■最高の賜物
前回10月20日の礼拝では、13章7節までをご一緒に読みました。その4節から7節には、「愛」とはどのようなものかが語られていました。
そこに語られていることは、わたしたちが普段考えていることとはかなり違っていました。最初の「愛は忍耐強い」だけを取り上げても、そのことが分かります。愛するとは相手のことを忍耐することだと言います。愛するというと、自分の好きな人、気の合う人、友だちを積極的に、情熱的に愛することと考えがちですが、ここで教えられている愛は、むしろ気に入らないこと、対立することがあったときにも、いえ、そのようなときこそ、相手のことを忍耐する、寛容であることを求めるものです。最後の7節にもそれが現れています。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「忍び」と「耐える」、まさに「忍耐」です。それに挟まれて、「信じる」と「望む」があります。この「信じる」は、神を信じることだけでなく、相手を信頼し続けることであり、「望む」も、神に望みをかけることだけでなく、相手との関係に希望を抱き続けることです。愛とはそのように、相手のことを忍耐し、信頼し続け、希望を失わないことだ、と教えられているのです。
残念ながら、わたしたちはこのような愛を持っていません。だからこそ、愛こそが聖霊によって与えられる最高の賜物なのだ、とパウロは教えます。しかしそれは、聖霊の与える様々な賜物の中で最高のものが愛だ、と言われているのかというと、それは少し違います。愛は、他の様々な賜物と並べて比較することができるようなものではありません。他の賜物とは本質的に異なるものです。そのことが8節以下に語られています。8節に「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」とあります。預言、異言、知識はいずれも、12章で語れていた聖霊の賜物です。それらと愛とは本質的に違うのだ、と言います。その違いとは、それら賜物は廃れていくものであるのに対して、愛という賜物は決して滅びない、永遠のものだ、ということです。
■完全なものが来る
わたしたちは、自分にどんな賜物が与えられているかということを、いつも気にしています。自分にはどんな力、才能があるか、何ができるか、そしてその賜物をどれくらい発揮することができているか。それが、わたしたちの主要な関心事です。そして12章に語られていたように、わたしたちはその自分の賜物を他の人の賜物と比較して、誇り高ぶったり、僻(ひが)んでいじけたりします。自分の賜物のことで一喜一憂しているのが、わたしたちの毎日ではないでしょうか。コリント教会の人々がまさにそうでした。彼らは、預言を語ることができる、異言を語ることができる、信仰の知識を持っているという賜物を喜び、誇り、拘(こだわ)っていました。
しかしパウロは、コリントの人々が、またわたしたちが気にしている賜物はすべて滅び廃れていくものだ、と言います。自分に何ができるか、どんな力があるか。しかしその賜物は、時が経つにつれて失われていきます。そのことが一番はっきりするのは、老いや病気を自覚するときでしょうか。若く、健康であった時にできていたことが、年を取り、病気になってできなくなることを、誰もが感じます。自分に残されている賜物はもう僅かしかない、という寂しさ、焦りを覚える方も多いでしょう。そう、何ができる、どんな力があるという賜物は、必ず失われていくものなのです。
ただ、パウロがここで様々な賜物は廃れていくと言っているのは、時を経て古くなっていくとか、年老いて力が失われていく、病気になって不自由を覚えるということではありません。9節から10節にこうあります。
「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」
知識や預言という賜物が廃れていくのは、それが「部分的なもの」だからです。わたしたちも、そのことはよく知っているつもりです。自分には何かを完全にできると思っている人は、そうはいないでしょう。わたしたちができることや知っていることが部分的で、完全ではないことは、今さら言われるまでもないことです。
しかし、それが「廃れていく」とは、どういうことなのか。今ここでパウロが見つめているのは、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる」ということです。部分的なものが廃れるのは、完全なものが来たときです。次第に古くなって廃れるのでも、わたしたちが年老いて廃れるのでもなくて、完全なものが来ることによって、それらは廃れるのです。
