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2月7日 ≪降誕節第7主日礼拝≫ 『救い主が罪人と一緒に』ルカによる福音書5章27~32節 沖村裕史 牧師

2月7日 ≪降誕節第7主日礼拝≫ 『救い主が罪人と一緒に』ルカによる福音書5章27~32節 沖村裕史 牧師

■もっと注意しなさい

 ウィリアム・ウィリモンは、聖餐について記した著書『日曜日の晩餐』の第四章を、こう語り始めます。

 「イエスの粗探しをしていた人たちを怒らせたのは、イエスが選んだ晩餐の同席者だった。ルカが言うように、イエスの友人たちは雑多な寄せ集めだった。徴税人、ファリサイ派の人々、売春婦たち、粗野な漁師たち、様々な女たち。ファリサイ派の人々はイエスに言い続けた、『あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない』と。

 あなたは、もっと注意しなさい。

 晩餐の食卓は、とても親密で、神聖で、輝きに包まれる、神秘的な場所なのだから、あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない。

 ある人が、全き者でも、価値ある者でも、人間らしい者でも、兄弟や姉妹でもないのなら、そのような人を晩餐に招待しないよう、注意しなさい。十分に注意しなさい。」

 

■徴税人レビ

 レビの召命の出来事と続く宴会でのイエスさまの言葉は、一世紀のパレスチナ世界へと、わたしたちを誘います。

 「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」

 当時、人頭税や土地税といった直接税はローマ人によって雇用された徴税人によって集められ、通行料、関税、手数料などは収税所で徴税請負人によって集められていました。収税所に座っているレビは明らかに徴税請負人です。徴税請負人は、そうした料金を集める権利を手に入れるために、前もって、所定の金額を税金として支払っていました。当然、集めた金の中から前もって払った金額を差し引いた残りの金は自分の懐に入ることになります。多めに徴収して私腹を肥やすこともできました。しかも、徴税請負人たちの多くは収税所のある地域の住民ではなかったようです。何の遠慮もありません。ローマの官憲に賄賂を渡し、その力をちらつかせて税を徴収するそのやり口は、あくどく、容赦ないものでした。彼らは人々から蛇蝎(だかつ)の如くに嫌われ、蔑(さげす)みの対象にさえなっていました。しかも、彼らが取り扱っていたのは、カエサル〔ローマ皇帝〕の肖像が刻印された「汚れた」金です。ウィリモンが言うように、「彼らは、詐欺師であり、裏切り者であるばかりか、偶像礼拝者でもあった」のです。

 今、イエスさまがそんなレビを「見て」、とあります。この「見る」というギリシア語は「分かる」「理解する」という意味を持つ言葉です。ただぼんやりと見たというのではありません。レビという人を知って、理解し、受け入れたということです。徴税請負人の中でレビが悪人ではなかった、とは一言も書いてありません。だれもが、その体に触れぬよう離れ、距離を取り、避けよう避けようとする。そんな中、イエスさまだけが、まっすぐなまなざしを向けて、近寄り、声をかけ、わたしのところに来なさいと招いてくださったのです。

 「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。

 この招きを受けて、レビが躊躇(ためら)う様子も見せず従ったのは、イエスさまの方からレビに近づいて来られたからであり、そして、刺々しい、険しいまなざしではなく、あるがままの一人の人間としてまっすぐに見つめる、柔らかなイエスさまのまなざしに気づいたからでしょう。

 「あるがままの一人の人間として見られる」。レビにとって、ありえないことでした。

 

■ファリサイ派の告発

 レビは、今や、イエスさまと宴会を共にする最初の人になります。

 「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」

 ファリサイ派の人々が、家の出入り口から中の様子を伺っていました。するとそこに、イエスさまと弟子たちがレビの整えたその食卓に着いておられる姿が見えます。このならず者たちと一緒に食事をするその光景は、彼らにとって思いもよらないこと、驚くべきことでした。

