福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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12月26日 ≪降誕節第1主日/歳末感謝礼拝≫ 『神様は気前がいい』マタイによる福音書20章1〜16節 沖村裕史 牧師

12月26日 ≪降誕節第1主日/歳末感謝礼拝≫ 『神様は気前がいい』マタイによる福音書20章1〜16節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■天の国

 よき知らせ―福音って、何でしょう。一言で言えば、「天の国」のこと、神様が「今、ここにおられる」「今、ここに救いがある」ということです。

 マタイによる福音書20章の冒頭でも、イエスさまは「天の国は次のようにたとえられる」と語り始めます。繰返し、繰り返し天の国について語られてきたイエスさまが、直前19章の「金持ちの青年」との会話に続けて、今日のたとえを語られます。

 金持ちの青年は、「永遠の命を得るには、どうしたらよいか、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と、イエスさまに尋ねました。永遠のいのちとは、肉体的にいつまでも生き永らえるというようなことではなく、永遠なる神様と共に生きることです。しかも、死後の世界に初めてそれを経験するというのではなく、今、ここに与えられるいのち、救いのことです。神様は今ここに共にいてくださって、まことの救いが今ここに与えられている。それが、イエスさまが繰返し語ってくださる「天の国」「永遠の命」です。

 年の瀬を迎え、マスメディアはこぞってこの一年を振り返り、新しい年に向けての願いや課題を語ります。ただ、その口調は総じて暗く、悲観的です。しかしイエスさまは今日も、過ぎ去った日々を嘆くのではなく、まだ来ぬ日々を思いわずらうのでもなく、ただひと言、「今、ここに救いがある」と宣言されます。今、ここに救いがある。あなたがどんなに迷っていようと、あなたがどんなに疑っていようと、そんなことを吹き飛ばすように、「今、ここで、あなたを救う」と宣言してくださるのです。

 だから、教会の教勢が低迷しているとか、いっこうに景気がよくならないとか、人間関係が大変だとか、将来が不安だとか、病気になったらどうしようかとか、そんなことを心配する必要はもうなくなったと言うとすれば、言い過ぎでしょうか。でも、本当に何の心配もいりません。神様は今ここで働いておられますし、これからも働かれます。わたしたちが神様のみ業についてあれこれ心配するのは、むしろ、働いておられる神様に失礼なことです。ですから、あれこれと心配したり、だからダメなんだと批判ばかりしたり、自分のことを卑下したりするよりも先に、神様と共に働くことをこそ願いたいものです。

 そもそも「救い」について、いくら言葉を尽くして説明されたとしても、わたしたちが救われることはありません。そうではなく、辛い思いをして救いを求めている人に、イエスさまの名によって「神様はあなたを愛しておられます」「今、あなたは救われました」、そうはっきりと宣言する。そこに救いがあるのです。大切なことは、救いは今ここに差し出されているのですから、後はわたしたちがそれを心から受け取るかどうか、つまり、そのことを本気で信じるかどうか、ただそれだけです。

 

■働かざるもの、食うべからず

 とはいえ、皆さんは今日の「天の国のたとえ」を、簡単に、ああそうかと受け入れることがおできになったでしょうか。

 このたとえに語られる、ぶどう園の主人の「気前のよさ」は理解しがたいものです。ここで語られる「気前のよさ」は、わたしたちの日常生活ではまずあり得ないばかりでなく、理不尽だとさえ思えるからです。ぶどう園の主人は、クレームをつける労働者に、「(わたしは)あなたに(対して)不当なこと(、不正)はしていない」と答えています。しかし、その人はただ、働いた分に応じて報いがあるべきだと言っているに過ぎません。一日中働いた人間が、半日しか働かなかった人、たった一、二時間しか働かなかった人よりも、多くの報いを得ることは当たり前のこと、決して不正なことではありません。それは、わたしたちの常識からすれば当然のことで、この主人のしていることの方が明らかに理不尽で、不可解です。

 現代社会では、短い時間よりも長い時間働いた者に報酬が与えられ、そしてまた、一日中働いても大して業績を上げない者よりも二時間で優れた成果を上げる者の方により多くの報酬を与えるのは当たり前だと考えます。事業を経営する人であれば、誰もがそう考えるでしょう。いわゆる業績主義と呼ばれるこの考え方は、時代を問わず、地域を問わず、社会主義・資本主義を問わず、すべての社会に共通する常識です。皆さんよくご存じの格言で言えば、「働かざるもの、食うべからず」というわけです。

