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11月27日 ≪降誕前第4・待降節第1主日/アドヴェント礼拝≫『裏切りの只中』マタイによる福音書26章47~56節

11月27日 ≪降誕前第4・待降節第1主日/アドヴェント礼拝≫『裏切りの只中』マタイによる福音書26章47~56節

■裏切りの只中に

 冒頭47節に「イエスがまだ話しておられると」とあります。今日の出来事は直前、ゲッセマネの祈りの場面の続きです。

 その45節から46節に「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」とあります。イエスさまが祈られ、弟子たちが眠り込んでしまっている間に、イエスさまを捕えようとする人々が迫って来ました。彼らがいよいよ近づいて来たそのとき、イエスさまは弟子たちを起し、「眠っている時、休んでいる時はもう終わりだ。時が来た」と言われます。その時とは「人の子が罪人たちの手に引き渡される」時です。イエスさまは父なる神のみ心に従って、その苦しみを引き受ける決意を固め、「立て、行こう」と、ご自分からその苦しみの時へと歩み出そうとしておられます。

 その苦しみをもたらす者たちの先頭に立っていたのは、イエスさまを裏切ったユダでした。裏切ったユダのことを、福音書は「十二人の一人であるユダ」と記します。これを語順通りに訳せば、「ユダ、十二人の一人」です。ヨハネによる福音書にも、「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしている」(6:70-71)と記されているように、イエスさまを裏切った者は、第三者でも敵でもなく、イエスさまが選ばれた弟子たちの中に、イエスさまが愛された者たちの中にいたのだ、ということです。

 これこそ、わたしたち人間の現実です。人と人が共に生きることの難しさが、ここにあります。どんなに親しい間柄であっても、自分も相手も共に、エゴ―自分中心性—ゆえに、この裏切る者としての悪魔性を持っているからです。誰も自分では自覚していない、この悪魔的な性格を克服できない限り、人間の世界に平安は、平和はありません。しかもわたしたちには、自分でこれを克服することができません。

 今、そんなわたしたちの裏切りの只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。

 

■赦しのために罪の只中に

 46節に、「立て、行こう、見よ、わたしを裏切る者がくる」とあったように、イエスさまは、ユダが自分を裏切る者であることを充分に承知しながらも、彼を口汚く罵ったり、批判したり、攻撃したり、その果てに捨ててしまったり…そんなことはなさいません。わたしたちなら、自分に危機が及びそうだと少しでも感じれば、何よりもそれを避けようとするでしょう。しかし、イエスさまはご自分から立って、「近寄」って来る、ユダのもとに行かれたのでした。今まさに時が満ちたのだ、そう痛感させられます。

 他の人と共に生きることが難しいという、わたしたち人間の罪の現実を克服するのは、この御子イエスによってのみ可能となることです。イエスさまは、まさにこのために、イスカリオテのユダと共にあって、人間の罪の赦しのために、十字架への道を歩み始めておられるのです。

 今、わたしたちの赦しのために罪の只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。

 

■それと気づかぬ裏切りの只中に

 前の節では「十二人の一人」と言われていましたが、48節では、「イエスを裏切ろうとしていたユダ」となっています。ユダはここではもう、イエスさまの弟子の一人というよりも、裏切る者になり切っています。その目的を果たすための方法が、接吻でした。愛と尊敬と交わりのしるしである接吻が、今ここでは、売り渡す相手を示す合図に用いられています。

 ここで少し違和感を覚えます。もっと別の方法で目的を果たすこともできたのではないでしょうか。たとえば、ユダ自身は物陰に隠れていて、イエスさまを指差すこともできたはずです。しかし、接吻が合図に選ばれたことに、ユダの本質が明らかになります。

 ユダは「先生」と言って、接吻しました。自分が裏切る者であることを誰にも知られず、またイエスさまに対する尊敬と交わりを失うことなく、裏切りを達成しようとしたのです。いつになく激しい接吻でした。イエスさまをしっかりと抱き締めて放さなかった、とも言えるでしょう。「捕まえて、逃さないように連れて行け」という言葉を態度で表わしています。

 裏切るという行為は、特別なことをすることではなく、本人でさえ心が痛まずに、自分が裏切っていることすら忘れてしまうほどに、日常の平凡な行為として行われます。わたしたちの周囲にある大小の裏切りも、このような「日常的なもの」の陰に隠れて、その目的を果たすのです。であればこそ、それは相手の望みを打ち砕くほどに、大きな力を持ちます。

