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10月9日 ≪聖霊降臨第19主日礼拝≫『たった一人のために』マタイによる福音書26章1〜13節 沖村裕史 牧師

10月9日 ≪聖霊降臨第19主日礼拝≫『たった一人のために』マタイによる福音書26章1〜13節 沖村裕史 牧師

■二日後と十日後

 「受難物語」と呼ばれる出来事が始まろうとしていたそのとき、イエスさまが弟子たちにこう語り始められます。2節、

 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」

 イエスさまは今、ご自身が二日後の過越祭のときに十字架につけられることになると、はっきり宣言されます。時を同じくして、イエスさまの十字架を巡る、祭司長たちや長老たちの計画もまた明らかにされます。

 「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した」

 物語はいっきに佳境を迎えんばかりです。ところが、ここで計画が中断します。イエス殺害のための具体的な計画に着手し始めた所で、彼らはこの計画を一旦中止しようと言い始めます。5節、

 「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」

 マルコによる福音書が同じ場面の冒頭に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と記しているように、当時、過越祭に続いて除酵祭という祭りが行われていました。いずれもが、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を神様が解放してくださった大いなる救いの出来事を記念する祭りです。二つの祭りの期間を合わせて、おおよそ八日間にもなりました。

 祭司長や長老たちが心配していたのは、民衆の暴動でした。祭りの期間中、二百万人ほどの巡礼者が集まったと言われます。その民衆の前で、イエスを殺すのはやめて、できるだけ目立たない仕方で始末しよう。ひと通り祭りが終わって、巡礼者たちが帰って行った後、つまり二日プラス八日の十日後に、イエスさまを逮捕し殺そうと考えていた、ということです。

 イエスさまによれば二日後。祭司長や長老たちの計画では十日後。十字架の時期がズレています。人間が策を練りに練って、用意周到に準備した計画。それを十日後に実行に移そうとしていました。しかし彼らの思惑は外れ、祭りの最中―神様が、イエスさまが決めておられた二日後に、多くの民衆の前で、イエスさまは十字架につけられました。

 それは多くの人々が言うように、「人の企ては貫かれなかった。神の企てが貫かれた」と言うことなのかもしれません。イエスを亡きものにしようとする祭司長や長老たちは、イエスさまを十字架につけて、その思いを遂げました。しかし神は、彼らのその思いを用いて、しかもそれが過越の祭りの中で行われるように導くことによって、まことの過越の小羊であるイエスさまの死による救いを実現してくださったのでした。イスカリオテのユダをはじめとする弟子たちの裏切りもまた、すべての事柄を相働かせるようにして、神の御心が成就していきました。

 そして、この後6節から始まるエピソードもまた、二日後の十字架の出来事に結びついていく、ある名もなき女性のイエスさまへの奉仕の出来事が、ユダの裏切りを引き起こす伏線となったことを、マタイは伝えています。

 

■正論

 「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに』」

 この弟子たちの言葉を、皆さんはどう思われたでしょうか。なるほど、それもそうだ、と頷(うなず)かれはしなかったでしょうか。

 表面的に見る限り確かに、彼女のふるまいは「気持はわかるけど、どうもちょっとね」という感じがしないでもありません。当事者というものは、一生懸命になりすぎるあまり、心にゆとりを失い、自分のしていることが他人の目にどう映っているかとか、それが相手にどういう結果をもたらすかということについてまで、考えの及ばぬことの方が多いものです。それにひきかえ、傍から見ていた弟子たちの目には、彼女のふるまいは、その動機は純粋であり、イエスさまヘの感謝に溢れているにしても、その表現の仕方はそれで良かったのだろうか、もっとふさわしい表現の仕方があったのではないか、それはイエスさまにとっても、意に沿わぬ有難迷惑なものではなかったのかと写り、様々な疑問が生じてきます。

 しかも、この出来事が起こったのは「重い皮膚病の人シモン」の家です。「重い皮膚病の人」と記されるその人は、隣人から差別され、嫌われ、まともに人として、仲間として扱われたことなどあり得ません。ところがその家で、イエスさまが一緒に食事をなさる。重い皮膚病の人と呼ばれていたシモンの生活はとても貧しいものであったことでしょう。それでも、イエスさまが食事をしてくださるというので、できるかぎりの支度(したく)をしたに違いありません。

 そこへ「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り」とあります。売れば三百デナリオンにもなると値踏みされる価値であった、とマルコとヨハネは記しています。当時の一年間分の給料、今で言えば、何百万円もする最高級の香油です。食べ物に換えれば、皆が十二分に食べても余るほどです。

 それだけではありません。彼女はこのとき、その壷から数滴をイエスさまの頭に注いだというのではありません。マルコには「壊して」とあります。彼女は壷の中身を全部注いでしまったのです。残しておいて他のことにも使おうとは全く思っていません。

 すべてをイエスさまの頭に注ぎかけてしまったら、その価値はすべてゼロになります。しかも、それを「たった一人のために」使ってしまったのです。

 「弟子たちはこれを見て、憤慨して」と書かれています。そこにいた弟子たちの誰もが「憤慨して言った」のです。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、もっと多くの貧しい人々に施すことができたのに」。

 「貧しい人々に施しをする」ということは、律法に定められた「善行」です。いえ、そもそもイエスさまが直前の25章の最後に何と言われたか。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。その時のイエスさまの声の調子さえ、まだ耳の奥に鮮明に残っていたはすです。弟子たちにしてみれば、最も小さい者の一人に対する施しについての衝撃的な教えを聞いた直後でもあり、施しの大切さに心が向いていたことでしょう。「何と無駄なことをしているのか、この女は!」という批判の言葉が口を突くのも、ごく自然なこと、当然のことでした。