 「働かざるもの、食うべからず」

 実は、この格言、テサロニケの信徒への第二の手紙3章10節にある、「働きたくない者は、食べてはならない」というパウロの言葉に由来するものです。

 しかし注意をしてください。ここでパウロは「働かない者は、食べてはならない」とは言っていません。「働きたくない者は、食べてはならない」。「働かない者」ではなく、「働きたくない者」です。働くことを拒んでいる人が問題とされます。働き場があって、本人にその仕事をする力もあって、それを続けることも保障されているのに、「働きたくない」「働こうとしない」ことが問題とされているのです。テサロニケの教会の中にも、そしてどの時代、どの社会にも、働こうとせずに、ただその地位や身分によって、パンを得ることを当然と考える人たちがいました。パウロが問題としているのはそのような人たちのことです。

 イエスさまもここで、働きたくない者、働こうとしない者にまで報酬が与えられるべきだ、と言われているのではありません。

 

■働くということ

 そもそも「働く」ということ、「労働」とはわたしたちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。

 「働きたくない者は、食べてはならない」というこの言葉は、聖書にあるユダヤ教の伝統的な教えに基づいたものです。神様は、天と地、生きとし生けるものすべてを造られ、いのちを与えてくださいました。そして、十戒の中の「安息日」の規定の前文に「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし」とあるように、わたしたち人間は、神様から与えられたそのいのちを生きるために、それぞれの働き、仕事へと召されています。しかもわたしたちは、イエスさまがご自身のいのちをもって贖(あがな)ってくださって、いわば、愛によって今ここに生かされているのですから、イエスさまに倣(なら)って、自分の体に汗し、労苦して、隣人のために、愛のために働くこと、それこそが、神様から与えられたかけがえのないいのちを大切に生きる道であるはずです。わたしたちは、それぞれに与えられた働き、仕事を通して生きるように、互いに仕えるようにと求められているのです。

 働くという漢字が「人が動く」と書くように、それは、わたしたちの立ち振る舞い、わたしたちの生すべてを意味する言葉です。働くことは、人生の一部ではありません。職業を意味する英語が “calling” と表現されるように、働くことは、神様による召し、招きです。仕事や職業がどのようなものであれ、わたしたちは神様から与えられたこのいのちを生きるために働くのであり、働くことは、神様の御心によるイエス・キリストの愛の業にわたしたちが参与することです。

 しかし、多くの人は自分のために働いていると信じています。仕事や職業は、自己実現、自己充足のためのものだと考えています。自分にふさわしいかどうか、やりがいがあるかどうか、そればかりを問います。そして時に、こんな仕事しかできないと嘆きます。しかし仕事、職業は本来、召し、招きとして神様から与えられたものです。であればこそ、仕事や職業に貴賎などありません。大きな仕事や小さな仕事の区別もありません。わたしたちは、自分ひとりだけで生きているのではありません。見も知らぬたくさんの人々の、様々な働き、仕事があって初めて、生きていくことができます。自分の誇り、自分のプライドのために働くことを、あるいは、できる限り楽をして働くことを、自分の利益と自分の安定のためだけに働くことを、神様は求めておられるのではありません。ましてや、はやりのドラマのように、十倍返しで復讐することに仕事の意義を見出すことなど、神様が喜ばれるはずもありません。

 ただ、このいのちを生きるために誠実に働くこと、その仕事を通して互いに仕えることだけが求められています。であればこそ、どれほど弱く小さい者も、神様の、イエスさまの示してくださった基準で言えば―それは多くの人には隠されているかもしれませんが―、今もここに現われる天の国においては、十分な働きを、仕事をなすことができるのです。

 

