福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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5月10日 ≪復活節第五主日・母の日礼拝≫『離れないで』マタイによる福音書7章15~23節 沖村裕史 牧師

5月10日 ≪復活節第五主日・母の日礼拝≫『離れないで』マタイによる福音書7章15~23節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫ 午前10時15分

黙     祷

讃  美  歌 14

招  詞 エレミヤ書17章7~8節

信仰告白 信徒信条 (93-4B)

交読詩編 6篇1~11節

讃  美  歌 436 (54年版)

祈  祷     ≪各自でお祈りください≫

聖  書 マタイによる福音書7章15~23節

讃  美  歌 305

説  教 「離れないで」 沖村裕史

祈  祷

献  金 64

主の 祈り   93-5A

讃  美  歌 579

黙  祷

 

≪説  教≫

母の愛
 「母の日」を思いながら、今日のみ言葉を読んでいて、ふと、今は天に召されたひとりの姉妹のことが思い出され、わたしのこころから離れなくなりました。予定していた54年版讃美歌510番を436番に代えさせていただいたのも、この讃美歌が、姉妹の告別式のときに賛美した歌であり、また母の日と今日のみ言葉にふさわしいと思ったからです。

 「恵みのこの日に 母のあいを/こころの限りに 称えうたわん
  宝のたからぞ 母のあいは/父なる御神よ 祝したまえ」

 葬儀の準備のために、その姉妹が書き残された略歴を拝見し直したとき、彼女が、戦前、戦中、戦後の激動の時代を生き抜かれた方であることを改めて思わずにはおれませんでした。長女と長男が生まれてほどなく、愛する夫がサイパンで戦死。終戦一年前のことでした。混乱に次ぐ混乱の中、幸いにも、後に、たびたび教会に蘭の花を届けてくださることになる男性と出会われ、再婚。次男を授けられます。

 それは端正な字で淡々と書かれていました。それほどの苦難を経験されながら、実に淡々と穏やかに記される。そこに、姉妹の人柄が見えてくるようでした。高齢になり認知症が進まれてからも、いつも笑顔で迎えてくださり、その都度、同居しておられた次男の妻―義理の娘のことを指して、「この人は本当によくしてくれるの。いつも感謝しているの。ありがとうね、ありがとうね」と感謝の言葉を口にされます。娘も「母が愚痴を言ったり、母から叱られたりしたことは一度もありません。こちらが感謝です」と答えられます。そのお姿、人柄は、歩んでこられた苦難の人生の中で培われたものに違いありません。告別式でこんなお話をさせていただきました。
 
 お母さまの愛の豊かさと深さ、そして強さが、家族の支えであり、励ましであったし、これからもそうであり続けるに違いない。今日、読んだ聖句も、一緒に歌っていただく讃美歌も、お母さまが自分の葬儀の時にと願われ、書き残しておられたもの。ここに、みなさんへの心からの愛が込められている。聖句、コリントの信徒への手紙一13章4節以下の言葉は、愛の賛歌と呼ばれるもの。しかしそれは、愛は素晴らしいと、有頂天になって歌い上げるようなものではない。「愛は忍耐強い。…すべてを忍び、…すべてに耐える」とある。愛するということは好き嫌いではない。人との出会いを、その存在を、また人生を、そのままに受け入れること。たとえ受け入れがたいことでも、敬意をもって受け入れること。自分にとっての良かれと思うことのみを望むこと、自分の正しさに固執することではない。その意味で、謙虚さをもって耐え忍ぶこと、それが愛である。それは、豊かな情愛であるとともに、謙虚さであり、そして強さである。この讃美歌に、愛する母の愛が、励ましが豊かに示されている、と。

 母の愛の中に示される、驚くべき神の愛が、母の日に与えられた今日のみ言葉の中にも示されています。ご一緒に深く味わいたいと願っています。

■茨とアザミ
 16節から18節、

 「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」。

 イエスさまは、とげを持つ厄介な植物を「偽預言者」に当てはめ、とげある「茨とあざみ」を良い実を結ばない「悪い木」だ、と言われます。良い実を結ぶ良い木とは、すなわち「良い信仰(の指導者)」、良い実を結ばない悪い木とは、「悪い信仰(の指導者)」を指していることになります。

