福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月14日 ≪受難節第4主日礼拝≫ 『芽生え、育って、実を結ぶ』マタイによる福音書13章1~9節 沖村裕史 牧師

3月14日 ≪受難節第4主日礼拝≫ 『芽生え、育って、実を結ぶ』マタイによる福音書13章1~9節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏     イエスは わが喜び (J.S.バッハ)
讃美歌      13 (1,3,5節)
招 詞      箴言2章1~5節
信仰告白             使徒信条
讃美歌      301 (1,3節)
祈 祷
聖 書      マタイによる福音書13章1~9節 (新24p.)
讃美歌      195 (1,3節)
説 教      「芽生え、育って、実を結ぶ」沖村 裕史
祈 祷
献 金      65-1
主の祈り
報 告
讃美歌      407 (1,3節)
祝 祷
後 奏      深い傷と流れる血に (D.ブサロー)

 

≪説教≫

■静寂の中に

 新しい一日が始まろうとしていました。イエスさまがガリラヤ湖の畔(ほとり)に座っておられると、「大勢の群衆」が集まって来ます。あまりにも多くの人々がイエスさまのもとに殺到し、立錐(りっすい)の余地もないほどだったのでしょう。イエスさまは舟の中へと乗り込み、そこに腰を下ろされます。一方、群衆は陸にとどまり、イエスさまのおられる湖の方を向きます。座っているイエスさまと向かい合うようにして立っている群衆たちの姿は、ユダヤ教のラビが弟子たちに語るときによく見受けるものでしたが、ちょうど今、この会堂に座っておられる皆さんのようでもあります。 広やかな湖畔の大自然が礼拝堂となり、イエスさまはこの講壇あたりに浮かぶ小舟の中から、湖畔に立っているたくさんの人々、会衆席に座っておられる皆さんお一人ひとりを見回すようにして、よく通る声で、しかし静かに語りかけ始められます。あたかも、スポットライトの当たる舞台の上に目を凝らし、その一言も聞き漏らすまいと静まり返った観客で埋め尽くされた劇場のようです。

 

■たとえを用いて

 静まり返ったその観衆に向けてイエスさまが語られたのは、多くの「たとえ」でした。

 「たとえ」パラボレーという言葉は、「わきに置くこと」、「比較のために、あるものを他のもののわきに置くこと」という意味で、日本語の「たとえ」よりも広いニュアンスを持つ言葉です。新約聖書では、ヘブライ人への手紙に2回使われている以外のすべては共観福音書で用いられ、しかも、イエスさまが語られる「たとえ」にだけ使われています。

 イエスさまが、それほどに「たとえ」を用いて教えられたのは、なぜでしょうか。それはまず何よりも、身近なものを例に用いることで、聞いている人の心にその教えが自然に受け入れられ、また深く刻み込まれることで、聞いている人の生き方を変えるのにとても有効な方法だったからでしょう。

 しかしそれ以上に、イエスさまの福音の言葉そのものが「たとえ」という方法を必要としていたからだ、と言えるでしょう。この13章には、イエスさまが語られた「天の国」、「神の国」の「たとえ」が集められています。イエスさまが教えられた、その神の国の現実は、神様の啓示によって初めて明かされるもので、それはいわば、わたしたち人間の言葉を超えた現実であって、「たとえ」によらなければ伝えられないものだからです。この「たとえ」は、単なる比喩と言うよりも、同義語にあたるヘブライ語のマーシャルが意味するように、「秘義」「奥義」あるいは「謎」とも訳すべき言葉です。

 結果、イエスさまの「たとえ」は、神様の働きに心を開いた者には神の国の奥義を示す教えとなりますが、心閉ざす者には「なぞの言葉(たとえ)」で終わってしまいます。だからこそ、今日の「たとえ」の最後でも、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、念を押すようにして「聞くこと」が求められます。イエスさまが「たとえ」を用いて教えられたのは、単なる絵空事ではない、現実の出来事、自分自身にかかわることとして聞き、心を開いて、神の国の出来事、現実を受け止めて欲しい、そう願われてのことでした。

 懇(ねんご)ろな、しかしまた人生の選択を迫る強い言葉として、イエスさまは今、「神の国」を身近な出来事に「たとえ」て話し始められます。

 

■種まきのたとえ

 種まきの話は、確かに身近なものでした。当時のガリラヤに暮らす人々の大半は農民です。聞くその人々にとっては、日常の風景そのものでした。

 とはいえ、周囲から田畑が消え、農作業とはすっかり縁遠くなってしまったわたしたちでも、いくら何でもこれはありえない、と思われたかもしれません。田畑を耕しもせずいきなり種まきを始め、道端に種がこぼれてしまったり、蒔いた所が石地であったりするなんてありえない。土の薄い地面だなんて見れば分かるじゃないか、と。

