■執拗に求める
イエスさまは「主の祈り」に続いて、三つのたとえを話されました。「祈りとは」どういうものか、どうあるべきかについて、弟子たちを教え諭されるためです。
最初は「パンを求める友のたとえ」。5節から8節です。ある人が夜更けに、「旅人をもてなすためのパンを貸してくれ」とお願いにやってきます。しかし、もう夜中です。訪ねて来られた人は断りますが、しつこく、執拗に求められます。
この物語の結び、8節は「あなたたちの中の誰が、そんなことをするだろうか」という疑問の形で問いかけながら、「いやそんな者はいやしない」という反語的な意味合いが、そこには込められます。夜中であっても、いや、むしろ夜中であるからこそ、そのように助けを求められて、もう寝ているからといって、いったい誰が追い返すだろうか、そんな者はいないという意味です。
一部屋か二部屋しかなかった当時の家では、同じ部屋で家族全員が睡眠をとるのは普通でした。みんな一緒に眠っている、小さな子どももすっかり寝入っています。夜中に訪ねるということが迷惑極まりないことは、パンを借りにきた人にも重々わかっていました。「なんて非常識な」という思いは、今のわたしたちと同じでしょう。
しかし、しかし借りに来た人にも理由があるのです。しかも、当時のユダヤ社会、助け合って生きることを当然と考える社会では、旅人をもてなすことは共同体のメンバーとして当たり前のこと、義務でした。とはいえ、しつこく、まして夜中にパンを求めるというのは、いかにも厚かましい行為です。8節に言葉を補ってみると、こんな意味になるでしょうか。
「たとえ、夜中に起こされたその人は、自分の友だちだからという理由で、立ち上がってパンを求めてやってきた人に与えることはなくとも、本来は友なのだからそうしてしかるべきなのだが、それでも、パンを求めてきた友人のしつこさゆえに、それがどれだけ恥知らずなものであっても、起き上がって、その人はパンを求めてきた彼が必要とするだけのものを与えるだろう」
このたとえには子どもを含め、四人の人物が登場しますが、主な登場人物は、夜中に起こされた主人とパンを求めてきた友人です。7節に「わたしの子どもたち」とありますから、この主人は父親です。そう、「父なる神」のことです。一方、パンを求める友人とは、主の祈りで日々のパンを求め祈る、わたしたち自身です。
何も「しつこい」祈りが勧められているのではありませんがしかし、その「しつこさゆえに」「熱心に求め続ける姿勢に対して」、父親である主人が友人の求めに応えるのであれば、わたしたちの父である神、絶対的な主権者であり支配者である方が、わたしたちの願い-祈りを聞き届けられないことがあるだろうか、いや、そんなことはありえない。父である神は、絶対に聞き届けてくださる。このたとえはそう教えています。
■求めるものを与えられる
しかも父である神は、わたしたちが「求めるものを必要とするだけ」、きちんと備えてくださるのです。9節の「そこで、わたしは言っておく」という言葉によって、イエスさまは宣言されます。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」
「求めよさらば与えられん」というよく知られたこの言葉は、格言的な表現とその繰り返しによって、わたしたちの願いと祈りに応えてくださる父なる神への確信を、堅い信頼をさらに強めようとしています。繰り返しは、ただ神への信頼を強調しているだけでなく、「主の祈り」と同じように、日々、祈り「続ける」こと、「終わりのときまで」願い求めることの大切さを説いています。
「求める-与えられる」「探す-見つかる」「門をたたく-開かれる」というこの響き合うような関係は、祈りにおける父なる神とわたしたち人間との関係―祈り求めるわたしたちの姿(信仰=ピスティス)とそれに応答してくださる神の真実(誠実さ=ピスティス)とを示しています。神の応答は、わたしたち人間側の条件にはまったく関わりなく、ただ祈り求めるすべての人に、一方的に「与えられ、見つかり、開かれ」ているのだということです。
そして11節にこう言われます。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に蛇を与える父親がいるだろうか、また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」
「蛇」と「蠍(さそり)」は、サタン、あるいは悪を象徴する言葉です。わたしたちはもちろん、親による幼児虐待や育児放棄という悲しい現実があることを知っています。それにもかかわらず、そんな罪深いわたしたち人間の親子という関係においてさえ、そうやって父親は子どもを愛し守ろうとするのではないか。それが人としての真実の姿ではないのか。ましてや、父なる神が、わたしたちの必要とする日々の糧を求める祈りに、罪の誘惑をもって応えるはずなどありえない。そう、断言されます。
■聖霊によって
そして最後13節です。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」
「このように」という言葉で、イエスさまは「主の祈り」についての教えを閉じようとされます。イエスさまは最後にもう一度、これでもかとばかりに、罪の誘惑に陥っている悪い人間の父でさえ、子どもには良いものを与える、ましてや、サタンを退けられる天の父なる神は、どれほどすばらしいものをわたしたちに与えてくださるだろうか、とわたしたちの祈りに応える父なる神へのさらなる確信と、神の恵みの大きさを告げ知らせます。