譬(たと)えて言えば、夜の暗闇の中では懐中電灯は役に立つけれども、太陽が昇ればもういらなくなるようなものです。わたしたちが様々な形で与えられている賜物は、その懐中電灯のようなもので、日が昇ることによってそれは不要になります。「だから完全を目指して努力していこう」というのではありません。ただ「完全なものが来る」とパウロは言います。
さきほどの譬えを続ければ、わたしたちが普段考えていることは、懐中電灯の電池をより強力なものにしたり、みんなの懐中電灯を集めて、できるだけ明るい光を確保しようとすることです。それに対してパウロが言うのは、「もうすぐ日が昇る」ということです。懐中電灯は、夜の闇の中ではとても役に立つものです。そのことはパウロも認めています。預言、異言、知識などの賜物はそれなりに意味があるし、そういう賜物が結び合わされて、教会はキリストの体として整えられていきます。けれども、そういう賜物が磨かれ、結集されることによって、キリストの体が完成するというのではありません。懐中電灯を何万本集めても、太陽にはなりません。キリストの体は、太陽が昇ることによってこそ完成します。その時には、わたしたちが持っている懐中電灯はもういらなくなるのです。キリストの体が完成する時、わたしたちの救いが完成し、神の国が来る時には、わたしたちに与えられている様々な賜物は用済みになるのです。いらなくなるのです。
自分はあれができる、こういう能力があるという賜物に拘っている人々に向かって、パウロはこう語りかけています、あなたがたが拘っている賜物は、この世の歩みでだけ意味があるのであって、救いが完成し、神の国が来る時には、それらのものはすべて脱ぎ捨てられ、裸になって神の国に入るのだ、と。
■愛は滅びない
このように、わたしたちが持っている様々な賜物が部分的であり、廃れていくものであることを、力を込めて語るのは、それらの賜物と、愛という賜物との違いを強調するためです。全ての賜物が廃れていく中で、愛だけは決して滅びない、廃れることはないということです。
しかし、これは本当でしょうか。KANというシンガー・ソングライターの歌に「必ず最後に愛は勝つ」と繰り返す歌がありましたが、そんなこと簡単に言えるのでしょうか。わたしたちの経験は、それとは反対のことを教えています。自分の愛はいつまでも滅びない、なんて断言できる人などいないでしょう。わたしたちの愛が、どんなに移ろいやすく、失われやすいものであるかということを、わたしたちはいやというほど知っています。「愛は決して滅びない」なんて、とても言えません。
しかし、この愛はわたしたちがもともと自分の内に持っている愛ではありません。聖霊の賜物です。聖霊が与えてくださる愛です。その愛は滅びることがない、と言われます。その愛が滅びることがないのはなぜでしょう。それを考える上で大切なのが、12節の後半です。
「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」
今は一部しか知らない、わたしたちの知識は部分的なものでしかない、ということです。しかし「その時」には、はっきり知ることになる。完全なものが来た時には、全き知識が与えられる、と言います。
ここに「はっきり知られているように」とあることが大事です。わたしたちの知識のことなら、それは、わたしたちがいろいろなことをどこまで知っているか、ということが問題となります。しかしパウロは、わたしたちは「知られている、しかも、はっきり知られている」と書いています。
サムエル記上16章7節に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とあります。目に映ることだけでなく、心によって人を見る神は、わたしたちの心の中まですべてを知っておられるのだ、ということです。わたしたちが人には見せずに隠しているすべてのこと、あらゆる罪を、神は知っておられるのです。しかも、すべて知っておられるその神が、御子キリストを遣わしてくださり、その十字架の死によってわたしたちの罪を、人には隠していても神にはすべてお見通しの、その罪のすべてを赦してくださったのです。神がわたしたちをはっきりと完全に知っておられるということは、言い換えるならば、神は、そんなわたしたちを愛しておられるのだ、ということです。神にはっきり、完全に知られているということは、神にはっきり、完全に愛されているのだ、ということです。
