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4月16日 ≪復活節第2主日礼拝≫『買収―見るべきもの』マタイによる福音書28章11~15節 沖村裕史 牧師

4月16日 ≪復活節第2主日礼拝≫『買収―見るべきもの』マタイによる福音書28章11~15節 沖村裕史 牧師

 

■福音の始まり

 冒頭11節に「婦人たち」とあるのは、28章1節に登場する「マグダラのマリアともう一人のマリア」のことです。イエスさまが十字架につけられ、殺されるその様子を、遠くから見守ることしかできませんでした。深い悲しみに打ちひしがれるマリアたちは、ただイエスさまの遺体に縋(すが)りつきたいと、葬られたその墓から離れることができずにいました。そんなマリアたちに天使が現れ、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と告げます。

 「あの方は死者の中から復活された」

 これが福音の出発点であり、中心です。そのことは、クリスマスのことが書かれないことはあっても、復活について、すべての福音書が証言していることからもわかります。

 そもそも、クリスマスの話も、この復活の御子イエスの誕生の次第を語っているのであって、復活がなければ、クリスマスを祝うということもなかったでしょうし、さらに言えば、イエス・キリストの十字架の死を、わたしたちの罪の贖(あがな)い、赦しのための死として受けとめる贖罪(しょくざい)の信仰さえ、この復活がなければ、起こりえないことでした。

 なぜなら、ユダヤの人々にとって、十字架の死は紛れもなく神に呪われた者の死であり、イエスさまの死はユダヤ教の最高法院であるサンへドリンで神を冒涜(ぼうとく)した者として断罪された、その結果に過ぎなかったからです。

 イエスさまが殺されたとき、誰もが、彼は呪われて死んだ、そう思ったはずです。

 十字架が救いだなどとは、だれ一人、思いもしなかったに違いありません。

 もし、イエスさまの生涯が十字架の死で終わっていたら、わたしたちの信仰も、教会も生まれることはなかったでしょう。その意味で、イエスさまによってもたらされた奇跡はここからが本当の始まりだったのだ、そう言ってもよいでしょう。そして奇跡は起こりました。

 「あの方は復活された」のです。

 

■つまずきの福音

 ただ、復活というあまりにも驚くべき出来事のために、このことは、多くの人々のつまずきとなりました。パウロがコリントの第一の手紙15章12節に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と書いている通りです。

 復活について、当時から今に至るまで、何人もの人が、時に肯定的に、時に否定的に、実に様々な説明と解釈を試みてきました。

 当時すでに囁かれていた噂は、今日のみ言葉に語られている、弟子たちが遺体を盗んだというものでした。その他にも、偽りの死としての仮死説や弟子たちによる幻覚説などあって、信徒の中にも様々な異論、見解があり、復活などとても文字通りには信じることのできない噂、伝説の類であって、復活信仰と言われるものの精神的な意味だけを受けとればいいのだ、とする主張も多々ありましたし、今もあります。

 しかし、果たしてそうなのでしょうか。

 

■目撃者

 復活の出来事を目撃したのは、マリアたちだけではありませんでした。11節、

 「数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」

 「この出来事をすべて」とあります。兵士たちは包み隠さず、見たこと、聞いたことをありのままに報告したのでしょう。

 この兵士たちは、祭司長たち―エルサレムの指導者たちが、イエスの弟子たちがその死体を奪い去り、何か騒動を起こすのではないかと恐れ、その墓を監視するために派遣されていた者たちでした。それにもかかわらず、イエスさまが葬られたはずの墓は空っぽに、イエスさまの遺体がどこかに消えてなくなってしまいました。兵士たちも、大きな地震が起こり、天使がマリアたちの前に現れ、大きな墓石をころがしたのを目撃しました(1~4節)。イエスが復活なさったと告げる天使たちの声も聞いていたかも知れません。とにもかくにも、墓の中から、イエスというあの男の遺体が消えてなくなっていました。

 しばらくは、目の前に起こった信じがたい出来事に、驚きと恐れから我を失い、「死人のようになった」(4節)兵士たちでしたが、はっと意識を取り戻すや否や、そのうちの「数人」が、この出来事をどう説明すればいいものか、そのままに報告しても信じてもらえるかどうか、そんな戸惑いと不安を抱きながらも、祭司長たちにすべてを告げました。

そのことは、兵士たちにとっては、自分たちの責任が問われる出来事でした。適当にごまかそうとすることもできたはずです。しかし彼らはそうしませんでした。すべてをありのままに報告しました。

 「真実」というものの持つ力が、彼らにそうさせたのかもしれません。

 

