福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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4月11日 ≪復活節第2主日礼拝≫ 『そのままに』マタイによる福音書13章24~30、36~43節 沖村裕史 牧師

4月11日 ≪復活節第2主日礼拝≫ 『そのままに』マタイによる福音書13章24~30、36~43節 沖村裕史 牧師

式次第≫

前 奏    輝きのこの日 (G.F.カウフマン)
讃美歌    17 (2,4節)
招 詞    詩編90篇1~2節
信仰告白  使徒信条
役員任職式
讃美歌    326 (1,3節)
祈 祷
聖 書    マタイによる福音書13章24~30、36~43節 (新25p.)
讃美歌    393 (1,3節)
説 教    「そのままに」 沖村 裕史
祈 祷
献 金    65-2
主の祈り   
報 告
讃美歌    517 (1,3,5節)
祝 祷
後 奏    たたかいは終わり (高浪晋一)

 

≪説 教≫

■畑

 「『種蒔く人』のたとえの説明」に続いて、最初に福音書を書くことになったマルコは、「『成長する種』のたとえ」(4:26-29)を記します。そこでイエスさまは、神の国を人知れず成長する種に譬えられます。人は種を蒔きますが、その種がどうしてそうなるのかを知りません。土がひとりでに実を結ばせます。人は種を蒔くだけで、成長させてくださるのは神であるということです。神の国は人知れず成長し、想像もできないほど豊かな実りをわたしたちにもたらしてくれる、そういうものだということです。そしてマタイでは、イエスさまは「天の国は次のようにたとえられる」と前置きして、まず何よりも、この「『毒麦』のたとえ」を語り始められます。

 冒頭24節に、「良い種を自分の畑に蒔いた」とあります。

 このたとえをさらに読み進めて行くと、次のように説明するイエスさまの言葉が出て来ます。38節、「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」と。

 畑はこの世界です。その世界に良い種を蒔いたとあります。

 天地創造の出来事を記した創世記1章に、「神はそれを良しとされた」という言葉が何度も繰り返されます。わたしたちを含め、造られたこの地上のすべてのものが良い、神の御心にかなって美しいということです。この創世記冒頭の言葉が書かれたのも、イエスさまの時代と同じように異民族の支配下に置かれていたバビロン捕囚の時期でした。ユダ王国の崩壊、捕囚の悲惨のただ中にあってなお、天地すべてのものは素晴らしい、かけがえがないという、この根源的な肯定をイスラエルは告白し、感謝することができました。苦難の中にあってなお希望を失うことのない信仰が、ここにも受けつがれています。

 しかしこれは、安易な現状肯定ではありません。25節、「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」とあります。

 神に真向から対立する勢力としての「敵」、39節によれば「悪魔」が、神の被造世界を攪乱(かくらん)し、破壊しようとしています。そもそも、神が創造され、「良し」とされたはずのこの世界に―今もパレスチナで、香港で、ミャンマーで―、これほどまでに悪と災いとが蔓延(はびこ)り、至る所でその力を振るうのは、なぜなのでしょうか。27節、

 「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」。

 この問いに、28節「敵の仕業だ」という答えが与えられます。このことに、どう対処したらよいのかということが、このたとえ話の核心となっています。

 その対策として、直接、悪を根絶しようとするのが、世の常識というものでしょう。

 「では、行って抜き集めておきましょうか」

 ところが、ここに、意外な指示が与えられます。

 「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」

 そのままにしておきなさい、と言われます。

 

■敵

 受け入れることのできない出来事を前に、人は、自分の中の不安を鎮め、心のバランスを取るために、しばしば「敵」を想定し、「あいつが悪いんだ」と呟きます。そして、その敵に対して嫌悪感と共に、自分の存在の根っこが問われている、揺るがされているかのような深い恐れを抱きます。

 以前、お話をしたことがあります。小学校の夏休み、捕まえたトンボに糸を付け、自分の周りをぐるぐる飛ばして遊んでいました。だんだん弱ってきていましたが、ちょうどそこに遊びにやって来たひとりの友だちに「見て、見て、すごいだろ!」と自慢気に差し出したその時のことです。友だちは、いきなり糸を手繰り寄せ、トンボを外すと、手の中で握りつぶしてしまいました。「何するんだよ!」と詰め寄ると、友だちはひと言、「かわいそうだ」。はっと気が付きました、「ぼく、ひどいことしてた…」。

 わたしは震えました。自分の残酷さ、ひとりよがりな自分の姿が暴かれた、知られてしまったと思ったからです。そのときから、彼は「敵」になりました。わたしは彼におびえ、まともに顔を見ることができなくなり、遠ざかるようになりました。今も、そうです。

 敵、それはいつも、わたしという存在の「木の根元に置かれている」「斧」です。

 人生を振り返えれば、いつも敵はいました。敵のいない時というのはほとんどありません。いつもだれかを相手にしていました。あいつさえいなければ、事態はもっとよく展開するのだが、と思える「彼」や「彼女」がいつもいました。ふしぎなほどです。やれやれ、と思うと必ず次が出てくるのです。

 もちろん、敵が悪いかどうか分かりません。ただ、その敵によって存在の根っこがおびやかされるのです。いつもおびやかされつつ、問われつつ、神に問い続けてゆくしかありません。楽にはなれません。

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:43-44)

 律法では、隣人を愛することと敵を憎むこととはひとつのことでした。隣人とは仲間内のことです。敵とはその外にいる者たちのことです。外の敵と戦うために内を固めなければなりません。結束を強めることで外と厳しく対峙することができるのです。昔から人間はそうやって生きてきました。

 しかしイエスさまは言われます、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。

 敵とは自分と相容れない異質な存在です。生きる労苦というのは、そうした異質なものから、自分を守り抜く工夫です。そうやって自分を強くすることを人間はずっと課題にしてきました。