■取るに足らない働きでも

 ご高齢の信徒の方が、わたしには何もできないけれど、人のために祈ることだけはできるわ、と言われました。わたしにも、皆さんにもご経験があるように、そのような祈りはとても尊く、また大きな慰めと励ましに満ちたものとなります。
 自分のためにではなく、人のために、病院のベッドの上で編み物をしてくださる病気の婦人がおられました。
 以前にもご紹介をしたことがあります。病床で洗礼を受けられた男性は口も利けず、わずかに右手を上下に動かすことしかができませんでした。ベッドの上で眠るか、テレビを見るだけの生活のように見えます。しかし決してそうではありませんでした。どれほどの不自由、苦痛の中にあっても、お会いすればいつもやさしく微笑んでくださるその姿は、心労に挫けそうになるご家族を励ますものでした。

 イエスさまもタラントのたとえで、1タラントでも、地面に隠しておいたのでは働かないと言われました。わたしたちが、どれほど欠けあるものであっても、何のとりえのないものであっても、神様の恵みによって働くなら、実は、何もできないという人はひとりとしていないのです。

 今日の福音、「ぶどう園の労働者のたとえ」で、五時まで立っていた人の気持ちは、大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、横浜の寿町の実状を少しでも知っている方なら、お分かりになるのではないでしょうか。働けるのに働かない、少しでも楽をして働きたい、自分の自尊心のためだけに働くというのではありません。働きたいのに働けないという苦しみは、本質的な問題をわたしたちにつき付けます。それは、自分は意味のないものだ。役に立たない人間だ。誰からも必要とされず、相手にもされない存在だという、自分の存在の根っこに関わる痛みです。

 夜明けから夕方までそういう思いで一人立っていた、その人の気持ちに共感できるはずです。そこに主人が来て、「わたしのぶどう園においで」と招いてくれたばかりか、なんと、他の人とまったく同じ報酬を与えてくれる。その人はその時、どれほどうれしかったことでしょう。雇われ、ひとりのまともな人間として扱われ、報酬をもらった、その喜びがおわかりになるでしょうか。

 すべてを失った人が、何も持たない人が、何かを与えられる。何をいただいてもうれしいでしょう。それは、百持っている人が十もらって、百十になる喜びとは違います。同じ十でも、ゼロだった人が十もらってうれしいということがどれほどの喜びとなるか。そうです。まったくの無であった、何の意味も、何の価値もない自分に、神様が声をかけ、ご自分のもとに引き寄せてくださって、仕事と役目を与え、あり余るほどの報酬を与えてくださるのです。

 渋谷駅で銅像になっている忠犬ハチ公のことをご存じだと思います。ハチ公はどうして偉いのでしょうか。別に駅前でゴミ拾いしたわけでも、迷子を助けていたわけでもありません。来る日も来る日も、ご主人様を待ちつづけたから偉いのです。ハチ公の周囲にはいろんな誘惑があったはずです。おいしそうなエサで連れていこうとする男、優しく手招きする女がいたに違いありません。けれども、ハチ公は決してしっぽを振ってついていきませんでした。もしも、「最近、我が家の食事はよくないので、今日はこのオジサンのお家にご厄介になろう」などと考え、日替わりでいろんな人についていっていたとしたら、決して銅像にはならなかったでしょう。ハチ公は、一人のご主人様だけを見て、そのご主人にだけ褒めてもらいたくて待ちつづけたのです。ただそれだけで銅像になったのです。

 わたしたちの自己実現や自己満足を基準にした仕事ではなく、与えられた仕事や働きがどのようなものであれ、たとえ取るに足らないものに思えても、誠実にこのいのちを生きるためのものであれば、愛によって互いに仕え合うものとなるのであれば、それは必ず、神様によって喜ばれますし、そのような働き人になることが求められているのです。

 

■気前の良い神様

 神様は気前のよさをねたむ人たちにこう言われました。

 「わたしはこの最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」

 もしそう問われたら、みなさんはどうお答えになるでしょうか。

 「神様、どうぞご自分のしたいようになさってください。あなたのなさりたいことが、今、ここに実現することこそがわたしたちの願いです。あなたがしたいようになさったからこそ、わたしは今ここに生きております。あなたの気前のよさによって、わたしはあるがままに生きていけます。どうか、わたしの思いではなく、あなたの思いが実現しますように」

 そうお答えしたい、心からそう願います。

 そして、わたしたちそれぞれにいのちと賜物を与えてくださり、ふさわしくない者にも気前良く報いてくださる愛の神様に感謝しつつ、新しい年も、愛をもって互いに仕え合う働きを、それぞれになすことができればと願う次第です。