■買収される

 復活の出来事を目撃し、恐怖に囚われたという点では、空っぽの墓を訪れたマグダラのマリアたちも、その墓を見守っていた兵士たちも同じでした。何の違いもありません。兵士たちは急ぎ祭司長たちのもとに、女たちは弟子たちのところへと走りました。女たちよりも兵士たちの方が先に行き着いたようです。

 この報告を受けた祭司長たちもまた、驚き、動転したに違いありません。自分たちだけでは到底処理できないと考え、長老たちと内密に相談し、計略をめぐらします。12節から14節、

 「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう』」

 考えあぐねた末に、彼らは兵士たちを買収し、「兵士たちが眠っている間に、弟子たちがイエスの遺体を盗んだ」ことにしようとします。

 しかし、彼らの考えついたこの説明は、とても奇妙なものです。ちょっと考えれば、いくつもの矛盾、疑問が出てきます。一つ、よく見張っておかなければならないはずの兵士たちが、なぜ眠ってしまったのか。二つ、弟子たちは兵士たちを起こさずに、どのようにして大きな墓石を取りのけることができたのか。三つ、兵士たちが同時に寝入ってしまうことなど、あり得るのか。四つ、もし眠っていたのなら、盗んだのがイエスの弟子たちだと、どうしてわかったのか。疑問は尽きません。

 買収を持ちかけられた、当の兵士たちも驚いたに違いありません。

 兵士たちには、自分たちが目撃したその出来事の「意味」を理解することができませんでした。ただ驚き、恐れるばかりでした。その出来事の「真実」がどうあれ、監視を命ぜられていた「男の遺体がなくなった」ということだけは、誰の目にも明らかな「事実」です。本来なら、自分たちの責任が問われるはずなのに、驚いたことに、お金をくれると言うのです。

 しかし当時の法律では、監視をする役目の兵士たちが勤務中に眠ってしまい、監視の任務を遂行できなかったとなれば、下手をすれば死刑に処せられます。祭司長たちに求められるままに、「寝ている間に」などという、そんな作り話を証言することは割に合いません。そこで祭司長たちは、この話が総督の耳に入っても、罪に問われることのないよう仲裁役を買って出よう、とまで約束をします。

 兵士たちには、復活のその出来事をありのままに証言することに、何のためらいもありませんでした。それが「事実」だったからです。

 ただ、その出来事の「事実」は理解できても、その出来事が示す「真実」を理解することができませんでした。その兵士たちに、偽証をするよう求めるその買収を拒否する理由など、どこにもありませんでした。

 

■罪が罪を

 むしろこのとき、その出来事が意味する「真実」に気づいていたのは、祭司長や長老たち、ユダヤの指導者たちの方だったのではないでしょうか。だからこそ彼らは、その出来事をどうしても受け入れることができません。いえ、受け入れてはならなかったに違いありません。彼らは頑なまでに、捻じ曲げ、否定しようとします。イエス復活の出来事を受け入れるということは、イエスが救い主キリストであり、神の子であることを認めることに他ならないからです。その神の子キリストを拒絶し、十字架の上で殺したという、ゲヘナ(地獄)の火で焼き尽くされるほどの、その罪を告白せざるを得なくなるからです。

 祭司長や長老たちは「真実」を受け入れず、自分の都合、自分の利益だけを優先し、自分を守ろうと自分に閉じた生き方に固執する、エゴイズムの誘惑に流されました。神を信じ、信頼するよう人々を導く立場にあるはずの彼らが、自らを神に向かって、真実に向かって開くことができませんでした。15節、

 「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」

 一見して疑わしいこの作り話が、多くの「ユダヤ人の間に広まった」と記されています。祭司長たちばかりでなく、ユダヤの人々もまた、自分たちが十字架にかけた、あのイエスが復活したなどという出来事を受け入れることができようはずもなかったのは、当然のことでした。

 このようにして、一つの嘘を裏づけるために、数え切れないほどの嘘が必要になり、一つの罪が、より大きな罪を生み出すことになりました。

 イエスさまが復活されたというただ一つの出来事が、イエスさまに癒され、従っていたマリアたちには、新しいいのちに生かされるほどの大きな喜びを生み出し、全く同じ出来事が、イエスさまを十字架へと追い立てたユダヤ人たちには、さらなる拒絶と否認、欺瞞と誘惑の罪を生み出していったのでした。

 

■見るべき真実

 そのことを思いつつ、ここで注目したいのは、ここに二度ほど使われている「金」という言葉です。

 ギリシア語のアルギュリオン。正確には「銀貨」です。マルコによる福音書では一度しか使われていませんが、このマタイによる福音書では、九回も使われています。そしてそのすべてが、イエスさまのエルサレム入場以降、特に受難物語に集中しています。あのユダが三十枚のアルギュリオン(銀貨)と引き替えに、イエスさまの身柄を最高法院の兵士たちに引き渡しました。そして今度は、多額のアルギュリオン(お金)と引き替えに、イエスさまの復活という出来事がもみ消されようとしています。

