福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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3月28日 ≪棕櫚の主日礼拝≫ 『十字架からの声』ルカによる福音書23章32~43節 沖村裕史 牧師

3月28日 ≪棕櫚の主日礼拝≫ 『十字架からの声』ルカによる福音書23章32~43節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫
前 奏   あがないの主に (G.F.カウフマン)
讃美歌   15 (1,3,5節) [日11-1,3]
招 詞   イザヤ書 56章1節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   309 (1,3節)
祈 祷
聖 書   ルカによる福音書23章32~43節(新158p.)
讃美歌   315 (1,3節)
説 教   「十字架からの声」 沖村 裕史
祈 祷
献 金   65-1
主の祈り
報 告
讃美歌   436 (1,4節)
祝 祷
後 奏   ヴォランタリーホ短調 (J.スタンレー)

≪説 教≫
■人生の問い
 誰もが怯(ひる)まざるを得ない、厳しい人生の問いに晒(さら)されることがあります。
 わたしは、今、一体何によって生かされ、何を頼りに生き、何を土台として日々を過ごしているのか。
思いもしない耐え難い苦難に見舞われるとき、生きるぎりぎりのところで辛うじて踏み止まっているとき、ことに、自分の、あるいは家族や愛する者の死に直面するとき、その問いは鋭さを増し、避けて通れないものとなります。不治の病、避けがたい老い、戦争や犯罪といった理不尽な暴力、すべてを奪い去ってしまう失業や倒産、近年は、日常の中の「目に見えない死」と呼ぶほかないような状況を見聞きすることも増えてきました。そこには男も女も、老いも若きもありません。
 絶望するほかないと思えるそのような状況の中で、人の知恵や努力、それまでに築いてきた財産や地位がどれほどのものであったとしても、それらはもはや何の望みもない、何の救いにも、何の助けにもならないものとしか思えなくなることがあります。
 今朝の御言葉は、今まさに死に逝(ゆ)くほかないところで、そのような厳しい問いに怯み、苦しみ、もがくわたしたちの姿と、そんなわたしたちに溢れるほどに注がれる神の愛とを描いています。

■悲しい嘲り
 ユダヤの法に触れて死刑判決を受けた、「犯罪人」とだけ記される二人の男が、イエスさまの左右に十字架にかけられます。そこに集まっていた人々は、犯罪人の服を奪い合うだけでは物足らず、十字架にかけられたイエスさまに様々な嘲(あざけ)りの言葉を投げ掛けました。
 「他人を救ったのだ。もし神からのメシア〔神のキリスト〕で、選ばれた者なら、自分を救うがよい」
 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」
 人々は、止めを刺すように、イエスさまの頭の上に、栄光の王冠の代わりに、壊されたみすぼらしい王冠を置くようにして、「これはユダヤ人の王」と皮肉たっぷりに書いた札を掲げます。十字架を見上げる人々は繰り返し、イエスさまを嘲りましたが、その言葉は一様に、「あなたは、まず自分を救え」というものでした。
 それは確かに、イエスさまに対する嘲りなのですが、と同時に、わたしたち人間が自分を救うことなどできるはずもないと思っている、彼ら自身への嘲り、自嘲でもありました。「わたしはこれまで自分を救うために、神の御言葉である律法に従って、できる限りの努力をしてきた。しかし救われることなどなかった。それなのに、罪汚れた者たちと交わり、大酒飲みで大喰らいと呼ばれるお前が自分を救うことなどできるはずもないではないか。自分のことを救い主キリストだと言うのなら、やってみろ、できはしないだろう」というわけです。
 人々は、「自分を救え」と嘲ることによって、救いを求める、悲痛で絶望的な自分たちの叫びを、「神のキリスト」と呼ばれる、目の前の惨めな男に向かって吐き出すようにしてぶつけているのでした。
悲しい嘲りです。
 その嘲りの先に、イエスさまの十字架がもたらされる、そのようにして神を殺すことになる-その恐ろしいほどの自分たちの罪に気づかずにいる、まさに、救いのない嘲りです。
 この姿がわたしたちの姿ではないと、誰が断言できるでしょうか。救いなどないと嘆くたびに、実は、神などいないと呟いているのです。