 今、わたしたち自身がそれと気づかぬ裏切りの只中にこそ、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。

 

■絶望の只中に

 イエスさまは難なく捕えられてしまいました。この世では力の強い者が何でも自分の思う通りに物事を果たそうとしますが、ここでも力のある者が勝利しているように見えます。正義や道理がどうであれ、結局は正しい者ではなく、強い者が勝つのだという、諦めに似た思いを覚えさせられます。

 しかし、54節に「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」とあり、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」と56節に記されているように、今ここに、力のある者が勝利したのではなく、聖書の言葉が、神のみ旨がなされたのだ、ということを知ることが大切です。

 見える面だけを見れば、どう見たとしても、イエスさまの方が敗北者です。神の勝利を見出すためには、信仰の眼で、真理を見抜く眼で、物事を見る必要があります。彼らの勝利がどんなに華々しいものであったとしても、また踊り出したくなるような嬉しい出来事であったとしても、それは一時的なものであって、やがて過ぎ去るものでしかありません。

 現実の問題に対する人間の努力は、その一つひとつ大切なものですが、それだけでは決定的な解決をもたらすことはできません。どうしても、御子キリストの十字架と復活を通して示された永遠の勝利がなければ、人間の罪の問題は克服できません。このことを見極めるのは、ただ信仰によってできることです。

 混沌としているように見えるわたしたちの現実もまた、神のみ旨とイエスさまの恵みによって支えられています。「これらのことを話したのは、あなたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と、イエスさまは語られました。であればこそ、わたしたちが危機感から悲壮な行動をしたり、絶望感から投げやりな生き方をしたりすることは決してありません。

 今、わたしたちの絶望の只中にこそ、神の御子、イエス・キリストが、立ってくださっているからです。

 

■無力さの只中に

 51節に、「手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落した」人のことが語られています。ヨハネによる福音書はそれを、ペトロだと語ります。しかしここにその名は記されません。それどころか、この人が弟子の一人であるとも、そうでないとも言われません。ただ「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人」とだけ記されます。

 それは、一番弟子であるペトロの名誉を守るためなのかもしれません。しかし、これをペトロであることを皆が知っているという前提に立って考えてみると、ここにはさらに深い意味が込められていると言えるかもしれません。ペトロはこのとき、もはや弟子ではなく、ただ「一緒にいるだけの者」になってしまっていたのではないでしょうか。恐怖にかられて剣を抜き、切りかかったペトロは、イエスさまとはもはや何の関係もなく、ただそこに一緒にいるだけの者になってしまったのです。

 イエスさまのみ心を知らない者は、第三者でしかない、傍観者でしかありえません。これは、弟子たちの弱さを示すためではなく、イエスさまが救いのみ業を成就されるときに、弟子たちは何もできずに、ただ傍らに立っていただけだった、ということを物語るものです。

 わたしたちも、イエスさまの弟子の一人と自負しながら、「ただ一緒にいるだけの者」になってしまうことがあります。イエスさまはそれでもなお、わたしたちを弟子の一人にしていてくださいます。その恵みに励まされながら、感謝と喜びをもって、イエスさまが教えられた愛のみ業に励むのが弟子であることの証しです。そうでないかぎり、自分では大切なことをしたと思ったとしても、相手の手下の一人を傷つけるくらいのことしかできないのです。

 このときイエスさまは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語られます。わたしたちの判断から出る行為が、どんなに神の求められたことと違ったものであるかを教えられます。56節にあるように、結局のところ、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。

 行きずりの人という言葉があります。このとき、弟子たちは皆、イエスさまに対して行きずりの人でしかありませんでした。しかしこの後、弟子たちがそうならなかったのは、弟子たちの信仰が立派だったからではなく、ましてや弟子たちの努力によるのでもなく、イエスさまが弟子たちを見捨てられなかったからです。信仰とは、わたしたちが自覚的に持ち続けるものではなく、ただ父なる神が、御子イエスがわたしをとらえていてくださることだ、と言わなくてはならないでしょう。

 今、わたしたちのその無力さの只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださっているのです。

 

■闇の只中に

 イエスさまは、自分を捕えようとして来た人々に対して、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか」と言われます。イエスさまを捕えようとした人々が、必要以上に武装していたからです。