 しかし当時ユダヤでは、あらかじめ土を耕し、畝(うね)を作った上に種を蒔くのではなく、まず種を蒔いてから鋤(す)き返して、土をかぶせるというのが一般的なやり方でした。当然、道端にこぼれることもあれば、鳥が来て啄(ついば)むということも、よくあることでした。また「石だらけ」というのも、小石がごろごろしている所というのではなく、「石地」―地面から数センチ下が岩の地層だったということで、見た目の区別もつかず、日が照ればすぐに温度が上がって、芽を出しても水分も栄養も取れず枯れてしまうということもしばしば。「茨の間」にしても、茨の種が土の中に混じっていたため、見ただけではわからなかったでしょう。

 何と無駄で、何と空しいことだろう、誰もがそう思っていたはずです。しかも、厳しい農作業によってようやく手にした収穫量の三割がローマに税として徴収され、一割ほどが神殿税に当てられます。労多くして実り少なし。蒔いた種の四倍から最高でも五倍の収穫量があればよい方でした。それが、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」というのです。

 今ここでイエスさまが語っておられることは、日々、誰もが味わう、悲しいほどの失敗の連続であり、そしてまた、信じられないほどの豊かな実りの出来事でした。

 

■失敗の連続  

 多くの方が、「ああ確かに。これはわたしのことだ」と呟(つぶや)かれるのではないでしょうか。ガリラヤの人々も、そしてわたしたちも、自分がやること、なすこと、それが、いつも実り豊かなものになるとは限らないということを十分に知っています。自分の人生など、無意味ではないか、むだではないか、徒労ではないか、と思うこともしばしばです。

 どんな仕事をしている人でも、どんな生活をしている人でも、例外なしに、人として生きていて、人としての空しさと惨めさをどこかで味わいます。進学や就職のときに経験する浪人生活、あるいは思いもよらない病気による療養生活など、人生の回り道を余儀なくされて、こんなことをしていて、一体どうなるのか、何になるのかと深刻に悩むことがあります。その湖の畔にも、少なからぬ女性や年老いた人がいたことでしょう。こどもにかけた願いが空しかったと思う人もいたかもしれません。何十年も働いてきて、一体、自分は何のために生きてきたのかと、悄然たる思いを噛み締めていた人もいたかもしれません。

 道端に落ちた種がほかの誰かに奪われたり、畑に落ちて枯れてしまうように何をしてもすぐに失敗してしまったり、また、せっかく順調であったはずだったのに最後の最後で実を結ばなかったといった話を聞いて、深く頷(うなず)き、わが身に重なる、身に詰まされる辛い思いをする人は決して少なくないはずです。

 しかし、神の国のたとえは、そうしたわたしたちの嘆きにとどまるものではありません。これまでも繰り返しお話をして参りましたように、イエスさまが示された神の国の現実は、今ここに神の国が近づいている、神様の愛の御手がもうここに差し出されている、という福音そのものであったはずです。

 

■種まく人

 イエスさまがこのたとえによってわたしたちに教え、示してくださろうとしている福音とは、一体どのようなものなのか。それは、道端に種が落ち、土の薄い石地にまた種が落ち、さらには茂った茨の中に種が落ちてしまったように、わたしたちの人生が、何の実りも得られない、惨めで、取るに足らない人生に思えたとしても、それで終わりではない、ということです。

 すべてが無駄に思えるその時にこそ、残った多くの種がよい土地に落ちて、芽が出て、育ち、驚くほどの豊かな実りを結んだように、驚くべき、信じられないほどの豊かな恵みが、今ここにいるわたしたちにもたらされるのだ、という神様の約束、まさに神の国の福音が、このたとえによってわたしたちに解き明かされているのです。

 そのことに気づかされるとき、わたしたちはただ驚くばかりでなく、その福音を信じて、神様の御手の中で、喜びと何よりも希望を持って生きるように促されることになるでしょう。そして、貴重な種が無駄になることを気にせず種をまき続けるこの農夫の姿こそ、苦難の中にあってなお希望を抱き続ける、そのような人の姿です。

 それは、必ず驚くほど豊か実りが与えられることを信じている、なんとも楽天的な人の姿です。ここで楽天的とは、何も考えず、能天気であるということではありません。無駄も、失うことも、失敗も恐れないという意味です。そのような生き方は、効率と成果を求めるわたしたちの常識から考えれば、まことに愚かなものかもしれません。しかしイエスさまは、そのような意味での効率や成果などお求めになりません。