 敵を、愛することはできません。敵を受け入れることは自分が破れることです。自分が傷つき血を流すことなしに、敵を受け入れることはできません。

 イエスさまは、それをせよ、と言われるのです。

 不可能なことです。無理難題です。ですが、逃げるわけにはいきません。受け入れることのできない者を受け入れる、赦すことのできない者を赦す十字架の下に、弟子たちは、わたしたちは生かされているからです。敵を愛する、そのために神は御自身を破られた、というその問いからわたしたちは逃れることなどできません。

 

■刈り入れまでそのままに

 「敵の仕業だ」

 僕たちはカッと頭に血が上ります。だったらなすべきことはひとつ。

 「では、行って抜き集めておきましょうか」

 主人の答えは意外なものでした。

 「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」

 毒麦を抜きに行くな、そのままにしておきなさい、と言われます。それは、何よりも「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」からです。

 毒麦は、ジザニアという毒草だと言われています。その葉も茎も小麦とそっくりですが、その実は食べると目眩(めまい)を起こすほど毒性の強いものです。このジザニアという毒麦は、成長し穂が出てくると、小麦よりもひげが長く、色も黒ずんで見分けやすくなりますが、蒔いた後しばらくは小麦と見分けがつきません。しかも、毒麦は根を張る力が強く、これを抜こうとすると、周囲の麦まで一緒に抜いてしまうことになります。パレスチナに暮らす農民であれば、誰もが知っていることでした。

 だから、あなたたちが毒麦を抜こうとすると必ず、良い麦も一緒に抜いてしまうだろう。そもそも、あなたたちには、毒麦と良い麦とを見分ける力なんてないのだから。天の国の畑は、いつもそうやって荒らされてきた。わたしは良い人間、正しい人間で、あいつは悪い、間違った人間だと言って他人を裁き、毒麦を抜こうとする人間の試みによって、神の畑、神の造られたこの世界は今も、踏みつけにされている。そう言われるのです。

 わたしたちが良い、悪いを決めることはできません。裁きは、わたしたちがすることではありません。できないし、その必要もありません。それは、神がなさることであり、神だけができることだからです。その神の裁きに委ねなさいということです。きっぱり任せてしまっていいのです。それが、「刈り入れまでそのままに」ということの意味でした。

 この「刈り入れまでそのままに」と言われていることの意味について、もう1つ注目していただきたい点があります。もう1つの意味、いえ、本当の意味と言ってもよいでしょう。

 わたしたち人間は間違ってしまうかもしれません。しかし神だったらどうでしょう。全知全能のお方です。間違うことなどないはずです。ここで「刈り入れまでそのままに」などと言う必要もないはずです。とすれば、なぜ、イエスさまは敢えて、「刈り入れまでそのままに」と言われたのでしょうか。

 これは、わたしたちが変わるのを待ってくださる、神の忍耐の表れではないでしょうか。確かに今は毒麦かもしれません。しかしイエスさまは、そんなわたしたちを待ち、忍耐し、寛容な心で祈っておられるのです。だから、「今は抜くな。刈り入れまでそのままに」と言われたのではないでしょうか。

 わたしたちの内にある力には限界があります。しかも自らの「毒」、自分自身の罪によって死んでもおかしくないような者です。ところが、そのようなわたしたちを、イエスさまは愛してくださったのです。さらにイエスさまは、その罪という毒を消して余りあるほどの「贖いの力」を持っておられるのです。そのイエス・キリストが自ら十字架にかかってくださり、「父よ、彼らをお赦しください」「あなたの罪は赦された」と宣言してくださったのです。それがイエスさまなのです。

 

■メラミン・スポンジ

 丸山テレサという修道女の書いた話を思い出します。

 メラミン・スポンジをご存じでしょうか。水を含ませて軽くこするだけで、鍋などについた取れにくい汚れを、みるみるうちに落として綺麗にピカピカにしてくれる、あの真っ白なスポンジのことです。

 鍋などには細かい傷がたくさんあって、その傷の中に入り込んでこびりついた汚れは、表面からゴシゴシこすっても落ちないのだそうです。ところが、このメラミン・スポンジは、とても柔らかく細かい繊維でできていて、小さな傷の中にまで入って、汚れをかき出してくれると言います。こする力によってではなく、メラミンの柔らかさと繊細さが汚れをかき出してくれるのです。

 わたしたちには、自分自身やこの世界が、どうしようもなく荒んで汚れているように感じることがあります。そんな時、思わず、否定したり、嫌悪感を持ったりします。しかし、自分やこの世界を汚れていると感じる時、そこには同時に、無数の傷や痛みがあるのではないでしょうか。

 その傷の中に入り込んで、こびりついている汚れを、固いものでゴシゴシこするようにして、自分やこの世を責めているだけでは、汚れは落ちないでしょう。新しい、もっと深い傷を作ってしまうだけかもしれません。そして、その新しい慯にまた新しい汚れが入り込みます。自分もこの世界も、ますます汚れて荒んでしまうかもしれません。

 自分やこの世の傷や痛みに、メラミンのような繊細な心で気づいて、そうっと優しく触れて、傷の中に入り込んで、くっついている汚れを落とせたらどんなによいでしょう。人を愛し、この世を愛し、傷や痛みの深いところにまで優しく入り込み、癒してくださり、最後にはボロボロになって捨てられた、わたしたちの主こそ、イエス・キリストなのです。

 「毒麦」を忍耐して、「そのままに」待ってくださる神によって、天の国は始まっているのです。そのことに希望を抱き、そうしてくださる神に信頼して、一切を委ねて歩むようにと、わたしたちが導かれていることに、心から感謝をいたしましょう。