福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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4月24日 ≪復活節第2主日礼拝≫ 『最も大いなるもの』マタイによる福音書22章34〜40節 沖村裕史 牧師

4月24日 ≪復活節第2主日礼拝≫ 『最も大いなるもの』マタイによる福音書22章34〜40節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■好きと嫌い

 電車やバスに乗っていると、こんな女学生の声が聞こえて来ることがあります。

 「だって好きなんだもん、しょーがないじゃん」

 「嫌いなものは嫌い、わたしはあんなのゼッタイいや」

 何も確かなものが見当たらないように思えるこの時代、好きか嫌いかだけは大声で叫ぶことが許されているかのようです。好き嫌いをはっきり言えることはよいことだ、そう育てられます。

 しかし、「好き」「嫌い」なんて、そんなに胸張って言えるようなことでしょうか。少なくとも「ゼッタイ」なんて使わない方がいいはずです。好き嫌いほど、一見確かそうに見えてその実、いいかげんなものはないからです。死ぬほど好きだったあの人のことを、手のひらを返すように遠ざけたり、嫌っていたはずのものの虜(とりこ)になったり…。なんとも見苦しい、そう言われても、やはり好みは変わります。変わるのが人間です。そんな自分の曖昧さやいい加減さを見つめることもなく、無邪気に好き嫌いを振りかざして世界を切り裂いていく姿は、あまりに悲しく、とても愚かです。

 とりわけ「嫌い」は質(たち)の悪い言葉です。物であれ人であれ、嫌いの一言で切って捨てる。だってしょうがないじゃない、あの人、生理的に合わないのよ、と言ってのける。嫌いに理由なんかない、相手のせいだと思っています。

 そんな好き嫌いによって切り裂かれた世界に生きるわたしたちの誰もが、多少なりとも「自分は愛されていない」と感じる体験をし、「自分は愛されるに値しない、その価値がない」という不安を抱え込んでいます。だからこそ、人は、自分を愛して全面的に受け入れてくれる相手を求めて、切ない求愛を繰り返すのではないでしょう。ときに親に無意識に反抗してみたり、ときに社会に過剰に適応したり、ときに友人に幼稚な甘え方をするのは、結局のところすべて、本当の愛を求めてのことです。けれども、現実の世界は決して、人を完全には受け入れてくれず、わたしたちはただ好きと嫌いを繰り返しながら、不安と孤独、傲慢と自己卑下に囚われ、苛まれるばかりとなります。

 そんなわたしたちに、今朝、驚くべき愛の言葉を告げ知らされます。

 

■律法の中心

 「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」

 イエスさまを十字架に架けようとするファリサイ派の人々が「一緒に集まった」、そのきっかけは「イエスがサドカイ派の人々を言い込められた」と聞いたことでした。利害関係や主義主張の違いから、同じユダヤ教の中にありながら激しく対立していたサドカイ派とファリサイ派の人々が、イエスさまを十字架に架けるために手を結びます。そして「一緒に集まった」その中から、ひとりの人が立てられます。

 「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」

 「試そうとして」。「試す」「試みる」というこの言葉は、荒れ野でイエスさまが悪魔によって誘惑された時に出てきた「誘惑する」と同じ言葉です。この時、律法学者が準備した問いは、イエスさまを陥れるための、悪い方向へと誘う毒の入った質問でした。

 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」

 実は、律法の中心は何かというこの問いは、決して特別なものではありません。当時、人々がよく、律法の教師であるファリサイ派や律法学者たちに尋ねていたものでした。ユダヤ教の聖典はもちろん旧約聖書ですが、それ以外に、聖書の中心となる律法を時代に適応させた613にも及ぶ行動指針としての戒め―ミシュナと呼ばれる口伝律法があり、そのミシュナについての様々な議論や解釈を記したタルムードと呼ばれるものがありました。そこに記される膨大な条文をすべて正確に記憶し、具体的な場面すべてに正しく適応することは、まず不可能です。「律法の中心は何ですか」という問いが出てくるのは、至極当然のことでした。

