれていたからです。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」

 7節の「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」という問いは、この申命記の言葉を指しています。彼らは、これを神ご自身の御心であると受け止めました。その上で、そこに書かれている「恥ずべきこと、気に入らないこと」の内容について議論し、そこに様々な条件を付けていたのでした。

 この申命記の言葉をどう思われるでしょうか。女性の皆さんは「なんと身勝手で一方的なものか」と怒り心頭でしょう。当然だと思います。そもそも、この「離縁」という言葉は、「離れて置く、片づける、遠ざける」といったニュアンスの、売却などによって所有権を放棄することを意味する法律用語です。女性を「もの扱い」した言葉です。しかも、離縁されるその理由は、「何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき」とされていますから、とんでもない話です。この「恥ずべき」という言葉も本来は、「無作法」という意味ですが、皆様はともかく、わたしの経験から申し上げれば、無作法なら誰にでもあることですし、「気に入らなくなる」ことなどは日常的なことですから、もし聖書どおりに行えば、「毎日が離婚」ということになりかねません。このような理由で離婚が許されることは、あまりにも男の一方的で身勝手な仕打ち、実に理不尽な定めです。

 

■結び合わされた

 イエスさまは、そんな彼らの議論に真っ向から反対を表明されます。

 「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」

 教会の結婚式の中で、この言葉が読まれます。牧師は結婚式の最後、集まってくださったすべての人に向かって、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉を高らかに宣言します。

 イエスさまのこの言葉は、創世記―神による創造物語、1章27節と2章24節からの引用です。注目いただきたいのは、その順序です。まず「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」です。男だけが人間ではありません。人間は最初から男と女とに造られました。男と女に、それぞれが別々の存在として造られました。男も女も、共に人間であると同時に、全く別の独立した人格です。ひとりとして同じ者などいない、自分とは別の人間です。そのことを、互いに大切に受け入れることが求められます。

 その上で、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と続きます。そのように男と女として造られた者が、やがて父母を離れて、ひとつからだとなる。二人が互いにひとつになるとは、一方が一方を自分の中に捕らえ込んでしまって、お前はわたしのものだと言い張るのではありません。二人がふたつながらにして、ひとつのからだをつくる、ということです。

 「だから…神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と宣言されます。ただ「結び合わせる」というのではありません。これは「共に」という言葉と「くびき」という意味から作られた言葉です。「共にくびきを負う」という意味です。くびきとは本来、ふたつの存在をひとつに結ぶだけでなく、労苦を分かち合い、それを共に担い合う関係を意味します。当時多くの人が、結婚とは男が女を自分の所有物として手に入れることだと考えていました。しかし男と女を、「神が」共にくびきを負うようにされたのだということです。

 結婚関係は、神による創造の御業なのです。だから、人の手でその関係を切り離し、壊してはならない、イエスさまはそう教えられます。男と女は、翻って人は、互いにくびきを負って生きてゆく、それが「二人はもはや別々ではなく一体である」ということの意味でしょう。それこそが、神様によって造られた被造物としての人間の、根源的な姿なのだということでしょう。

 

■最大の贈り物

 谷川俊太郎の「足し算と引き算」という詩が思い出されます。

  何もないところに忽然と立っている

  ひとりの女とひとりの男

  そこからすべては始まる

 

  青空?よろしい青空をあげようと誰かが言う

  そしてふたりの頭上にびっくりするような青空がひろがる

  地平線?よろしい地平線をあげようと誰かが言う

  そしてふたりの行く手にはるかな地平線が現れる

  その誰かが誰かはいつまでも秘密

  ふたりはただ贈り物を受け取ることができるだけ

 

  それからこの世の常でありとあらゆるものが降ってくる

  お金で買えるものもお金で買えないものもごたまぜに

  ふたりはとりあえず椅子に座る

  椅子に座れるのは幸せだ

  次にはテーブル

  それがいつの間にか見慣れたものに変わっていくのは幸せだ

  朝の光の中でふたりはお茶を飲む

  いれたてのお茶を飲むのは幸せだ

  だが何にもまして幸せなのは

  かたわらにひとりのひとがいて

  いつでも好きなときにその手に触れることができるということ

 

  昔はそんなのはプチブル的だなんて言う奴もいた

  でも今じゃみんな知ってる

  幸せはいつだってささやかなものだってこと

  不幸せはいつだってささやかなんてものじゃすまないってこと

 

  しかし幸せはいったいどこまでささやかになれるんだろう?

  この当然の疑問に答えるために

  ふたりは茶碗をたたきつける

  テーブルをぶっこわす

  椅子を蹴倒す

  この世の常なるものをなにもかも投げ捨てて

  青空を折り畳み地平線を消してしまう

  そして少し不謹慎かもしれないがすっぱだかになる

  驚くべきことにそれでも幸せはちっとも減らない

 

  ひとりの女とひとりの男は手に手をとって

  我ながら呆然として何もないところに立ち尽くす

  すると時間の深みからまたしても

  あの秘密の誰かの声が聞こえる

 

  「なにもないのになにもかもある

  それこそ私の最大の贈り物、それを私は愛と呼ぶのだ」

 

■頑なな心、乾いた心

 しかしユダヤの人々にとって、イエスさまのこの言葉は驚くべきもの、ファリサイ派の人々からすれば全く予想外の、受け入れがたい答えでした。

 「すると、彼らはイエスに言った。『では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。』イエスは言われた。『あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。』」

