福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月14日 ≪降誕前第6主日—朝拝≫ 『天の国にふさわしく』 マタイによる福音書19章13~15節 沖村裕史 牧師

11月14日 ≪降誕前第6主日—朝拝≫ 『天の国にふさわしく』 マタイによる福音書19章13~15節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■人々の願い

 「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」
 
 愛するわが子に手を置いて、無事に元気に良い子に育つよう祝福していただきたい、そう願って親たちが連れてきたのでしょうか。それは、子どもを七五三に連れて行ったりするのと同じ、親としてはとても自然で素朴な思いです。

 しかし、今ここに子どもたちを連れて来たのは、不特定多数の「人々」です。親とは限りません。「連れて来る」というギリシア語も、抱いたり背負ったりして、「そちらへと運ぶ」という意味の言葉です。親子が七五三の宮参りよろしく、手をつないで仲良くやってきたというのではありません。「人々」は、抱きかかえ背負うようにして、子どもたちを連れて来たのでした。

 当時の子どもたちが置かれている状況は、わたしたちが日頃、目にしているそれとは全く異なるものです。繰り返される戦争、慢性的な飢饉、疫病の蔓延によって、社会は混乱、疲弊していました。そんな中、最初に被害をこうむるのは子どもたちです。成人するまで親が健在であることは稀でした。ふた親を失い孤児となった子どもたちは、とりわけ弱く、傷つきやすい存在です。今ここに連れてこられた子どもたちもまた、そういう孤児であったのかもしれません。いえ、十分に考えられることです。

 イエスさまは、救いを求めて押し寄せる大勢の群衆の一人ひとりに手を置いて、重い皮膚病を清め、舌のもつれを取り除き、目を見えるようにし、パンをお与えになりました。そして今、飢えや病や争いによって深く傷つき、生きることさえままならない子どもたちを、親ではなく、「人々」が抱きかかえるようにして、イエスさまのところに連れて来たのです。

 旧約聖書は、孤児(みなしご)や寡婦(やもめ)、難民となった外国人寄留者たちを社会全体で保護するようにと繰り返し教えました。古代社会では今以上に、家族の生存は父親の肩にかかっていました。父親と死別した家庭はたちまち、生きる手立てを失います。支援が必要でした。しかも聖書が求めるこの援助は、倫理に基づく施しでも、政治が目指す目標でもありません。ただ神様が示してくださった救いへの応答、信仰に基づくものでした。

 ここに記される「人々」も、まさに神様の恵みへの応答として、何よりも具体的で切実な愛の思いをもって、イエスさまにこの子どもたちを祝福していただきたい、苦しみや悲しみからこの子どもたちを救っていただきたい、そう願ったのでしょう。

 

■弟子たちの妨げ

 ところが弟子たちは、そんな人々を叱り、追い返そうとします。理不尽とも思える弟子たちの態度ですがしかし、そこには理由がありました。

 19章冒頭、イエスさま一行は慣れ親しんだガリラヤの地を後に、南へと移動を始めておられました。目的地はエルサレムです。この後(あと)21章に、そのエルサレムに入られます。しかも入ってわずか一週間の内に、イエスさまは捕えられ、十字架につけられ、殺されます。その十字架への旅路にあることをイエスさまははっきりと自覚しておられました。そしてそのことを繰り返し弟子たちに告げ教えられました。

 しかし弟子たちにはその意味が分かりません。それでも、イエスさまが緊迫した大事な場面を迎えようとしておられる、ということだけは感じ取っていました。今、大事な時を迎えようとしておられる。そんな時に余計な負担はおかけしたくない。それでなくても、病を癒していただこうとたくさんの人々が押し寄せ、時には、敵対するファリサイ派の人々が罠を仕掛けようと議論をふっかけてきます。この上、子どもたちにまで纏(まと)わりつかれたら、疲れ果ててしまわれるだろう。骨と皮ばかりの子どもたち、病気の子どもたち、障がいを持つ子どもたち…走り回る子どもたちもいたことでしょう。騒然とした雰囲気の中、弟子たちにとっては、当然の配慮と気配りのつもりでした。

 しかし、これまでのイエスさまと弟子たちのやり取りを振り返るとき、イエスさまへの配慮、気配りであるかのように見えるその叱責と妨害の中に、拭(ぬぐ)おうとして拭い去ることのできない、弟子たちの罪が見えてきます。

 そもそも、それが真実の配慮と気配りであるなら、弟子たちは決して人々を叱ったり、子どもたちを妨げたりはしなかったはずです。直前18章で、イエスさまはそのような幼な子を招き入れ、しかも弟子たちの真ん中に立たせて、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と教え諭されていたからです。