 事実、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、十字架につけられたイエスさまのご生涯こそ、人間的な目から見れば、ずいぶん無駄で、空しく、しかも、ご自分のいのちまでをもわたしたちのために失われるという、実に愚かなものだった、と言わざるを得ません。イエスさまのなさったことは、ほとんどすべて失敗であった、と言ってもよいくらいです。イエスさまの心をこめた努力は、人々によって受け入れられず、実り薄きものになった。やはり空しい、悲しいと言わざるを得ない。そんなお姿が、福音書にはっきりと描かれています。

 しかし、そんなイエスさまの十字架と復活が、どれほど尊く、愛と祝福と恵みに満ちたものであったかということを、わたしたちは知っています。生きていれば、「なぜこんなことが」と言いたくなるような辛い出来事がたくさんありますがそれでも、種を作り、育て、実らせてくださるのは、神様です。わたしたち生かしてくださっているのも神様です。生きとし生けるものの深みでこそ働かれる、その神様の御業には、落ち度も無駄もないはずです。たとえ、わたしたちの浅い理解ではわからなくても、神様の愛の御業は、もうわたしたちの内に蒔かれ、働いているし、必ず、美しい実を結ぶのです。

 大切なことは、いつか実を結ぶという、その実りを夢見て憧れることです。

■愛の種

 それは決して絵空事などではありません。

 言葉にならぬほどの苦難の中にあってもなお、その実りを夢見て憧れた、一人の女性のことを思い出します。作家、三浦綾子です。

 三浦は、自伝的作品を少なからず書き残しました。その一つに『道ありき』があります。お読みになった方も多いのではないでしょうか。新潮文庫の帯に「教員生活の挫折、病魔―絶望の底へ突き落とされた著者が、十三年の闘病の中で自己の青春の愛と信仰を赤裸々に告白した心の歴史」と記されるこの作品について、日本文学研究者の水谷昭夫がこう記しています。

 「そこには克服された悲惨が主として示される。

 したがってあるものには、彼女の作品の世界はどことなく歯がゆく、ものたりず、一見「文学的」切迫感や分析に欠けているかに見える。しかし彼女が書いているのは、「学」のある神々に対してではなく、くだかれた、こころと身を持てあましているものたちへ、であったことを想起されるべきだろう。

 従妹の結婚披露宴にまねかれて、「誰か故郷を想わざる」の曲にあわせて踊るところがある。

 彼女は何故舞うのか。

  ―私は十三年間臥ていました。いつなおるか、わからない病気でした。もう駄目かも知れないと思いました。―三浦が現われた時、汚ない話ですけれど、わたしは便器を横に置いて、ギブスベッドに、臥たっきりだっ たんです。―マリちゃん長い人生には絶望と見える時があるかも知れません。でもマリちゃん、その時には、今わたしの言ったことを思い出しで下さい。そして長い間臥ていたあの綾子が、踊れるほどになったということを思い出して下さい。

 克服された悲惨である。それは彼女の思いをこえた摂理によって生かされ、光にかえられた。ここでも彼女の言いたかったのは絶望のそばには神さまがいるということ。そのことを信じて下さいと、身をさしのべて示すことに他ならない。自分の書くものは「愛と信仰の告白」だと言った意味がここにある。…悲惨や不幸に対して、同じ傷をなめあう堂々めぐり、シニシズムやサディズムの輪廻をこえて、成熟した感性の均衡の中に光を待ちのぞむ。そこに三浦綾子氏の小説が形成される場がある。またそれが彼女の「信仰」である」

(『永遠なるものとの対話』「虚無からの出発―三浦綾子文学の形成」より)

 今、イエスさまは種まきのたとえを通して、ひとつひとつの種がそれぞれにすばらしい実りを結ぶために、神様が実に多くの種を惜しみなく蒔いてくださっている、と教えてくださっています。

 神様がまいてくださる種とは、神様の愛、イエスさまの愛のことです。

 その愛が惜しみなく蒔かれるのです。ここへもあそこへも、今日も明日も、わたしのところにも、そしてみなさんのところにも、です。良い土地だろうが悪い土地だろうが関係ありません。いのちを与え、育て、実らせるのは、神様だからです。

 もちろん、蒔かれた種がすべて実を結ばないかもしれません。蒔かれた種を、神様の愛を拒むようなこともあるかもしれません。しかしそれでもなお、それは無駄になった種を補ってあまりある収穫をもたらすのです。自分という畑を考えみれば、それはよくわかることではないでしょうか。苦難に見舞われ、わたしたちは道を見失い、頑なになり、否定します。希望を失い、まさに絶望します。そうすることで、どれだけの種をわたしたちは無駄にしてきたことでしょうか。しかしそれにもかかわらず、神様は愛の種をわたしたちに、だれにもかれにも、等しく蒔き続けてくださるのです。そしてたった一粒だけであっても、残った畑に落ちるならば、つまり、神様の愛を受け入れる時、それがわたしたちの人生の全てを変えてしまうような収穫をもたらすのです。