 良い木はよい実を結ぶ。真の信仰は善い実を結ぶ。反対に、悪い木は良い実を結ばない。偽りの信仰はよい実を結ばない。とげがあって蔓延ると厄介でいいところは何もない。刈り取って焼き捨てる以外にない。

 取り付く島もない厳しい言葉ですが、イエスさまがここで、良い実を結ばない悪い木として、茨や野アザミに譬えておられるのは、なぜなのでしょうか。具体的には何を指し、どのようなことを意味しているのでしょうか。

 旧約聖書では、「茨とアザミ」がセットでよく出て来ます。創世記3章18節に、楽園から追放されたアダムに向かって神が、「土は茨とあざみを生え出でさせる」と言われます。またホセア書10章8節には「茨とあざみがその祭壇の周りに生え茂る」とあって、いずれも、罪を犯した人間への罰、裁きとして、とげのある植物を蔓延らせることが強調されています。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」と神に宣告された人間は、茨やアザミの多い「悪い土地」を耕して、食べ物を得るよう定められたのでした。
 
 「茨とアザミ」は、人間の罪に対する罰、あるいは裁きをイメージさせるものです。いわば、裁きを免れない罪人としての人間を指す言葉であると同時に、人を罪に定めて、偽りの裁きを下す人、それが「茨とアザミ」であり、「偽預言者たち」であるということでしょう。これまでイエスさまが繰り返し批判されてきた、「偽善者たち」を指していると考えてよいでしょう。
 
 以前申し上げたように、偽善とは「本心からではなく見せかけにする善い事」と辞典に説明されています。「善い事」です。21節以下に描かれる人々も、悪いことをしているとはとても言えません。「偽善」が持つ一番本質的な問題点は「見せかけ」です。人は誰でも見せかけに弱いものです。そのため見せかけで人を欺くこともできます。しかし、神の前に何事も隠すことはできません。それなのに、それができると思って偽善的に振る舞うとすれば、それは、神を見せかけでだませる程度のもの、神を信じていないのと同じことです。偽善者たちの信仰生活の中に、神は生きていません。しかも彼らは、口を開けば神であり、律法でした。結局、彼らは見せかけの信仰で、神を欺いているのです。イエスさまが「律法学者に気をつけなさい」「偽預言者を警戒しなさい」と言われたのは、その偽善についてでした。彼らの善い業、行為そのものではなく、問題は、彼らの信仰の見せかけであり、その偽善や偽りの信仰をもって、人を罪に定めて偽りの裁きを下し、大手を振って「広い門」から入って、自らを誇っていることでした。

■愛の御心
 大切なこと、見分けるポイントは、21節のイエスさまの言葉、「わたしの天の父の御心を行」っているかどうか、です。

 もう一度、彼らの言葉に耳を傾けてみましょう。彼らは、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」(22節)と言っています。

 この言葉を聞いて、あれ?これ、どこかで聞いたことがある、と思われた方がおられるかもしれません。そう、ルカによる福音書15章、放蕩息子のたとえの中に出てくる兄の訴えの言葉が、この22節の言葉と重なって聞こえてはこないでしょうか。
 
 放蕩息子を抱きかかえるようにして迎え入れた父が、「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』」と大きな喜びを語ったその直後に、祝宴を非難する兄の言葉と父のとのやり取りが描かれています。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』」(28~30節)。

 兄は、父のために真面目に一生懸命に働きました。そんな自分を誇りにも思っています。ただ、どうでしょう。働きに働いたその一日を終えて一人になった時、彼の心に本当の喜び、安らぎがあったでしょうか。そうではなかったようです。心配があり、妬みがあり、愚痴があり、思い煩いがあり、空しさや疲れで、その心は一杯だったに違いありません。なぜか。それは、彼を日々の働きへと向かわせていたものが「愛」ではなかったからです。「きちんとしなければ、人から何を言われるか分からない」という恐れ、「兄は実によくやっている。大したものだ」という人から評価、そして「父から相続する」財産のためでした。神の愛でしか満たされない心のすき間を、人からの評価や富をもって埋めようとするその生き方は、イエスさまが繰り返し、手厳しく批判された「偽善者」の生き方そのものです。

