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2月21日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『しるしを欲しがるとき』マタイによる福音書12章38~45節 沖村裕史 牧師

2月21日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『しるしを欲しがるとき』マタイによる福音書12章38~45節 沖村裕史 牧師

■きちんと掃除したのに

 今朝のみ言葉の後半、43節から45節には「汚れた霊が戻って来る」という奇妙なタイトルがつけられています。

 汚れた悪霊が、住み着いていた人から一度は出たけれど、行き場がないので戻って来た。すると余りにきちんとしているので、仲間を引き連れてもう一度入り直した。こうして、その人の状態は一層悪くなった。そういう話です。

 首を傾げてしまいます。掃除が行き届かず、家の中がひっくり返ったような状態であれば、悪霊たちも入り直すことなどなかった、掃除をきちんとしていたのが悪かったのだ、ということになります。きちんと掃除をし、整えることの、どこがいけなかったのでしょうか。

 

■ベルゼブル論争

 このたとえ話は、22節以下の「ベルゼブル論争」の「結び」にあたります。

 悪霊にとりつかれて目も見えず、ものも言えなかった人を、イエスさまが癒されました。これを見て群衆はひどく驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言います。正直で、率直な反応です。それこそ、イエスさまによる「しるし」でした。しかし、イエスさまを罪に陥れようとしていたファリサイ派の人々は、それを悪霊の頭ベルゼブルによる業だと難癖をつけます。これがきっかけとなって論争が展開されます。イエスさまは言われます。28節、

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 働いているのは神の霊だ。その神の霊の業を通して、神の国がすでに来ている。神の支配が始まっている。神は今ここにおられる。神の愛の御手があなたたちに差し出されている。まさに福音が宣言されます。さらに続けて31節以下、

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」

 癒しの業によって悪霊が追い出された。それは、神が今ここにおられ、神の霊として働いてくださっていることの証拠だ。わたしに言い逆らう者は赦されても、神の霊が今ここに働いてくださっていることを否定する者は永遠に赦されることがない。そして、名指しではっきりと言われます。34節、

 「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」

 

■「しるし」論争

 このベルゼブル論争が「しるし」を巡る論争へと移ります。今朝の38節以下です。

「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」
 
 そこまで言うのなら、そのことを証明してみなさい。その「しるし」を見せてもらおうじゃないか、ということです。

 「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

 イエスさまは、ヨナの出来事を思い出させます。

 ヨナは神から、当時の巨大帝国アッシリアの首都ニネベに行って、そこに暮らす人々に悔い改めを迫るよう、命じられます。しかし彼は、その神から逃れようとし、ヤッファからタルシシュヘ行く船に乗り込みます。ところがその船が大風に遭い、沈みかけます。船では、誰のせいでこんな災難が降りかかったのか、くじを引いてはっきりさせようということになり、ヨナのせいだということになって、彼は海の中に放り出されます。放り出された彼は大きな魚に飲み込まれ、三日三晩の後に海岸に打ち上げられますが、その場所こそがニネベでした。こうしてヨナは改めて神の言葉を伝えることになり、それを聞いたニネベの人々はみな神の前に悔い改めた、という話です。

 大切なことは、ヨナが自らの力ある業によってニネベの人々を悔い改めに導いたのではない、ニネベの人々は神からヨナに与えられた預言の言葉によって悔い改めに導かれたのだ、ということです。

 イエスさまが「荒れ野の誘惑」を受けられたとき、サタンはイエスさまに、「もしあなたが〔本当に〕神の子なら」と前置きした上で、石をパンに変えてみろ、塔の上から身を投げてみろ、と誘いました。サタンは、「天からのしるし」によって自分が神の子であることを証明してみろ、とイエスさまを誘ったのです。イエスさまは聖書の言葉によって、この誘惑をはっきりと拒否されます。

 イエスさまの道は、神の御子であることの「しるし」を自らの力で示すことによってではなく、父なる神に対する無条件の服従を貫くことによって、人々を真の救い、真の悔い改めへと導こうとするものでした。

 イエスさまはヨナの物語を通して、律法学者とファリサイ派の人々に、あなたたちに今必要なことは「しるし」を求めることではない、「悔い改め」ることだ、と教えられます。続く41節です。