 「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』」

 ルカは、ファリサイ派の人々のことを、律法に文字通りに従うことを誇りとし、人の弱さや欠けにはいささかの関心も示さない、宗教的エリート意識の強い鼻持ちならない俗物、いかにも聖人ぶった人々として描いています。彼らは、神の律法を日々の具体的な生活の中で守るために、様々な解釈と条件を付けた規則を作り出しました。そして、それを厳しく守ることで、自分の正しさを誇ろうとしていました。イエスさまは、そんなファリサイ派の人々のことを、律法を複雑にすることに熱心で、小さな事柄に囚われ過ぎるあまり、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)と批判し、「偽善者」「白く塗られた墓」(マタイ23:27)―うわべだけの空しい者たちと呼ばれました。

 彼らにとっての「正しさ」、彼らが言うところの「義」とは、律法を守るために定められた細々とした規則を厳格に守って生活することであり、何よりも、そうすることのできない、義ならざる人たちに接触すること、交わることを徹底的に避けることでした。だからこそ、レビとその仲間たちと一緒にイエスさまが食事をすることを、実に厄介な問題だと考えました。「なぜ、徴税人や罪人などと一緒に食事をするのか」という問いは、もはや何か答えを期待してのものではなく、イエスさまを律法に従わない罪人として告発しようとするものです。

 

■罪の暗さと重さ

 その告発に、イエスさまは印象深い言葉でこう答えられます。

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」

 昔も今も、病気とは、単に医学的病理的な疾患の状態だけを指すものではありません。コロナウィルス感染に苦しむ方々の姿からも分かるように、もっと幅広い、日常の社会生活に支障となる状態そのものを指しています。そんな病気を、ユダヤの人々はその人の罪ゆえだと信じました。病気による身体的な痛みよりも、家族から、地域社会から、何よりも生きる意味といのちを与えてくださるはずの神からさえも切り離され、見捨てられるという、耐えがたい苦しみと孤独の中に生きることを強いられること、それが病気でした。普段、健康で力にあふれた状態にあるときに、人は医者を必要としませんし、悪い状態にある人の苦しみや孤独を思いやることさえしないでしょう。であればこそ、ひとたび病気になれば、その回復を求める思いはどれほど切実なものであることでしょうか。

 そんな病気の「人」を見ても見ず、ただ罪に定め、罪人として裁き、汚れある者として交わりの外に排除して、自らを清く正しい者として誇るファリサイ派の人々に向かって、イエスさまは続けて言われます。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」

 この言葉には、ファリサイ派の人々への痛烈な皮肉が込められているように思われます。最も重い病気の人とは、自分がどれほど重い病気に罹っているのかを知らない人だからです。それこそ、自分のことを正しい者、義人と思っているあなたたち、ファリサイ派の人間ではないか。痛烈な皮肉です。

 山本周五郎に『赤ひげ診療譚』という作品があります。周五郎は、これが黒澤明によって映画化されると聞いたとき、この国際的な映画監督に繰り返し、主人公赤ひげを単なるヒューマニストにしてはいけない、主人公が罪の意識を持っていることを忘れないでいただきたい、と注文を付けました。日本文学研究者、水谷昭夫はこう記します。

 「赤ひげが足をおろしているのは、高邁な理想から高邁な行為が生まれるというような、即物的オプティミズム〔表層的楽観主義〕ではない。人はしばしば非道を高邁な旗じるしで正当化したり、高邁な理想を説いて悪逆にはしる。……〔周五郎は〕赤ひげの行為を、一種の『贖罪』感の上に描こうとしていると言えないか。〔もう一人の主人公〕保本登はこんな風に考える。

  ―自分の犯した行為のために贖罪をしている、というふうにさえ感じられるのであった。

これは次のように続く。

  ―罪を知らぬ者だけが人を裁く。

  登は心の中でそう云う声を聞いた。

  ―罪を知った者は決して人を裁かない。

  どういう事があったのかは知らないが、先生は罪の暗さと重さを知っているのだ、と登は思った」

(『永遠なる者との対話』221-222p、〔〕は沖村)

 罪を知らない者だけが人を裁き、罪を知った者は決して人を裁かない。

 この真実を誰よりもよく知っておられたのが、イエスさまでした。

 