 お金によって、都合の悪いことをもみ消し、都合の悪い人を排除し、お金によって、自分に都合のいいように人や物事を動かしていく。そういうことが、イエスさまの十字架の時にも、そしてこの復活の場面でも露わになります。現在もよく見聞きする、わたしたち人間の罪、愚かさ、欲深さをまざまざと見る思いがします。

 「買収」。辞書には「買い取ること」と説明されていますが、この言葉にはもっと別のニュアンスが含まれています。例えば、店で何か品物を「買い取ること」を「買収」とは言いません。「買収」とは、本来、お金で買い取ることのできないものを、強引にお金の力で我がものにし、好きなように動かしていく、そんなニュアンスを持つ言葉です。

 人を買収する。真実を買収する。しかし、人間の心、あるいは人間の存在、そのいのちと尊厳、あるいは真実、真理というべきもの、そういうものは本来、お金では買うことのできないものです。

 当然、地域振興と引き替えに、つまりお金と引き替えに、平和を求める人々の土地に軍事基地を作るようなことなどしてはならないでしょう。ところが人間は、とりわけ権力を持ち、莫大なお金を持つ人間は、お金で買ってはならないもの、お金で買うことなどできないはずのものを、そのお金で買おうとします。

 そういう人間の愚かさ、醜さ、罪が、イエスさまの十字架と復活にも、影を落としています。わたしたちは、このことを肝に銘じなければなりません。お金で買えないものを、お金で買おうとしてはなりません。お金と引き替えに渡してはならないものは、どんなにお金を積まれても渡してはならないのです。心も、いのちも、自然も、平和も、そして信仰も。

 世の中にいわゆる拝金主義がまかり通り、お金さえ積めば何でも買える、何でもできるかのような風潮が色濃くなっている中で、イエスさまが、そのような人間の罪と愚かさによって、十字架につけられ、またその復活の真実がもみ消されようとしたことを、深く覚えなければなりません。

 そのためにこそ、真実を見据えるまなざしが、信仰が大切です。見るべきもの―十字架と復活の真実を見失う時、わたしたちは最も大切なものを失うことになるでしょう。

 

■復活という希望

 では、復活の真実とは、復活が意味することとは何でしょうか。

 それは、単に死からのよみがえり、死の克服ということではありません。十字架の死は、イエスさまの宣教の挫折を意味しました。とすれば、その死からの復活は、十字架に至るその宣教の業が確かなもので、わたしたちの罪を赦し、新しいいのちに生きる、真の希望を与えるものであることを保証するものです。実に、イエスさまのみ言葉とみ業は、赦しと希望に満ちた、この復活の光に照らしてこそ、初めてそれを正しく理解することができるのであって、福音書を記した人たちも、この復活を前提にイエスさまの出来事を描いている、と言ってよいでしょう。

 そのひとつ、ヨハネ福音書5章1節以下にこんなエピソードが記されています。

 イエスさまは、三十八年間、病気で横たわっている人に問いかけます。

 「良くなりたいか」

 奇妙な質問です。良くなりたいに決まっています。しかし、長く苦しみ悩んだ人は「良くなりたい」とは言いませんでした。病人は答えます。

 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)

 親切な人はいません。みんな自分のことしか考えていないのです…胸の中にためていた不平不満、恨み辛(つら)みを吐き出します。彼は、三十八年間も病気をした中で、人間の正体が見えたと思ったのです。あの人も…この人も…。

 その男に、イエスさまは言われました。

 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)

 人が冷たいだの、世の中がどうだの、みんなエゴイズムだの…。それは状況に負けているのです。現実に負けている。起き上がりなさい。自分の足で歩きなさい。イエスさまはそう言われます。

 わたしがここにいるから、あなたのすべてを担う復活のわたしが、あなたのそばに来ているから、だから「起き上がりなさい」と。起き上がることができるから、わたしと一緒にあなたは歩くことができる。あなたにその力があるというのではなくて、わたしが生きるから、あなたも生きることができるのだ。そう言われます。

 「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」(9節)

 現実に負けて横たわっていた人、床に伏せっていた人が、床を担いで歩いたのです。現実に打ちのめされていた人が、現実の中を歩き始めたのです。とにかく頑張って、力を振り絞って歩きなさい、というのではありません。わたしがここにいるから、あなたを担う復活のわたしがあなたと共にいるから、一緒に歩くから、起き上がりなさい!

 この言葉こそ、復活という意味、真実を指し示すものです。復活のイエスさまは、今もわたしたちに、起き上がりなさい、わたしと一緒に復活しなさい、そう呼びかけてくださっているのです。感謝して祈ります。