 ファリサイ派の人々とって、モーセは絶対的な存在、彼の言葉は律法―神の言葉そのもの、絶対的な権威です。しかしイエスさまは、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」と答えられます。原文のままに訳せば、「あなたの頑固な、頑なな心に向かって…許した」です。ここで使われている「頑固」とは、「乾いている」とか「枯れている」ということです。ペレアの荒れ野のような、あなたたちの乾いている心、枯れた潤いのない心に向かって、モーセはこの掟を「怒りをもって」書いたのだ、そう言われます。

 イエスさまは、離縁状を出してその関係を破棄することを肯定されません。モーセが離縁状を書くように命じたのは、離縁をしようとする夫の頑固で、乾いた心に対してであって、決して離婚それ自体を正当化するものではない、ということです。人間が神様の御前にあっても自分の権利を明け渡そうとせず、どこまでも我(が)を、エゴを貫こうとする頑なさ、頑固さへの譲歩に過ぎない。はっきり言ってしまえば、「離縁状は、夫の恥のしるしだ」とモーセは言っているだけだ、と言われるのです。

 イエスさまの時代から二千年近くを経た現代でも、結婚は自分で決めることだというのが常識となっています。もちろん結婚の選択は、他の誰かが強制するようなことではありません。あくまで本人の自主性を尊重しなければなりません。しかし、パートナーの選択は自分がするという前提に立てば、離婚の決定も自分が行うのは当然ということになります。それも結婚生活で、いろいろな困難や行き違いに遭遇するとき、どこまでなら忍耐できるけれども、どこまで来たら離婚に踏み切るしかないという考え方に立つとすれば、結局のところ、「何か理由があれば、妻を離縁することは許されるのか」と問うたファリサイ派の人々と同じになります。

 イエスさまはそういう頑なさを、厳しく退けられたのです。なぜか。結婚は神様の創造されたものだからです。離婚の禁止は、神様の造られた関係を破壊してはならないということであって、これをわたしたちの側から見るなら、結婚の選択は自主的に決断すべきことだが、それは神様の御心に対する信仰の服従としてなされる決断だ、ということになります。主権はあくまで神様の側にあって、その御前にエゴを、自分の主権を明け渡すことが求められているのです。頑なさとは、この主権の明け渡しを拒否することにほかなりません。

 イエスさまとファリサイ派の人々との対決は、ここでも神の主権を巡ってなされていることが分かります。天の国の到来、神の愛の御手が今ここにもたらされていると告げられるイエスさまの福音の中に、結婚観の決定的な更新が重大な事柄として含まれていることを、マタイはここで証言しているのです。

 

■あるがままの自分

 さらに、「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と続けられたイエスさまの言葉を聞いた弟子たちも驚きました。「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」。思わず議論に口を挟んでしまいます。弟子たちも時代の子、ファリサイ派の人々とそれほど変わらない女性観、結婚観を持っていたのでしょう。

 弟子たちの反応をご覧になったイエスさまは、今度は一転、別の話を始められます。独身についてです。

 「イエスは言われた。『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである』」

 ユダヤの人々にとっての結婚は何か。それは「産めよ、増えよ」という神様の命令に対する応答、義務だと考えられていました。しかし、ここでイエスさまはさらに踏み込んだ発言をされます。結婚しない生き方について触れられたのです。しかもそうした生き方を認めるばかりか、積極的に評価さえしておられます。これは実に画期的なことでしたし、結婚したくてもできない人も当然いたのでしょう。

 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受けいれなさい」

 「結婚できないように」という言葉を、口語訳聖書は「独身者」と訳していましたが、もともとのギリシア語には「去勢された者」という語が使われています。そして、結婚しない三つのケースが挙げられます。

 まず、第二の「人から結婚できないようにされた者」というのは、戦争による捕虜、奴隷制、性的搾取のために去勢された人々、事故などでそのような身体的状況になった人を指すと言われます。そして三つ目、「天の国のために結婚しない者」というのは、信仰的・宗教的理由で、まるで「去勢された者」であるかのように、結婚せずに独身生活をする人々のことでしょう。また「天の国のため」でなくとも、宮廷の高官職に就くために自ら去勢した人もあったようです。

 では、最初に挙げられている「結婚できないように生れついた者」とは、どういう人々のことを指しているのでしょうか。それは、「去勢」という行為をしなくても、「結婚できない人」と見られた人々のことを指すのではないか、と考えられます。聖書学者・山口里子は、この「結婚できないように生れついた者」の中には、今日でいう同性愛者他、様々なセクシャル・マイノリティーの人々や、当時の「男らしさ」という文化的規範に適合できない人々、あるいはそうしない人々も含まれていたのではないか、と指摘しています。

 イエスさまはここで、結婚という男女の交わりを中心に置きながらも、それを絶対化することなく、むしろ、様々な生き方があることを認めておられます。だからこそ、イエスさまと直接やりとりをしたファリサイ派の人々、その時代の子であった弟子たちも、イエスさまの考えがあまりにも斬新であり、画期的であったがゆえに、ついて行けなかったのでしょう。イエスさまは、そうしたことを公(おおやけ)に語られただけでなく、繰り返しそう教えられました。そのため、そのイエスさまのことに我慢ならない、赦せないと思う人々が現れました。結果、十字架が備えられることになりました。

 パウロは言います。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(Ⅰコリ7:7)。そう語ったパウロも、独身を貫き、洗礼者ヨハネも、そしてイエスさまご自身も、結婚しない生き方をされました。

 このように見てくるとき、本当に大切なことは、ありのままの自分が神様からの賜物であることを受け入れ、それゆえ、そのことがわたしにとって祝福されているのだということを、信仰をもって受けとめることなのでしょう。何よりも、イエスさまのいのちを賭けた後ろ盾があるのですから。感謝です。