福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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12月5日 ≪降誕前第3・待降節第2主日—朝拝≫ 『死を告げ知らせる―聖餐(11)』コリントの信徒への手紙一 11章23~26節 沖村裕史 牧師

12月5日 ≪降誕前第3・待降節第2主日—朝拝≫ 『死を告げ知らせる―聖餐(11)』コリントの信徒への手紙一 11章23~26節 沖村裕史 牧師

■食卓、それとも祭壇?

 今日も、ウイリアム・ウィリモン『日曜日の晩餐』の8章「死を宣べ伝える」から、聖餐についてご一緒に学びます。

 今日の箇所にウィリモンは、ひとりの友人が、犠牲と死の時としての聖餐ではなく、食事としての、交わりといのちの時としての主の晩餐をウィリモンが強調することに納得できないと言った、と書いています。「聖餐のときにわたしたちがやってくるのは、食卓なのか、それとも祭壇なのか」、友人はそう問いかけました。

 食卓は、亜麻布のナプキンと素敵な銀食器の場所。ナイフとフォークがチリンチリンと鳴る音以外には、陽気で節度ある会話が途切れることのない場所です。その食卓こそ、良いマナー、暖かなもてなし、そして包容力のある、身近にいてくださる神様の場所です。

 一方で、祭壇は犠牲と、生と死とに関わる神秘的な場所です。もっとも聖なる場所―至聖所に立つ祭司たちは、牛や山羊の喉(のど)を切り裂くために準備されたナイフを手にします。祭壇は、死に逝く動物たちの叫び声と大理石の階段に滴り落ちる血に彩られます。罪と死と犠牲の物語がすぐ傍(かたわら)にありました。

 その意味で言えば、喜びとエチケットの場所である食卓もまた、犠牲の場所です。あなたが夕食に食べたニワトリはどこから来たのでしょう。空調の効いた、ムード音楽の流れる、サランラップに包まれた殺菌の行き届いたスーパートマーケットのような世界の中で、現代人であるわたしたちは、日曜日の晩餐の席に着くためには、何かを殺し、血を流さなければならないのだということを忘れがちです。いのちの糧となる食べ物は、何かの死、そして誰かの犠牲なしには、わたしたちの食卓の上に置かれることはあり得ません。

 昔、祖母が庭の鳥小屋に入って、めんどりを捕え、首をひねって、羽をむしり取り、それを整えて夕食を準備してくれた、遠く過ぎ去りし日のことが思い出されます。人はだれも、血と犠牲、負担と死が至る所にあるこの現実から、食事と会話の楽しいだけの時の中へと逃げ込むわけにはいきません。

 食べたり、飲んだりするときだけではありません。わたしたちの信仰でも、癒しや安らぎ、報いや幸せを望むその一方で、痛みや苦しみ、死や負担を避けたり、否定したりしがちです。『キリストに倣(なら)いて』の中でトマス・ア・ケンピスが言うように、

  多くの人はパンを裂くためにイエスに従うけれども、

   主の受難の杯を飲むために従うものは誰ひとりいない。

  多くの人は主の奇跡に敬意を払うけれども、

   主の十字架の恥に従うものは誰ひとりいない。

ということです。

 

■見返り

 最近受け取った、一通の郵便メールのことを思い出します。

 神様は、わたしたちに与えてくださる良いものをお持ちなのだということを証するために、ある「福音伝道者」が送ってくれたものでした。わたしが新しい自動車を必要としていないかとか、わたしがお金の問題で苦しんでいないかと尋ねた上で、わたしの荒唐無稽な夢を超えて、神様がわたしを祝福してくださるだろうと約束するものでした。最初に千円投資すれば、わたしは神様からこれらすべての良いものを受け取り始めることができるのだ、そんなことが書かれていました。祈ってお金を送ったことで、あれやこれを受け取ることができたという人々の証し、証言でいっぱいでした。

 わたしには、この「福音伝道者」とその信奉者たちを批判することができません。それと同じ、神にではなく自分に仕えようとする態度が、教会の中にも、わたしの説教にも、皆さんの中にもあるからです。イエスさまが新しい車を与え、給料を上げてくれるとは思ってもいません。でも、わたしも確かに、わたしの信仰に対するささやかな見返りとして、健康や子どもたちの献身を期待しています。わたしが説教の中で告げる恩恵のほとんどは、平和、喜び、満足感、悩みなどからの自由といった物質的なものというより、どちらかと言うと精神的なものですがしかし、それらはやはり、キリストに従うことに対する見返りとして語っています。

 わたしたちが神様と契約したのは、苦痛のためにではなく、それはすべて栄光を享けるためでした。この杯をわたしたちから取り去ってください。イエスさまと一緒に食卓に座ることは素晴らしいことです。でも、わたしたちではなく、他の小羊たちを、主と共に屠殺場に連れて行ってください、と。