 タルムードに、当時の最も高名な指導者であった二人の教師―シャンマイとヒレルと、ひとりの異邦人とのこんなやり取りが記されています。異邦人が尋ねます。「わたしが片足で立っている間に、トーラー(律法)の全体を教えてください」。厳格に律法を守ることを求めるシャンマイは、棒切れを振り回してこの不遜な質問をする異邦人を追い払いましたが、比較的自由な律法解釈をしていたヒレルは、「あなたが好まないことを隣人にしてはならない。これがトーラーの全体で、残りは、この教えの注解である。行って学びなさい」と答えた、とあります。

 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というこの問いは、そうしたファリサイ派内の二つの学派の対立を背景に、あなたの立場はどちらか、とその立場を鮮明にするよう迫ることで、イエスさまを「試そう」とするものでした。何を一番大切にするかによってイエスさまの本質が明らかになり、批判の糸口がつかめる、そう考えたのです。

 

■神を愛すること

 ところが、イエスさまの答えは、彼らの考えをはるかに超えるものでした。イエスさまは、ふたつの掟について教えられます。そのひとつ、

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」

 ユダヤ人であれば誰もが良く知っている申命記6章5節から引用された、この第一の掟をひと言で言うとすれば、「神を愛しなさい」ということです。神を愛することが、あらゆる律法の要、信仰生活の中心だと言われます。神と人との関係は「支配と服従」の関係ではなく、何よりも「愛」の関係である、「神と人」の関係は「愛」と呼ぶ外ない、ということです。

 愛することは、先ほど申し上げたように、ただ好きだ、好意を持っているということではありません。人格と人格との、時としてぶつかり合い、火花が散るような関わりです。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」(出20:5)にあるように、嫉み、嫉妬するほどにわたしを愛してくださる神との間に人格的な深い交わりをもって、わたしは生かされ生きているのだ、と言われます。神を愛することは、それほどに愛してくださる神との交わりに生きるところに成り立つのだ、ということです。

 わたしたちの周りでよく見聞きする、いわゆる八百万の神々との間に、そんな「愛」はありえません。多くの神々は、困った時の神頼みとして、とっかえ、ひっかえ、お願いする相手にはなっても、愛する相手にはなりません。真実な意味で交わりを持ち、対話していく、人格的な相手にはなりません。多くの神々に心を向けていこうとすれば、人はむしろ孤独と虚しさに陥り、最後は、自分一人で何とかするしかなくなります。

 しかし、「神を愛する」というとき、わたしたちは、本当に語りかけることができ、またわたしたちに語りかけてくださる相手を与えられます。わたしたちをどこまでも愛し、またわたしたちに愛を求められる相手を与えられます。その神を信じ、愛するとき、わたしたちは、嫉妬するほどの激しい神の愛ゆえに、限りある、欠け多い人間としての、どうしようもない不安や孤独から解き放たれます。「愛されているから、大丈夫」と思えます。

 主なる神との間に「愛する」という関係を持って生きることこそ、聖書の教える信仰の、人生の中心、要です。律法、掟を通して神は、ご自分の民との間に愛の関係を打ち立てようとしておられます。愛の関係が打ち立てられていれば、ファリサイ派のように細かい掟をいちいち暗記し、それに従うことに縛られなくとも、神との関係において、根本的には間違うことはない。これが、イエスさまが「神を愛すること」を第一の掟とされたことの意味でした。

 

■神を愛することと人を愛すること

 イエスさまはこの「第一の掟」に続いて、さらに「第二の掟」を語られます。

 「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」

 この第二の掟は、レビ記の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(19:18)という言葉に基づくものです。同じ箇所に、隣人を愛するとはどういうことなのか、こう書いてあります。畑をもっている者、ぶどう畑をもっている者が、収穫の時に落穂が落ちたら、これも皆自分の畑のものだと言って、丁寧に掻き集めるようなことをしてはならない。ぶどう畑ではわざと摘み尽くさないようにしなさい。残して置きなさい。なぜそうするのか。畑を持つことができない人、自分の食べ物を得ることができない人が、そこに来てぶどうを摘み、あるいは落穂を拾うことができるようにするためだ。その人たちのためにこそ、きちんと残しなさい、と。

 日本は豊かになったと言われます。しかし、この国の繁栄の仕方は、レビ記のように、自分たちの実りを他の人々にもどうぞと、分け与えることよりも、自分たちの収穫は全部自分たちのためにと集め尽くす、用い尽くす原理に貫かれています。国の姿勢、企業の営みはもとより、わたしたちの人生の、家庭の作り方でも、そうかもしれません。近年しばしば耳にする、自己責任、経済格差という言葉はその表れです。十戒など、今のわたしたちには何の役にも立たない、関係もない、古びた戒めだとは、とても言えません。神の戒めは古くて、いつも新しいと言わなくてはなりません。