 「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」

 

■空き家

 このように論争を辿ってみますと、聖霊の働きによって悪霊は追放され、神の支配が始まり、神が共にいますことが現実となっているのだから、神の愛のみ手が今ここにもたらされているのだから、そのことに気づき、受け入れて、悔い改めること、愛の神へと向き直すこと、それが、イエスさまの癒しの業の意味であり、イエスさまが教え、求めておられることである、と分かってきます。

 この論争の結びとして、「汚れた霊が戻ってくる」というたとえ話が語られました。

 従って、この話は「汚れた霊は、人から出て行く」で始まっていますが、それは、悪霊が自分から出て行ったのではなく、追い出された、ということです。当然、その後には、追い出したはずの神の霊が入って来て、そこに神の支配が始まり、神がその人と共にいてくださることが、現実となるはずでした。

 ところが、そうはなっていない、とイエスさまは言われるのです。

 悪霊が戻って来たとき、「空き家」になっていたと言われます。ということは、この人の場合、悪霊が出て行くという段階で止まってしまって、空っぽの状態になっている、ということです。

 どういうことでしょう。それは、悪霊を追放した聖霊がすでに入っていてくださるのに、そして聖霊が中に満ちて、神の国がすでに来ているのに、だから神が今ここに共にいてくださることを感謝し、安心して生きればよいのに、そのことに気づかず、神の国の福音を信じることができず、空っぽの状態と思い込んでいる、ということです。

 中身が空っぽだと思い込んでいますから、自分の力で何とかその補いをし、それを隠そうとし、掃除をし、整えようとします。自分には中身がないと思っている人ほど外側に力が入るものです。そして、自分の力で、自分の思いで一生懸命にやればやるほど、その人の心は「自分」で一杯になります。

 聖霊で一杯になり、神が今ここにおられ、働いてくださっていることへの「感謝」で一杯になるべきところが、そして事実そうなっているのに、それに気づかず、「自分」で一杯になります。やがて、自分はこれだけ掃除をし、これだけ整頓をし、これだけ美しく整えたと自負し、高慢な思いで、他を見下げるようになります。

 「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」とは、ファリサイ派の人々のことです。彼らは確かに、信仰に純粋に生きようとしていました。きちんと律法を守っていました。しかし決定的な誤りを犯していたのです。彼らに信仰を与え、彼らの人生を導き、彼らのいのちを支えてくださっているのは、共にいて働いてくださる神であるのに、そのことに気がついていない、いえ、そのことを受け入れていないのです。彼らの心を支配しているのは、汚れた悪霊を追放して入ってくださった聖霊ではなく、自分の思い、自分の知恵、自分の正しさ、「エゴ」でした。

 その意味で、彼らは前よりもっと悪い状態になっているのです。表面は、きちんと律法を守って信仰的ですけれども、中身は以前よりも、もっと自己中心的であり、人を見下げて高慢になっています。そのため、信仰的にはまさに空っぽ、「空き家」でした。

 

■万事、感謝

 最後に「この悪い時代の者たちもそのようになろう」とあります。イエスさまの言葉は、律法学者やファリサイ派の人々にだけ向けられているのではありません。「この時代」、この世のすべての人に向けられています。

 イエスさまの願いは、わたしたちがきちんとした掃除の行き届いたような人間になることではありません。もちろん行き届いた生活というのは大切です。しかし、それよりも大事な、もしこれを欠いたら、きちんとした生活も全く無意味になってしまうようなことがあるのです。それに気づくように、それがイエスさまの願いです。

 それは何か。神の霊によって、神は今ここに共にいてくださって、自分はもはや「空き家」ではない、神の恵みで満たしてくださっている。そのことに気づくことです。

 救われた人生とは、信仰による人生とは、たとえどれほど嫌なことや辛いことがあっても、いわば、幸福もあれば不幸もあるこの人生を、イエスさまによって生かされて、今、生かされてあることに気づかされ、日々感謝することです。それが、イエスさまにあって神を信じる、ということです。