 祭壇は、燭台と花束のためのものではあっても、もはや、主のためのものでも、わたしたちのためのものでもありません。

 

■分裂

 ときに教会に絶望し、希望を失いそうになるたびに、わたしは、パウロが仕えた教会のことを考えては、気を取り直します。状況が悪化することがあるかもしれません。口げんかをし、意見が対立することがあるかもしれません。しかし、少なくとも最初期のコリント教会ほど事態が悪くなることはありません。

 コリントの人々のトラブルがどのようものであったのか、正確には分かりません。しかし、彼らへ宛てられたパウロの手紙から、コリントの信徒たちがひどく分裂していたということだけは分かります。彼らが集まるとき、「良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」(11:17b)とパウロは語ります。「お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います」(11:18b)と言います。怒りがこみ上げてきます。コリントの人々が食事のときに何をしたのか考えると、彼の言葉はいっそう厳しくなります。

 「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには…神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしは…この点については、ほめるわけにはいきません」(11:20-22)

 そしてパウロは、二階の部屋で行われた聖なる食事の制定の物語を語り聞かせます。

 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、…だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(11:23, 26)

 コリントの人々は、主の死を告げ知らせるのではなく、自分たちの自己中心性、罪深さを告げ知らせています。パウロはこれを、主の晩餐の悪用と見なすのです。

 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(11:27-29)

 パウロは彼らに、クリスチャンとしてのテーブルマナーを教えます。

 「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」(11:33)

 

■悪用と誤解

 コリントの人々の問題の根っこにあるものは何だったのでしょうか。

 コリントの人々が主の晩餐について混乱していたのだと聖書学者たちが指摘するように、主な原因は、「霊的な贈り物」(12:1以下)に対するコリントの人々の誤解と悪用にありました。

 ペンテコステの時のように、霊を注がれた教会の人々は、様々な言葉を語り、癒し、預言し、他の良いこともしますが、コリントの人々は、うぬぼれの強い、横柄な方法で、口汚い言い争いをしているのです。彼らにパウロは語ります。ちょうど、ひとつの身体が異なる働きを持つ多くの部分を持っているのと同じように、キリストの身体である教会には、個人的な達成のためではなく、ましてや他の人を見下すためでもない、すべての人の益となるために自分たちの賜物を使うことが求められている、と。すべての人に霊的な賜物が与えられているのに、コリントの人々は、自分たちをキリストの身体たらしめる、ただひとつの贈り物に欠けていました。愛です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。

 コリントの人々は、主の晩餐を古い異教の宗教の中にある聖なる食事と混同したのかもしれません。

 神秘的な儀式での聖なる食事は、神秘的な物を貪(むさぼ)るようにして食べることで、個人の不老不死を達成しようとするものでした。いのちを永らえさせる、魔術的な食べ物で身体を満たしたいとの願いから、聖なるパンや聖なるぶどう酒が用いられ、時には血が飲まれることもありました。言い換えれば、異教の儀式での聖なる食事の目的は、満たされて、死と悪から救われ、永遠に生きるために、たくさんの聖なる食物を食べることでした。

 キリストの体と血を飲み食いすることについて信徒たちが語っているものが、異教の儀式で楽しんでいた魔術的な不老不死の食事と同じものを意味するのだ、とコリントの信徒たちが考えていたとしても、不思議なことではありません。それは十分にあり得ることです。だからこそ、貧しい人たちより我先にと急ぎ、できる限りたくさんの聖なる食物を掴み、自身の疼きと痛みを癒し、そして永遠に生きよう、そう考えました。

 

■十字架にかけられた主

 パウロは、彼らが間違ったことを考えていると語ります。主の晩餐は、何か個人的な、魔法のような、神秘的な食事ではありません。利己的で排他的な、自己満足のための時間でもありません。

 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(11:26)。

 別の言い方をすれば、パウロは、コリントの人々の自己中心的な行いに対して、イエスさまに注目させ、イエスさまの死の厳然たることに言及することによって、対抗、対処しようとするのです。十字架によってです。

 事実、イエスさまは拒絶されました。苦しみ、そして死んだのです。神様への服従は、十字架の上で終わりました。コリントの人々はどうして、このスキャンダラスな十字架を、魔術的なものによって回避することができると思ったのでしょうか。なぜ彼らは、弟子であることが他の人々に仕えるということではなく、一人ひとりに報いと利益と結果が与えられることだと考えたのでしょうか。

 パウロは、プライドが高く、うぬぼれの強い、自分の利益だけを追い求めるコリントの人々に対して、この手紙の冒頭にこう書き記しました。

 「兄弟よ、わたしがあなたがたのところに来たとき、わたしはあなたがたに高邁な言葉や知恵によって神の証を告げ知らせようと来たのではありませんでした。なぜなら、わたしはイエス・キリストと十字架にかけられた主以外、あなたがたの間では、何も知るまいと心に決めていたからです」(2:1-2)