 声に出して、はっきりと咎める男たちに賛同し、「当然だわ」「あきれるわ」と言わんばかりに大きくうなずく、女たちの視線も感じます。もしわたしたちがそこにいたらどうでしょう。やはり、この常識のないひとりの女にあきれかえるか、憤慨して、それも、自分の憤慨を正当な義憤であると感じるのではないでしょうか。

 彼女はまさに、反論の余地もないほどの正論を浴びせかけられました。

 

■たった一人のために

 ところがここで、「イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない……』」

 驚かされます。はっとさせられます。当たり前だと思っていたことがそうではないのではないかという、「破れ」がここに立ち現れます。

 ここに「困らせる」と訳されている言葉は、「厳しい仕打ちをする」とも訳すことのできる、厳しい叱責の言葉です。立ち上がれないほどに痛めつけられている、といったニュアンスが滲みます。彼女が相当な苦しみを味わわされている、とイエスさまは言われます。実際、弟子たちがしていることは、彼女のしたことにケチをつけ、困らせることでしかありません。彼らは貧しい人への施しを盾に取っています。しかしそれは、彼女を困らせるための口実に過ぎません。そのことを、イエスさまはこう指摘されます。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」

 貧しい人々を助けることは、あなたがたがその気になりさえすれば、いつでもできる、そのために全財産を投げ出すことだってできるのだから、そうすればよい。イエスさまはそう言われるのです。しかし、彼らにそんな気はさらさらありません。彼らは、貧しい人のためにということを考えているのではなく、彼女のしたことを批判したいだけなのです。

 それは彼らが、彼女のこの行為に、自分たちの中にはない、イエスさまに対する純粋な愛と献身を見たからです。自分には、こんなことはとてもできない、そんなすばらしい愛の行為を見た時に、その行為にケチをつけたくなる。こんな問題がある、あんな欠けがあると文句をつけたくなる。それが弟子たちの思いなのです。そのために誰も反論できないような正論をふりかざすのです。

 そんな正論をわたしたちも語ってはいないでしょうか。いかにも正しいことを語りながら、あるいは誰かのために配慮しているようなことを言いながら、実は相手のしていることにケチをつけ、困らせているだけということが、わたしたちにもあるのではないでしょうか。

 そして、そういう批判は大抵当っています。正論なのです。完全な、全く欠点のない奉仕などあり得ないのですから、人の奉仕のあら探しをしようとすればいくらでもできます。彼女の純粋な、心からの献身も、ある見方からすれば、こうした批判にさらされるのです。

 イエスさまはこの批判に対して、「そんな批判は間違っている。この人の奉仕は正しい」と言われたのではありませんでした。「なぜこの人を困らせるのか」と言われました。この人のしていることも、見方によっては、いろいろな問題があるだろう、欠けもあるだろう。しかし、そういうことを指摘し、ケチをつけてこの人を困らせないでほしい。この人が「たった一人のために」、「わたしのために」心を込めて、精一杯しているその奉仕を受け入れてほしい。そして、それを共に喜んでほしい。

 それがイエスさまの思いなのです。

 

■十字架の福音

 考えてみれば、イエスさまが直前に語られた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」との言葉は、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と自分がしたことを誇るような人に向けられた言葉ではありませんでした。イエスさまは、できるかぎりのことをしてご自分に奉仕しようとしている人を、誰かが困らせ、その奉仕を批判し、ケチをつけることをお望みにはならないのです。そしてまた、わたしたちが、自分の奉仕を誇ったり、人の奉仕と自分の奉仕を比べて、優越感を抱いたり、劣等感に陥ったりすることもお望みにならないのです。

 確かに合理的に考えれば、彼女のしたことは賢明な行いではなかったかもしれません。しかしイエスさまは、こころの奥底に分け入り、目の中の丸太を見出し、自らの罪と深く出会った彼女の思い、行い、存在、その罪を含めて、すべてをあるがままに、全面的に受け入れられたのです。そして、香油を塗るこの女性に言われます。

 「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」

 十字架の死に至るまで、わたしたちに仕える道を歩み通してくださったイエスさまは、わたしたちがその恵みに感謝して心からイエスさまに仕えていくことをこそお喜びになるのです。その奉仕がたとえ様々な問題を含み、欠けのあるものであっても、それをご自分の救いのみ業の、十字架の死による罪の赦しの福音の記念として受け止めてくださるのです。

 わたしたちの罪がどれほどのものであっても、神様は、イエスさまは、わたしたちを受け入れてくださいます。そして彼女の行いに、イエスさまが彼女の知恵では思いもつかない大きな意味を与えられたように、神様はわたしたち一人ひとりを、異なる目的をもって造り、導いてくださっています。神様がわたしたちを造られた以上、神様が責任を持ってくださるのです。

 イエス・キリストがわたしを受け容れ、「そのままにしておきなさい」と受容し、存在を認めてくださっている以上、その愛の中でわたしたちの存在の意味、人生の意味は与えられているのです。他の人々には隠されていても、そこには大きな意味が、イエスさまにおいてあるのです。わたしたちが互いを裁き合う傲慢さと空しさ、何よりもそんな深い罪からわたしたちを解き放ってくださるために、イエスさまがわたしたちのことに責任を持ってくださり、不都合なことまで含めて、すべてを赦してくださいました。ご自身が十字架にかかられ、神のみ前によしとされる者にしてくださいました。そこにキリストの赦しと、計り知ることのできない愛があるのです。