■罪赦されること

 7章36節以下の出来事が想い起されます。

 イエスさまは、あるファリサイ派の人の食卓に着いておられました。そこに、「一人の罪深い女」がやって来ます。彼女は、イエスさまがファリサイ派の家にいると耳にし、甘い香りの香料の入った石膏の壷を携えて、会いに行きました。そのときのことです。彼女は突然泣き始め、自分の涙でイエスさまの足を濡らし、イエスさまの足に口づけをし、香油を塗った後、自分の髪を降ろし、その髪でイエスさまの足をぬぐいました。

 これもまたファリサイ派の人には思いもよらぬことでした。「もしこの男が本当の預言者なら」、ファリサイ派の人はつぶやきます、「彼に触れているこの人が、どんな女なのか分かるだろう。彼女は罪人なのだから」。正しいことと間違っていること、良いことと悪いこと、罪と義とを区別することができないのであれば、あなたは真の預言者ではない、と言います。

 イエスさまは、この人にではなく、傍にいたシモンに小さな問いを投げかけられます。「二人の人がある人から金を借りていました。一人は1万円、もう一人は100万円です。彼は借金を返すことができないでいる彼らを憐れみ、その借金を帳消しにしてやりました。さあ、シモンよく考えてください。どちらの人がより感謝するでしょうか」。シモンは、いくぶん躊躇(ためら)いつつも答えます、「より大きな金額を借りていた人の方です」と。

 堅苦しくて古くさいシモンにとっても、十分過ぎるほど明らかなことでした。彼女は、余りにも法外で、無謀とも思えるほどの赦しを与えられたからこそ、彼女の態度もまた、余りにも法外で、無謀なものとなりました。

 それは、彼女が自分の「罪の暗さと重さ」を知っていたからです。イエスさまは言われます、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と。周五郎の言葉を借りれば、「赦されたことのある者だけが人を愛し、赦されたことのない者は決して人を愛さない」ということでしょうか。

 

■罪の中に、罪と共に

 わたしたちはどうでしょう。もし、わたしたちが自分には赦されるべきことなど何もないと思っていたら、わたしたちの言葉は、振る舞いはきっと、排他的で、堅苦しく、冷たいものになるでしょう。少し振り返れば、誰もが思い当たることはずです。

 それでもなお、「同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた」(7:49)とあります。そしてわたしたちも、「この人は、いったい何者だろう」と考え始めるでしょう。

 イエスさまは、区別するよう注意しなければならないことをご存知ないのだろうか。例えば、もし、わたしが正しいことと間違っていること、良いことと悪いこと、正義と不義を注意深く区別しないとしたら、わたしはならず者になる外ないだろう。だからこそ、わたしは注意深く判断を下そうとする。わたしは自分のこどもたちにも同じようにしなさいと教え、「あなたたちは注意深くなければならない」と言うだろう。

 しかし聖書は今ここで、そんなわたしたちに向かって、もっと注意深く、もっと深い思いやりをもって関わってくださるお方がおられたのだ、わたしたちの狭い境界や区別や判断がほとんど無意味なものとなるお方がおられたのだ、と告げています。

 売春婦や徴税人、男や女、異邦人やユダヤ人、病気の人や健康な人、障がいのある人や障がいのない人―イエスさまは、「だれとでも」一緒に食事をされました。その姿は、罪や汚れから人を遠ざけて、そこから引き上げてやろうというのではない、むしろ、蔑まれ、遠ざけられていた人々の、その罪や汚れのただ中にじっと静かに佇んで、あたかも、その罪や汚れを分かち合って共に生きておられるかのようです。

 わたしたち人間の「罪の暗さと重さ」をよくよくよくご存知のイエスさまは、レビだけでなく、ファリサイ派の人々が排除するであろう、すべての人々を宴会へと招いてくださいました。そして今も、罪の暗さと重さの中に生きるほかないわたしを、そしてあなたを、喜びの祝宴へと招いてくださいます。それこそが聖餐でした。

 わたしたちも、レビたちのように、自分が罪ある者であることを知って、ただ感謝をもって主の招きに応え、罪の中にこそ示される大きな愛の中を、しっかりと味わいつつ歩んで行きたい、そう願う次第です。