  
 塩谷直也という人が書く、こんなやり取りの場面を思い出します。

 聖書を置いて、一人の若い女性がため息をつきながら質問しました。

 「救いって何ですか?」

 難問です。苦しまぎれにこう答えました。

 「あのう、ホッとして、伸びやかになる感覚、それが救いじやないですか。ほら、温泉に行っていい湯につかる、そんなとき、何て言います?」

 「極楽、極楽?」

 「でしょ。温泉につかったとき、わたしたちは極楽、天国にいるような気分なんです。あのスッポンポンで、ホッとして、ダラーンとした感覚が、救いの感覚とすごく似ていると無意識のうちに知っているから、思わず、ああ表現するんじゃないかなあ」

 「うーん?でも、どうして救われないといけないんですか?別にわたし、今のままでいいと思っているんですけれど。今でも結構楽しくやってますし、スッポンポンで、ホッとして、ダラーンとしてますし…」

 言われてみればそうです。「救い」という世界があることが分かったとしても、さて、果たしてその世界に行く必要があるのでしょうか。無理して「救いを達成する」べきなのか。かつてわたしも救いを必要とはしていませんでした。別に現状のままでも結構好きにやれているし、わざわざ神や信仰を引っ張り出す必要もない、彼女のように思っていました。

 でも、何か少し違う。……わたしは聖書を開き、読み、こう続けました。

 「『暗闇は光を理解しなかった』(ヨハネ1:5)。暗闇にいる者は、自分が暗闇の中にいることを知らない。暗闇は光を理解しないんだ。光に触れて、初めて自分が暗闇の中にいたと知る。目覚めたときに、初めて自分が今まで夢のなかにいたと知るように。

 自分が今いる場所がどんな場所か。それは、未知の世界に踏み込んだとき、振り返って初めてわかるんじゃないかな?友だちができて、自分が今までどれほど寂しかったか知らされる。真剣に勉強を始めてみて、初めて自分が無知だったと気づく学生がいる」

 「そういえば、わたしは恋に落ちることで、自分がどんなに今まで冷たい味気ない生活をしていたか知らされました…」

 「そう、それ。救いの感覚もそれと似てると思うんだ。『神などいない、信仰など慰めにすぎない。救われる必要はない』と語る人がいる。そういう人に、うまく答える言葉を持っていないけど、でもね、こんな表現で神との出会いを暗示することはできると思うんだ。

 自分が今までどれほど寂しかったか、闇の中に閉じ込められていたか、愕然と知らされる出会い、それを神との出会い、別名『救い』と呼ぶんだって」

 

 わたしたちは、神と出会い、神の恵みに満たされていることに、感動し、感謝をしているでしょうか。教会の前の花壇の可憐な花に、どれほどの悲しみや寂しさの中にある時にも、感動し、感謝しているでしょうか。

 そして、わたしたちは気を付けなければなりません。信仰を持っているつもりで、感謝がない。一見信心深そうに見えること、そんな潔癖さを誇る敬虔さ。それは神を迎え入れる道ではなく、むしろ悪霊に入り込まれる道です。空っぽなままで、自分自身を飾り立てながら、わたしたちはプライドに満ちています。そういう誇りに満たそうとしている姿こそ、自分が自分の心を飾り立てる「しるし」を求めていることの現れです。誰もが犯す罪です。怒りも、プライドも、焦りも、自己嫌悪も必要ありません。それよりも、今ここに、あるがままのわたしたちと共にいてくださる神への感謝で、心を静めなければなりません。

 救いは、そこから始まるからです。

 すべては、そこから始められるべきです。

 神の恵みへの感謝で人生を整えるべきであって、正しさで人生を整えるべきではありません。恵みへの感謝のない正しさは、励めば励むほど人間を貧しくします。人生を砂漠のようにします。たとえ、わたしたちが気づいていなくても、たとえ、わたしたちが実感していなくても、そのままで神が共にいてくださるのであり、「空き家」ではないのです。どんな状態におかれても、また何をするにあたっても万事、「感謝」。これこそが確かな、ただ一つの「しるし」です。

 悩み多く、乱れがちな日々を、正しさでではなくて、感謝で整えたいものです。まず内に目を注ぎ、満ちて、支えて、共にいてくださる方に感謝。それから万事をゆっくりと始めたいものです。それが救われている人の姿でしょう。