■何をしているか知らない
 人々に救いがもたらされることはないのでしょうか。人々と同じようにイエスさまを罵った、傍らの罪人には何の救いもないのでしょうか。御言葉は驚くべき恵みを語ります。
 今、イエスさまを嘲り、死に渡そうとしている人々を前にして、十字架の上からイエスさまが最初に語られた言葉、
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」
 父なる神へのこの祈りは、イエスさまがただ人々の嘲りを耐え忍んでいたというのではなく、むしろ、嘲る人々の声の中に、救いへの悲しい叫びが隠されていることを聞き取って、それに応えようとされるものでした。
 しかし、わたしたちの罪は、わたしたち自身が思っているよりもずっと根が深いものです。今、イエスさまは、これまでずっと従って来ていたはずの弟子たちには一言のお声もおかけにならず、弟子たちに背を向けて、ただ父なる神へ祈りを捧げておられます。なぜなら、そこには、棕櫚(しゅろ)の葉を敷いて、「ホサナ!(今、救い出してください!)」と熱狂の声を上げて迎えた群集の姿もなく、イエスさまの言葉に耳を傾けていたはずの弟子とて、誰一人いなかったからです。ただ父なる神だけが、イエスさまに耳を傾けておられるだけでした。そして人々は、神に背を向けたままで、嘲りの中で救いを求めていました。
 そう、人々は、「自分たちが何をしているのか知らないのです」。
 十字架への途上、イエスさまがこんなたとえを語っておられました。
 終わりのとき、人の子イエスが玉座に上げられて、すべての者たちを裁かれる。左側には山羊たちがいる。彼らは「これらのうちの最も小さい者たち」と記される、貧しい人、投獄されている人、虐げられている人に何も良いことをしなかった。そのため裁かれる。一方右側には羊たち。彼らは、その「これらのうちの最も小さな者たち」に手を差し伸べていたことで、永遠に報われる。そんなたとえです。
 注目いただきたいのは、その裁きの席で、山羊たちと羊たちとが全く同じ言葉を語っていることです。それは、「主よ、わたしたちはいつあなたとお会いしたのですか」という言葉です。裁かれた山羊たちも報いを受けた羊たちも、そのどちらもが、十字架の前に集まっていた人々と同じように、救い主キリストがそこにおられる、ということに気づいていなかったのです。
 思えば、イエスさまの弟子たちも同じでした。ペトロたちは、最初にイエスさまに召し出されたときから、イエスさまの死に至るそのときまで、誰一人として、イエスさまの本当の御心を理解することができませんでした。躓き、疑い、そして裏切りました。
 そもそも神の御心を知って、その裁きを避ける確たる方法など、わたしたちの誰にもわかりません。それはただ、神のみぞ知ることです。なぜなら、裁くことも赦すことも、それは神だけができることだからです。
 ところが、わたしたちは自分を納得させるために、例えば大きな自然災害に見舞われたりすると、なぜ神はあのようなことをなされたのか、どうしてこんなことをなさるのか、何かわけがあるはずだと、そのことばかりを考えます。しかし、聖書はそのことについて何も語りません。自然災害の理由を説明しようともしません。聖書にとっての大きな関心は、神に対する人間の罪そのものであり、そしてまた、その罪深い人間を赦し、義としてくださる神の愛にだけ向けられています。
 神のことばかりを論じて、自分の罪に目を向けないわたしたちは、「自分が何をしているのか知らないのです」。