 「受け入れなさい」、そう教えられていたはずの弟子たちの心の中にあったのは、子どもへの祝福を、救いを求めてやって来る「人々」に対する批判、反発でした。

 この人たちは、イエスさまの都合など考えもせず、祝福と癒しだけを求め、それを受けると、元通りの自分中心の生活へと帰って行くだけではないか。イエスさまに従って生きようとか、自分の生活や財産を擲(なげう)ってイエスさまの弟子となろうという気持ちなど少しもない。ただイエスさまを利用しようとしているだけではないか。そんな身勝手な願いに付き合う必要などない。

 弟子たちの思いの中に潜んでいるのは、自分たちはすべてを捨ててイエスさまに従ってきた、イエスさまの弟子として歩んできている、このわたしたちこそが、という弟子たちの自負、優越感です。誰が一番偉いかを議論していた弟子たちの姿と重なります。一見、イエスさまへの気遣いと見えるその裏、本音のところで、自分の幸せだけを求めて神様を、イエスさまを利用するだけのこの連中とはわたしたちは違う、だから彼らを叱り、追い返す権利がわたしたちにはある、弟子たちはそう考えていたのです。

 

■憤(いきどお)られる

 イエスさまは、その弟子たちを逆に叱りつけます。

 マタイは、「しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。…」と書き記しますが、最初の福音書マルコでは、「これを見て憤り、弟子たちに言われた」となっています。

 「これを見て憤り…」。「憤る」は、「非常に」という言葉と「悲しんでいる、怒っている、我慢できない」という言葉がひとつにされたものです。子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちを見て、イエスさまは、非常に悲しまれ、とても我慢できないと激しくお怒りになった、というのです。この激しい怒りの姿に皆さんは驚き、戸惑われないでしょうか。マタイも、「憤る」そのお姿はイエスさまらしくないと思ったのかもしれません。「これを見て憤り」という言葉を削りました。しかし、事実はマルコの通りだったのでしょう。連れてこられた子どもの悲惨な状況を、そんな子どもたちを連れて来た人々の信仰を、また繰り返し同じ過ちをあらわにする弟子たちの愚かさを見過ごしにしてはなりません。

 その意味でも、注目いただきたいのは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」という言葉です。弟子たちは、連れて来た「人々」を問題とし、彼らを叱り、妨げたのですが、イエスさまがここで問題としておられるのは、「子供たち」のことです。イエスさまが今、来るままにさせ、受け入れるようにと命じておられるのは、子どもたちを連れ来たその人々ではなく、苦しみ、傷ついているであろう、その子どもたちです。イエスさまは、今、その子どもたちを来るままにさせなさい、妨げてはならない、そう言われます。

 

■子どものような者

 そして続けて、その理由をこう告げられます。

 「天の国はこのような者たちのものである」

 この文体と言葉は、あの山上の説教の「…の人々(例えば、心の貧しい人々)は幸いである。(なぜなら、)天の国はその人たちのものである(からだ)」という言葉の後半部分、「天の国はその人たちのものである(からだ)」と全く同じです。天の国が与えられることを約束する、祝福の言葉です。天の国、それはイエスさまの福音の中心でした。イエスさまは、天の国―神様の愛の御手が今ここにもたらされていることを人々に示し、それにあずからせるためにこの世に来られたのでした。そして今、その天の国、神様の愛の御手にあずかることができるのは、自分こそ第一の者と誇る弟子たちではなく、まさにこのような者たち、この幼な子のような者たちなのだ、そう言われます。

 それは、子どものように純真な、汚れを知らない者となれ、ということでしょうか。そうではありません。この子どもたちは、通りかかる旅人に施しを乞うたり、時には、窃盗や詐欺まがいの不当な手段によって手に入れたものを売ったりして、その日その日のいのちの糧を稼いでいた孤児であったと考えられます。仮にそうではなかったとしても、そもそも聖書に、子どもは純真で、汚れを知らないという考え方はありませんし、事実、そうではありません。子どもは純真で、汚れなどないと思われる人は、一週間、乳飲み子の面倒を見てくださればわかるはずです。自分の欲求のままに泣きわめくその姿は、とても純真で、汚れなどないと言えるものではありません。自分の欲望のままに生きる、人間の罪の姿そのものです。今日、子どもたちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つをとっても、そこに大人の影響がないとは言いませんが、本質的には、子どもたち自身の罪ゆえです。子どもたちに罪も汚れもないというのは、大人の勝手な願望に過ぎません。イエスさまが「天の国はこのような者たちのものである」と言われるのも、決して子どもを理想化して、そう言っておられるのではありません。