聖霊が与えてくださる賜物である、滅びることのない愛とは、このイエス・キリストにおける神の愛です。聖霊によってわたしたちは、この神の、御子キリストに現れる、滅びることのない、完全な愛を知らされているのです。自分が、この完全な愛によって愛されていることを知らされているのです。それこそが、聖霊の与えてくださる最高の賜物なのです。
そんな神に愛されていることを知らされたわたしたちは、自分も神を知り、愛して生きる者となります。そして神を愛するなら、神が愛しておられる人間を、隣人を愛する者となっていくのです。それが、信仰者となるということです。しかし、わたしたちが神を知る知識も、神と人を愛する愛も、実に部分的で、不完全なものです。この地上を生きる限り、わたしたちが神を知ることはまったく不完全であり、愛することもまったく不完全です。
それでも、そのことはわたしたちと神との関係にとって何の妨げにもなりません。わたしたちがどれほど不完全な、不十分な者であっても、神はわたしたちのことを完全に知っていてくださり、完全な愛をもって愛していてくださるのです。だから、わたしたちは安心して、不十分な、不完全な愛ですが、神を愛し、人を愛していこうとすることができるのです。それが、わたしたちの信仰者としての歩みです。
■幼子のことを棄てた
そう信じつつ、最後に、わたしが愛の讃歌と呼ばれるこの箇所に心を惹かれながらも、いつも戸惑いを覚えてきた一句、「成人した今、幼子のことを棄てた」に触れて、今朝のメッセージを閉じさせていただきます。
大人になることは、わたしたちにとって簡単なことではありません。足をばたつかせて悲鳴を上げながら、母親の子宮から引きずり出された時に始まり、初めて学校に行く日に母親のもとを離れて玄関を出た時や、突然自分が独り立ちしたことに気づいた高校の卒業式の夜に至るまで、成長することには、どれほどの苦痛が伴うかをわたしたちは知っています。成熟していくためには、母親や父親から離れ、幾度も人生の冒険をすることが要求されるのです。その冒険は危険に満ち、恐ろしいものでもあります。
子どもの特徴は、様々な誇張された物言いや矛盾した話を批判なく受け入れてしまうところにあります。子どもっぽい信仰、批判なしの受容がとても危険なのは、それが人々を大きな挫折に導くからです。
中年になる娘と同居している高齢の女性がおられました。この母親は娘に対してとても支配的で、娘を自分の所有物のように扱う人でした。この母親は、いつでも娘のかわりに車の運転をしていました。娘には車の運転をするだけの力がないと思っていたからです。彼女は、娘が結婚したり就職したりすることを決して認めませんでした。娘のことはすべてこの母親が決めていました。四十代後半になった娘でも、子どものように扱いました。その母親はきっと、自分はよい母親であり、自分の子どもを保護し、リスクを冒すことからも失敗することからも守っていると考えていたのでしょう。しかし、実際は実にひどい母親でした。彼女は間違った方法で娘を愛し続けていたのです。
愛とは、たいていの場合、相手を所有して自分の近くに置こうとするものですが、自分の子どもに対する親の愛はそれとは違ったものでなければなりません。親の愛とは、子どもが自由に親から離れていくことができるように子どもを愛する愛です。それは、大人として自由に独立して生きられるように、最愛の子どもを手放そうとして注がれる愛です。もしも、そのように愛していなければ、その人は親に成り損なっているのです。
神は、わたしたちをそのように愛してくださっています。神は、わたしたちを奴隷にしようとするすべてのものから自由になるようにと、わたしたちに愛を注いでくださっています。神は、わたしたちがなりうる可能性のあるすべてのものになっていく自由を与えるために、わたしたちに愛を注いでくださっているのです。
神は、すべての神の子どもたちを愛していますが、子どもたちに成長してほしいと願っておられます。わたしたちが成長し、成熟した神の子どもとなるなら、子どもっぽいままで大きくなるよりも、ずっと神と神の国のためにお役に立てるにちがいない、とわたしは確信します。
だから、パウロは言うのです。クリスチャンの愛は赤ん坊の愛ではありません。キリストの弟子となるために、わたしたちはたくましく成長し、自分の足で立ち、理性を総動員し、利己的でも甘やかされてもいない者になって、まことの愛に生きることが求められているのです。
御子イエス・キリストがわたしたちの救い主としてこの世に来てくださって、決して滅びることのない神の愛を示し与えてくださったことを喜び、記念するクリスマスに向けて備えつつ歩む今、聖霊の賜物である愛を熱心に祈り求め続けていきたいものです。