 パウロは、イエスさまがご自分を与えられたことを彼らに思い出させることで、自分の利益ばかりを追求する彼らの誤りを正そうとしたのです。コリントの人々は賜物を探し求めます。キリストはご自身をお与えになりました。パウロは、癒し、不滅、報い、彼らが夢中になっているどんなことも、コリントの人々に説教することはありませんでした。ただ、イエスさまが何をされたのか、彼は説き聞かせました。彼は十字架について説教しました。彼は死について説教したのでした。

 

■主の晩餐

 主の晩餐は、この死を告げ知らせる、とパウロは言います。死へと赴く前、イエスさまは最後の晩餐を取られました。その食事は「主が裏切られるその夜」のことでした(11:23)。イエスさまは、裏切り、臆病、貪欲と自己本位な弟子たちの信仰のただ中で、食事をされました。世界中のすべての罪と悪がその夜、その食卓に主と共にありました。

 主の晩餐は、十字架がクリスチャンにとって付け足しなどではないことを、すべての人々に告げ知らせます。服従と信仰の道は、十字架へ、そしてありのままの世界へと導きます。もしキリストに従おうとするのなら、わたしたちは十字架を取り上げ、従わなくてはなりません。不正、圧迫、偏見、戦争、飢饉、病気、わたしたちが日々他の人に与える、大きくまた小さな残酷な行為と戦わなければなりません。

 主の晩餐は、わたしたちの主が肉となられた、と宣言します。 イエスさまは、どこか別のファンタジーな世界にではなく、この世界を生きられたのです。主は生き、そして飢え、そして苦しみ、そして死にました。わたしたちがそうするように、です。主は、この世界で悪と向き合われました。主は、すべての苦しみ、罪深い死に瀕した人類の群れと共に、ご自身を軛(くびき)につながれたのです。彼は、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:7-8)。

 主は「ご自身を無にされた」。コリントの人々のように、わたしたちも自分を満たし、自分を自分で腹いっぱいにし、すべての疼きと痛みを癒し、そして永遠に生きようとします、他のすべての人を無視してでも、そうしようとします。しかしそれは、イエスさまが告げ知らせた信仰ではありません。

 様々な罪のすべては、神ならぬもの―いわば自分自身を礼拝するという罪の結果であり、ただ神様だけが与えることのできる安全を求めるよりも、わたしたちが被造物であることを捨てて、神々であることを望んだことの結果です。それが罪です。それが死へと導きます。

 パウロにとって、わたしたちの罪への答えこそが十字架でした。

 わたしたちが新しく変えられるということが何を意味するのか。十字架の上に、典型的な例を見ることができます。イエスさまはそこで従順でした。神に従順で、死にさえ従順でした。わたしたちのためにご自身をお与えになりました。自分を与えることこそが、モデル、ビジョン、道となります。

 パウロが言うように、自分本位と偶像礼拝の自己中心性において食べることは、「身体をわきまえる」ことのできないことであり、「ふさわしくないマナー」で飲み食いすることであり、キリストがわたしたちのためにしてくださったことの真反対のことを他の人にすることです。

 パウロは言います、わたしたちが喜んで弱いものとなり、十字架を負い、キリストの死にあずかることによって、わたしたちはその食卓で救われ、そして裁かれるのだ、と。その死なしに、いのちはありません。

 主の晩餐は、この世の生活の困難な事実から逃れるためにわたしたちが服用する魔法の治療薬のようなものではありません。しかしそれは、そうした困難な事実に対処する方法を与え、示すことができます。祈りも、聖なる油も、聖なる水も、聖なる食べ物も、痛み、病気、不正、死の可能性から、わたしたちを逃れさせてはくれません。避けようとすることは、キリストの道に従うのをやめることです。食卓で、祭壇の前で、わたしたちの最も苦しい時に、主が苦しまれることによって、わたしたちは贖われたのです。

 ひとりの友人が入院をしました。末期癌の最後のステージになっていた彼女の体は悲鳴を上げていました。訪ねた時、彼女はこう言いました。「主が、わたしよりも前にこのことを経験しておられたことを知って、初めてこの痛みを受け止めることができたの」と。

 ここにわたしたちの希望があります。わたしたちの神様はもう以前からそこで、痛みの中に、暗闇の中に、死の中にいてくださいます。キリストがそのためにやって来られました。そしてすべてのことをよいものにしてくださいました。わたしたちはそう言うことができます。聖餐は、キリストが死んでくださったたことで、わたしたちが生きていることを思い出させてくれます。

 「彼が担ったのはわたしたちの病/

  彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…

  彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり

  彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。

  彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/

  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:4a,5)

 死を否定し、満足を求め、自給自足する世界に向かって、パンを裂き、食卓に集まるたびに、わたしたちは「主が来るまで主の死を告げ知らせる」のです。