 子どもたちが天の国の祝福にあずかることができる理由はただひとつ、このときの弟子たちのような者ではない、ということです。配慮、気配りという名目のもとに、神の御心ではなく自分の思いに囚われ、自分こそ第一と誇る、そのような者たちではない、ということです。

 子どもたちは、自分の意志でイエスさまのもとに来たのではありませんでした。人々によって連れて来られるままに、イエスさまのもとに来たに過ぎません。ただ招かれたと言う外ない存在です。そしてイエスさまが受け入れ、祝福してくださるなら祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰るだけのことです。全くの受け身、ただ受けるだけの存在です。自分はこれこれの良い行いをしている、これだけの正しさ、立派さを持っている、これだけのものを神様に献げ、奉仕している、だから祝福してくださいと要求することはありませんし、そんな商取引のようなことなど考えてもいません。神様に対して、交換条件というか、自分はこれだけのことをしていますからといった主張をすることが全くできない者、ただ神様にすべてを委ね、信頼し、その恵みをいただくしかない者だということです。

 イエスさまは、そのような子どもたちをこそ喜んで迎え入れてくださり、手を置いて、祝福してくださったのです。「天の国はこのような者たちのものである」とは、天の国、神様の愛の御手は、このようにして差し出されるのだ、ということです。

 天の国に入り、その恵みにあずかるためには、何らかの資格や条件を満たさなければならないのではありません。純真で素直な者だけが天の国に入ることができるということでもありません。自分の中には、天の国に入るに価する資格やふさわしさなど何一つないのに、ただ神様の恵みと憐れみによってのみ、天の国に迎え入れられるのです。イエスさまは、そういう恵みをわたしたちに示し、与えてくださっています。わたしたちは、この子どもたちと同じように、イエスさまから、神様の愛を、神様の恵みをただ受けることしかできません。それが、わたしたちが生きている、いのち与えられて生かされ生きている者としての真実の姿、あるがままの姿なのです。

 

■天の国にふさわしく

 そのことに気づかされるとき、イエスさまの弟子たちに対するあの激しい憤りの意味も分かってきます。そして何より、そんな弟子たちの姿こそ、わたしたちの姿でもあります。わたしたちもしばしば、配慮と気配りという名目のもと、つまり神様の愛ではなく、この世の常識や基準によって、子どもたちを「叱り」つけ、妨げてはいないでしょうか。

 例えば、子どもたちに「早くしなさい」と一日に何度となく言ってしまいます。学校に遅れそうなのにのんびりしているときに…、宿題やピアノの練習をさぼっているときに…、寝る約束の時間なのに遊んだおもちゃを片付けていないときに…。

 わたしたちは、遅いよりは早い方がいいとなぜか思っています。少ないより多い方がいい。小さいより大きい方がいい。弱いより強い方がいい。誰が決めたのか、誰に教えられたのか、そう思い込んではいないでしょうか。

 わたしたちは便利さや早さを追い求めてきました。社会の競争に打ち勝って、強く大きくなることを求めてきました。そしてそのことで、人を評価し、裁き、差別し、排除してきました。しかしその中で、大切なものをたくさん失ってきました。自然を壊し、人を蹴落とし、人の心を失い、そして自分のいのちまで失おうとしています。わたしたちは、生かされて在ることの、あるがままに生きることの大切さに気づかなければなりません、「子どもたちのように」です。

 子どもたちを見ていると、いつものんびりしていて、すぐ道草をしたり、立ち止まったり、引き返したり、大人から見れば意味のない遊びをしたりします。大人は自分の目的を立てて、その目的まで最短距離で行こうと考えます。道草をしたり、立ち止まったり、引き返すことなど考えようともせず、できるだけ早く目的地にたどり着こうとします。そして、その目的から外れることは、よくないことだと考えます。そういう大人は、子どもにも「もっと早く」「もっと強く」「もっとたくさん」と、つい言ってしまいます。

 しかしイエスさまは、それこそが子どもたちのすばらしさだ、と言われます。

 天の国に入ること、神様の愛の御手のうちにあって生きることは、わたしたちの側の立派さやふさわしさによることではありません。わたしたちに必要なことはただ一つ、神様だけを見上げて、すべてをお委ねし、神様の恵み、神様の愛をひたすら受けて、それを感謝して生きることだけです。

 天の国にふさわしい者とはそういう者のことなのでしょう。