■お赦しください
 その意味で、十字架上の苦しみの中で語られたイエスさまの最初の言葉が、「父よ、彼らをお赦しください」であったということは、驚くべきことです。
 イエスさまは、暴力と不正義によって夥しい血を流し、骨を砕かれ、肉を裂かれ、十字架に釘付けされ、ありとあらゆる非難と誹謗と嘲笑にさらされ、苦しみの中、死に逝かんとされるそのとき、何よりも、わたしたちへの赦しを語ってくださるのです。確かに、イエスさまは、わたしたちに敵を赦し、迫害するもののために祈ることを教えてくださいましたが、それほどの苦しみの中で、イエスさまはそれでもなお、敵対し、背き、裏切るわたしたちのために祈ってくださるのです。
 しかも、当のわたしたちは、「自分たちが何をしているのか知らない」のです。
 わたしたちはよく、「赦すことはとても大切なことだ。しかしそれには、まず加害者が自分のしたことが間違っていたことを知って、それを認め、心から悔い改めることが必要だ。そうして初めて、赦すこともできるというものだ」と言います。ところが、「誤れば赦してやる」と言われて謝ったとしても、「本当に悪いと思っているのか」「心から謝罪をしているのか」とさらに責められることはあっても、赦してもらえることなどありません。
 しかし、ここでは、十字架の上での赦しが、先んじています。わたしたちが自分たちのしていることに気づき、その罪を認め、悔い改めるから、「父よ、彼らをお赦しください」と、イエスさまは祈っておられるのではありません。
 頑なで、自分のことばかりを考え、自分を守ろうと嘘さえついてしまう、わたしたちです。そのわたしたちが、自分の罪を本当に知って、認め、告白して初めて、赦されるとするならば、わたしたちは永久に赦されないでしょう。
 いえ、むしろわたしたちがそんな者だから、「自分たちが何をしているか知らない」からこそ、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださるのです。
 イエスさまが、ガリラヤの地を巡り歩きながら語ってくださったことは、わたしたちを罪に定める脅しでも、厳しい戒めでもなく、それは、「あなたの罪は赦された」、「行きなさい、もう罪を犯してはいけません。あなたの罪は赦されています」という言葉でした。しかもそのとき、誰かが、わたしを赦してください、と頼んだわけではありません。このゴルゴダの丘でも、「申し訳ない」とも、「失礼しました。過ちを犯した人を処刑しようとしているのだとばかり思っていました。どうぞ赦してください」とも、誰一人言いません。それでもなお、いえ、だからこそ、イエスさまは「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。
 それは、わたしたちが何をしているのか、わたしたちがどんな人間なのか、わたしたちがどんな目的を持っているのか、わたしたちが自分のしていることを知っているのかどうか、そのようなこととは全く関わりなく、わたしたちと神との関係を決めてくださるのは、わたしたち人間ではなく神であるということ、そして神はその愛ゆえに、悔い改めに先んじて赦してくださるのだということを、イエスさまが知っておられたからです。

■楽園にいる
 そして処刑が執行されるその直前、イエスさまは、自分と一緒に十字架につけられていた二人に向かって、罪の赦しを、救いを高らかに宣言されました。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
 十字架に付けられていた二人にとって、楽園パラダイスは、自分の手には届かない、遥かに高く遠い所にある、だからこそ憧れの世界でした。自分は犯罪者として死刑を受けざるを得ない、この世に生きる価値などないと人々から宣告された人間。でも、死の向こうに何があるのだろう。人に斥けられ、そして神に斥けられて、ただ永遠の滅びを待たなければならないのだろうか。
 二人のうちの一人が、そんな恐れを抱きつつも、なお望みを持ちたいと願ったとき、楽園を垣間見せてくださるお方が、自分の傍らにおられることに、はたと気がつきます。彼は「あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。この人にとってなお望みがあるとすれば、イエスさまの他にはありませんでした。だから心からの思いを込めて告白しました、「神のキリスト」、あなただけがわたしの望みです。 どうか、わたしのことを覚えていてください、思い出してください、と。
 救いを考えるとき、わたしたちは自分の善悪に、自分が何をしてきたかに拘(こだわ)ります。自分が何をしてきたか、何をしているかに拘ります。しかし、わたしたち人間が自らの正しさを誇り、人の悪を裁いたところで、神の御前にあっては、少し黒いか少し白いかの違いに過ぎません。ところがわたしたちは、目の塵を棒のように大きくして、善と悪とを分けます。そして二人のうちのもう一人のようにこう考えます。いくらわたしが罪人だと言っても、この人ほど悪くはない。神を冒涜するこの人とわたしとは違う、簡単に一緒にされては困る、わたしにはまだ救われる余地がある、と。わたしたちは、自分の正しさや功績ばかりを数える重い足かせから、なかなか自由になれません。わたしたちは、自分は誰からも赦される必要などないと、表面(おもてづら)はともかく、心の奥底ではそう思っています。
 しかし、十字架の上からの「父よ、彼らをお赦しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」という声が、赦される必要などないと考えているわたしたちこそが、実は、赦しを必要とするものであることに気づかせてくれます。
 そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という十字架からの声によって、十字架からの赦しによって、神は、罪のままに、あるがままのわたしたちを捉え、関わり続け、今もここで共にいてくださる、と宣言されたのでした。この救いの宣言は、キリストへの望みを告白した一人の人に向けて語られています。しかしこの救いの宣言によって、嘲ったもう一人の人もまた、十字架のイエス・キリストから招かれている、そう思わずにおれません。
 すべての罪を赦し、すべての人に救いをもたらす、驚くべき神の愛を示す十字架が、今も、わたしたちの目の前に立っています。その十字架を仰ぎつつ、この受難週を共に歩んで参りたい、心からそう願う次第です。