 これは、わたしたち人間が無理に何かをしようとするときの状況、姿を示しています。自分の側に問題を感じるときこそ、人間は必要以上に身構えます。彼らは、強盗に立ち向かうようにして、無力なイエスさまを捕え、十字架に付けるために引き立てていったのです。

 人は、相手を悪人にすることによって初めて、真剣に攻撃することができます。自分は正義の側に立っている、そう思えるからです。ただこのとき、彼らは群衆を怖れて、夜の暗がりを頼みとしながら、彼らの計画を実行しました。悪を行う人は、夜に人知れず、自分たちの思いを遂げようとします。そのため、悪が思いのままに支配している様子はしばしば「夜」に譬えられます。暗がりの中でイエスさまが捕えられたのは、まさに夜でした。しかし、その夜の闇の中で、神のみ旨も果たされていったのです。

 今、わたしたちの闇の只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださっています。

 

■裸の姿の只中に

 そして最後に、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と書き記されて、今日の出来事は閉じられます。弟子たちの臆病さ、意気地なさ、卑怯さなどが、これを聞く人々の心に焼き付いたことでしょう。

 しかし、人の悪口や批判を聞いていて、楽しい人はいないでしょう。悪口を言っている人の人格や見識を疑うことも、しばしばです。さらに言えば、悪口を言っている、と悪口を言っている人も同じです。ショッキングな最後のひと言は、そんな批判のための批判、貶めるための批判なのでしょうか。

 そうではないでしょう。実は、同じ出来事を記しているマルコ福音書はここに、名もなき、ひとりの若者がその上着を脱ぎ捨てて、裸で逃げ去ったという話を書き加えています。この若者が誰であったか、マルコは何も語りません。そのため、いろいろな推測がなされてきましたが、多くの人は、著者のマルコ自身ではないかと言います。映画監督のヒッチコックが、自分の映画の一場面に、ふとその姿を現していたように、マルコも自分を無名の若者として、ここに登場させたのかもしれないと言います。なぜか。この福音書を読み、聞いていた人々に自分自身の恥ずかしい失敗談を語ることによって、イエスさまの受難の出来事を、他人事としてではなく、我がこととして聞くことを願ったからです。

 そしてそれは、マタイもまた同じであったに違いありません。追っ手が、若者の着ていた亜麻布に手をかけた途端に、彼の勇気は消え去ってしまいました。この若者は裸で逃げ出しました。裸は恥を表わすものです。創世記、エデンの園でアダムとイヴが蛇にそそのかされて神の言葉に背いたとき、二人は裸であることを恥じるようになりました。恥は、罪、罪の意識を表すものです。マルコだけでなく、弟子たちのすべてが恥だらけの姿だったのです。

 今、恥多い、わたしたちの裸の姿の只中に、御子イエス・キリストが、立ってくださいました。

 

■悔い改めの只中に

 この後、弟子たちは、復活のイエス・キリストと出会い、永遠のいのちを約束され、御子の贖いゆえに、神の祝福を受けることが許されていることを知り、本当に救われ、真の勇気を与えられます。弟子たちはそのとき、心からの悔改めと共に、このような自分たちを顧みてくださった御子の愛を語り、父なる神に栄光を帰するために、自分の裏切り、罪、無力さ、闇、そして恥を話さないわけにはいかなかったのでしょう。

 弟子たちの失敗談を聞いていた人々は、その弟子こそ、今、目の前にいる人であり、その弟子が御子の十字架と復活を告げる者として語っている姿に、御子の大きな恵みの業を見、彼らも赦しと励ましとを改めて信じることができたことでしょう。この出来事は、深い慰めと励ましに満ちたものだったはずです。

 福音書は、弟子たちが逃げ去った後、そのことがまるでなかったかのように、御子の十字架への歩みを淡々と描いていきます。御子の十字架こそが、弟子たちの弱さと挫折を赦すものであり、そしてまた、わたしたちの弱さと裏切りを赦すものであることを示したいからでしょう。

 わたしたちを救い、新しいいのちの希望に生かされて生きるようにと、わたしたちの悔い改めの只中に、御子イエス・キリストが、今、立ってくださっています。

 裏切りの中に示された恵みと赦しと救いに、共に感謝を捧げましょう。