 ここで、イエスさまが口にされた「わたしの天の父の御心」とは、どんな御心だったのか。もうお分かりいただけるでしょう。それは、神の愛です。その愛は、「だれでも」(8節)、すべての人に注がれる愛、無条件の愛です。何かをしたから愛される、そんな愛ではありません。何をしてもしなくても、それに関わりなく、このわたしを大切な、かけがえのない存在として見つめ続けてくださっている愛の御心です。

■愛されているから
 わたしたちは、今までの自分の経験から、愛を受けるには受けるだけの理由をわたしの側に持たなければならない、という思い込みをもって生きています。そんな思いをもって人を憎み、時に同じ思いで自分自身を蔑みます。そして、神もそうに違いないと思い込んで、神に愛されるために一生懸命に頑張ろうとします。しかし、それは大きな間違いです。誤解です。神に愛されるために何かをするのではなく、神に愛されているから愛する。神の愛を信じるからこそ隣人を愛そうとする―それが、クリスチャンとしての、無理のない自然な姿、真の信仰の道なのです。

 聖書が最も大切にする戒め―「律法の中の律法」と呼ばれるモーセの十戒に、「盗んではならない。嘘をついてはならない。姦淫してはならない……」とあります。この戒めもまた、それを守らないと後ろ指を指されるから、そうしなければならない、といった類のものではありません。「十戒」はすべて、直接法の否定形で書かれています。「あなたにはわたしのほかに、ほかの神は存在しない。あなたは殺さない。姦淫しない。盗まない。何となれば、あなたはわたしのものだから」です。「…してはならない」ではありません。神に愛されていることを知り、その愛を信じ、神のものとされた者はもはや、そういうことはできなくなる、「…しない」のです。この戒めは、神が招いていてくださっている愛の呼びかけです。人から、神から褒められたいから盗まないのではない。そうではなくて、神に愛され、隣人を愛するから、盗まないのです。その人を愛するので、その人の物を盗んでその人を悲しませたくない、と思うからです。人に嘘をつかない。それは、その人が大切だから、嘘をついてその人を傷つけたくないからです。

 そのためにわたしたちは、どうしたらよいのか。神の愛に留まり続けることです。愛の御心に触れ続けることしかありません。聖書は、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(1ヨハネ4:19)と教え、信仰生活の大切な順序を、はっきりと示しています。

 神は、わたしに愛を受ける理由があるから、わたしを愛してくださるのではありません。そうしたものがあっても、なくても、愛してくださるお方です。イエスさまが「天の父の御心を行う者だけが…」と問題にされているのは、そのような神の愛、無償で与えられる愛の御心のことです。

 イエスさまは今、「良い木は良い実を結ぶ」と言われます。わたしたちは本当に的を外しやすい者です。ですから、良い木そのものであるイエスさまにつながり続けること、神の愛に留まり続けることです。その愛から「離れないで」、その愛でわたしたちが満たされていくとき、その愛に応えるようと、神を愛する者へと、隣人を大切にし愛する者へと、神の愛の御心を行う者へと、造り変えられていくに違いありません。

お祈りします。愛の主よ、「良い実を結ばない茨やアザミは悪い木だ」と、御子イエスは言われました。しかしその茨やアザミにいのち与え、生かしてくださっているのも、あなたです。わたしたちも、よい実を結ぶことのない、だらしない木です。それでもしかし、あなたの助けをいただいて、厳しい現実を必死に生きて、もしかしたら良い枝を接ぎ木され、いつか白い花を咲かせ、良い実を結ぶかも知れません。ですから、そんなわたしたちをどうか、見捨てず、見守り、導いてください。わたしたちも、ただあなたの愛に縋り、あなたの愛から離れずに歩んでいくことができますよう、わたしたちを支え、導いてください。主の御名によって、アーメン