 なぜ、愛さなければならないのか。レビ記は、先ほどの落穂拾いの勧めの終わりに、「わたしはあなたたちの神、主である[から]」と言います。わたしたちの神が驚くほどの愛の方であり、その神にわたしたちが愛されているから、愛されている者同士として、愛そうとするのです。目に見える隣人をどう愛するのかということに、目に見えない神に対するわたしたちの関係が映し出されるのだ、ということです。目に見えない神への愛には思い込みが生じやすく、自分が神を愛しているつもりでも、実は、自分勝手に造り上げた神の姿を愛しているだけかもしれません。それは結局、自分自身を愛しているに過ぎません。目に見える隣人との間でも同じです。人が隣人をどう愛しているかは、その人の神への愛を見分けるしるしであるということです。

 この場合の隣人とは、もちろん、自分の好きな人、好意を持っている人のことではあり得ません。もともと好きな人を愛するのは、自分の思いの通りにしているだけのことですから、それが神への愛のしるしにはならないでしょう。神への愛のしるしとなるのは、自分にとって好意を持てない、敵対関係にある人、とうてい愛することのできない人をも愛することです。自分の目の前にいる一人の隣人を、しかも愛することなどできないと思える人を、神がその人を自分の前に置いて、その人を愛するようにと求めておられるのです。

 

■神の国から遠くない

 しかしこの教えに、わたしたちの誰もが絶望しそうになります。とても無理、そう思います。わたしたちの誰もが、隣人を愛そうとして愛せないという苦しみを互いに味わいながら生きているからです。

 では、どうすればよいのでしょうか。こう言い換えてみたら、よいかもしれません。隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなく、「赦す」ということ、「和解する」ということだ、と。

 「自分を愛するように」とは「自分を赦しているように」と言い換えてよいでしょう。わたしたちは、自分のことは実に都合よく赦します。それなのに、人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまいます。イエスさまはそんなわたしたちに、「あなたがたは自分を赦しているのだから、同じように隣人をも赦しなさい」と言われるのです。

 でもそれだけなら、「自分に厳しくしている人は、人にも厳しくしてよい」という話になります。しかしそうではありません。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えによって、イエスさまは「あなたがたは自分を愛し、赦しなさい。そして隣人をも愛し、赦しなさい」と言っておられるのです。先ほど、わたしたちは自分のことは赦しているではないかと言いましたが、心の深い所ではそうでありません。自分で自分が赦せない、自分が自分であることを受け入れられない。そんな喜べない思いが、わたしたちの心を支配してしまうことがしばしばです。そうなると、人のことも赦せなくなり、受け入れられなくなり、喜べなくなります。

 そうなのです。イエスさまはそんなわたしたちを、自分を愛し、赦し、受け入れ、喜ぶことができる者にしようとしてくださっているのです。

 神を愛しているとしても、それは自分の存在のほんの一部で、神が自分の思い通りのことをしてくれるときだけなのではないか。また、到底赦すことなどできない人を赦すことが隣人を自分のように愛することだと言われるとき、わたしたちはそのような赦しに生きることができているだろうか。

 そのことを振り返るとき、わたしたちは自分が神の求めておられることからいかに遠く離れているか、そして自分の努力によっていくら頑張っても、その遠さを少しでも縮めることはできないことを認めざるを得ません。そのことに気づかされ、愕然とすることこそが、イエスさまのこの言葉への正しい応答なのかもしれません。

 しかし、その上でなお、ヨハネの第一の手紙に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)とあるように、愛そうとして愛することのできない、そんなわたしたちを、神がイエスさまによって徹底的に、全存在をかけて愛してくださるのです。だからこそ、そんなわたしたちであっても、そんなわたしたちのままで、イエスさまに委ねて、神を、そして隣人を愛していこうとすることができるのではないでしょうか。

 イエスさまは、嫉むほどの愛にあふれる神を愛し、神に愛されている自分を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛して生きる信仰へと、わたしたちを招いてくださっているのです。感謝して祈ります。