福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―ゆるしてください』 マタイによる福音書6章12節 沖村 裕史 牧師

2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―ゆるしてください』 マタイによる福音書6章12節 沖村 裕史 牧師

マタイでは、「罪」ではなく「負い目」です。これは、オフェイレ―マというギリシア語ですが、負債とも訳されます。そして原文の順序はこうです。

「そして、ゆるしてください、われわれに/もろもろの負債を われわれの/そのように また/われわれが ゆるした/負債者たちに われわれの」

わたしたちがいつも唱える主の祈りと異なり、マタイでは「わたしたちのもろもろの負債をゆるしてください」が先に記されます。「神さま、ゆるしてください」が先です。そのあとに「そのようにまた、わたしたちもわたしたちに負い目のある人々をゆるしました」です。大切なことは、わたしたちのゆるしは条件ではなく、それに先立って、神さまのゆるしがあることです。

そのことをはっきり知ることができるのが、同じマタイによる福音書18章23節以下です。とてつもない負債を持つわたしたちのため、イエスさまは腸を揺り動かし、ゆるしてください、とわたしたちと一緒に神さまの前にぬかずいておられます。腸を揺り動かし、我が身を切るようにしてイエスさまは、十字架にお架かりになり、わたしたちの罪をゆるしてください、と祈ってくださったお方です。そのイエスさまが一緒に祈ってくださっている祈り、それが今日の祈りです。

わたしたちが罪から目を逸らそうとするのはどうしてでしょうか。それは、ゆるしがないからです。自分の足りなさ、失敗によって、負債を背負う時、損害を与えてしまった相手にわたしたちが必要とするゆるしを乞うことができないのは、責められると分かっているからです。だから、自分の罪を認めることができない。責められると、すぐに相手の落ち度や、足りなさを責めることに転じてしまう。責任を負うべきなのが本当は誰なのか、犯人捜しに夢中になってしまう。いえ相手に責任をかぶせようとします。

しかし、神がわたしたちの罪を語られるのは、失敗しても、過ちを犯しても、責められることのない、大きなゆるしの中で、です。今一緒に祈ってくださるイエスさまは神にゆるしを願っていいと言われるのです。神は、ただゆるしの中でのみ、わたしたちを見ていてくださるのだ、ということです。ゆるされて生きることができたら、自分がある人との関係においてゆるされていると知ることができたら、そこに、本当に生きる力を与えられるでしょう。

逆に、ゆるされることがなければ、わたしたちは生きていけません。イエスさまを裏切ったユダのように、です。聖書の登場人物の中で必ずしも、ユダが特別な悪人、罪人とは言えません。事実、ユダは冷酷な悪人になり切れていません。裏切ったその後、自分の罪に苦しみます。マタイによる福音書27章3節以下です。ユダの悲劇、それはイエスさまを売り渡したこと、神の子を売り渡すという救い難い罪を犯したことではなく、罪を犯した後で間違った場所に帰ったことでした。悔い改めの言葉を告白するユダを、祭司長や長老たちは突き放します。「お前の罪はお前自身の問題だ。自分で考えろ」。ユダに必要なのは考えることではありません。ただ告白を受けとめてもらうこと、ゆるしてもらうことです。崩れ落ちる自分を抱きしめてもらうことです。しかし、そんな人はどこにもいません。死ぬしかありませんでした。たとえ踏みとどまったとしても、死んだように投げやりに生きるしかありません。

ユダが、イエスさまのもとに帰って、罪の告白をすることができなかったのは、なぜでしょうか。彼は、イエスさまの、今日のこの祈りを正しく聴くことができていなかったからです。彼にとって神は、正しいことをなし、正しいことを要求する方でした。ふさわしくない者は厳しく裁き、滅ぼされる方でした。一方、ペトロやパウロたちが出会い、信じた神は、イエスさまがこの祈りによって教えられ、あの十字架によってイエスさまのいのちによって示された、限りなく罪をゆるして、全ての人を救ってくださる、愛の神でした。そのことを心より感謝し、わたしたちの罪をゆるしたまえ、わたしたちも罪をゆるします、愛し合います、と真摯に祈り続けたい、そう願います。