その上で、その祈りに対する神の応答として与えられるもの―神と人をつなぐもの、限りない神の愛そのものである「聖霊」が与えられると約束されます。
ここに、聖霊が出てくることに唐突な感じを抱かれるかもしれませんが、ルカによる福音書では、聖霊はとても大きなウエイトを占めています。イエスさまの生涯、十字架と復活、そして昇天以降の教会の働きに至るまで、そのすべてを描き出そうとするルカにとって、聖霊降臨の出来事と聖霊の働きはとても重要なものでした。
聖霊は、目に見えない風のようにわたしたちの間を吹き抜ける、神の働きそのもの、救いの御手そのものです。この福音書に耳を傾けていたルカの教会の人々の祈りが、そして今ここに集められたわたしたちの祈りが、必ず父なる神に聞き届けられるのは、他ならぬ「聖霊」による恵みでした。その聖霊が、求めるすべての者に与えられるという約束を、イエスさまはここに高らかに宣言してくださったのでした。
■心に語りかける声
このイエスさまの約束を胸に刻みつつ、先週もご紹介したカトリックの信徒、末盛千枝子さんの『ことばのともしび』の中の一節をご紹介して、今日のメッセージを閉じさせていただきたいと思います。
「…小さな息子たちとわたしを残して夫が急死したとき、わたしは『これからもまだまだ、いくつもの困難があるだろう。でもそのときに、必ずそれを乗り越える力が与えられるに違いない』と、心の底で語りかける声を聞いていました。
あれから二十年近くたったある日のこと、長男がスポーツ事故に遭い、九死に一生を得たのですが、脊髄損傷で、胸から下が一切動かない重度の障害を持つことになってしまいました。周りはどれほど嘆いたことでしょう。しかし、本人は悲しい顔をしながらも、じっと耐えて、過酷なリハビリに励みました。そして、両手が動くのを幸いに、いまではパソコンで世界中と交信し、自分なりの生活を送っています。
わたしはそのような息子を見ながら、彼の姿に深い尊敬を覚えます。そして、そのような息子を見ることができる幸せを感じます。これは、あのときの苦しみと悲しみの果てにたどりついたもので、いまになって、求めたものはすべて与えられていたと思うのです。
〔『求めなさい、そうすれば与えられるであろう』という〕あの聖書の言葉が裏切られることはなかったのだと思っています」
もうひとつ、
「…求める、という日本語には何かとても切実な感じがあります。にもかかわらずなお、とても遠慮がちな感じもします。
たぶん、何かを求めているとは、本来、具体的な目の前のすぐに手に入るようなもの、たとえばお金を出せば簡単に買えるようなものではなくて、静かに待っているしかないもの、それだけに、とても大切なものを待っている、という感じがあるのだと思います。心の耳を澄まして何かが聞こえてくるのを待っている、ということに近いでしょうか。
目と耳と心を澄まして、自分でもはっきりと具体的な言葉にはできないようなことをじっと待つ、あるいは時が来るのを待つ。それが、求めるということのような気がします。そして、そのようにして何かを求めて待つという姿勢は、結局は祈りそのものではないかと思います。
祈りながら待つということは、もうすべてを天にお任せして、自分では求めていたことさえほとんど忘れてしまっている、そんなことだと思います。天に任せて、自分がいま果たさなければならないことだけに集中して日々を過ごすとき、ふっと気がつくと、その求めていたことが本当に不思議な形で満たされているのを発見することがあります。それを、そのような形で満たされたのだと気がつくためにも、心を澄ましていたいのです。…」(〔〕、太字は沖村)
「心の底で語りかける声」「心の耳を澄まして何かが聞こえてくる」言葉こそ、聖霊によって与えられる、神からの沈黙の声です。
願うときわたしたちは、人間を超えた存在に向かって、どうにかして自分の思いを届けようとします。一方的に思いを語ろうとするとき、わたしたちは相手の声を聞こうとしていません。しかし祈るとは、願いを鎮め、彼方からの声に耳を傾けること、無音の、しかし愛と恵みに満ちた、その言葉を聞くことではないでしょうか。
願うのは悪いことではありません。願わずにはいられない、そんな局面に追い込まれることは人生に何度もあります。でもそんなときにこそ、わたしたちは聞く耳を閉じてはなりません。神は、わたしたちが思っているよりもずっと、わたしたちのことを知っていてくださるからです。神は、わたしたちが感じている以上に、わたしたちの苦しみ、悲しみ、嘆きを深く受け止めてくださっているのです。
ただ、そのことを深く実感できないわたしたちは、不安に耐え切れず、分かっているはずの状況を神にくどくどと説明しようとします。説明する自分の声が、彼方からの無音の声をかき消しているのに気が付かないままに、語り続けてしまいます。
わたしたちの祈りの最大の欠陥は、わたしたちが神に語りすぎ、神が語ることをほとんど聞かないことです。最高の祈りは、わたしたちが沈黙して待ち、自分に対して語られる神の声を聞くこと、ただ神のみ前にたたずんで、神の平和と力が自分の上に、またわたしたちの周りに注がれるようにと祈ること、そしてわたしたちが神の永遠のみ腕に寄り縋(すが)り、神の内に静かで完全な安らぎを感じることです。
わたしたちの祈りを、願いを、求めを、神が聞いてくださらないはずはないからです。わたしたちが求める必要なすべてのことを備えてくださらないはずはないからです。だからこそ、どんな時にも心を静めて、すべてを委ねて祈る、そんな祈りの時をこそ、最後のときまで持ち続けたいものです。