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5月17日≪復活節第六主日礼拝≫ 『激流が押し寄せてきても』 マタイによる福音書7章24~29節 沖村 裕史 牧師

5月17日≪復活節第六主日礼拝≫ 『激流が押し寄せてきても』 マタイによる福音書7章24~29節 沖村 裕史 牧師

■たとえが意味する現実

 昨年の九月一日から、ご一緒に「山上の説教」を学んで参りました。今日は、その「山上の説教」の最後、締めくくりのみ言葉です。

 この箇所を読むと、いつも思い出します。子どもの時のことです。わたしが暮らしていた町の中心を、有帆川という大きな川が流れています。雨が降り続いた夏の夜のこと、眠りを覚ますサイレンの音が鳴り響きました。外は激しい雨と暗闇で何も見えません。消防団員の父は、身支度を整えると、不安げに見送る母に向かって、心配するな、外に出るな、と短く言うやいなや、激しい雨音と一緒に闇の中へと消えていきました。昼近くになって帰ってきた父の話によると、土手が決壊し、川が氾濫、亡くなった人も出たとのこと。恐る恐る聞いていたわたしは、数日後、友だちと一緒にその土手へ出かけました。驚きました。土手近くにあったはずの家が見当たりません。見れば、数十メートル下流あたりに、壊れた家が、まるで浮かぶように土砂の上に乗り上げていました。その近くの大きな木には、無残に砕けた木切れや泥まみれの家具が纏わりつくように重なっていました。

 息を飲みました。

 イエスさまが言われる通り、家の倒れ方は本当にひどいものでした。

 イエスさまのこのたとえも、イエスさまご自身の実際の経験から出てきた言葉ではなかったでしょうか。

 ユダヤの荒れ野には、雨期の季節だけ水が流れ、雨の降らない乾期にはすっかり干上がって、平らな川床が露わになる「ワディ」と呼ばれる川があります。ユダヤで「川」と言えば、ほとんどがこの「ワディ」、涸れた川です。水の流れている川は数えるほどしかありません。

 乾期のワディは、細かい砂地です。整地された後のように平らです。それだけに、雨期になり豪雨ともなれば、激しい流れが押し寄せます。当時、ユダヤの人々が住んでいた家は「日干し煉瓦」を積み上げ、それを粘土で塗り固めただけのもので、屋根も草を葺(ふ)いた上に粘土を塗っただけの簡単な造りでした。もし、ワディに家を建てれば、粗末で簡素な造りの家はひとたまりもありません。

 それがどれほど危険なことか。荒れ野を知っている人なら、すぐにわかることです。そんなところに家を建てたりはしないでしょう。たとえ「見かけ」は平らで、家を建てやすく、住みやすく思えても、ワディの川床を選ぶことはしません。岩がごろごろ転がって、家を建てるのに手間がかかっても、岩場を選ぶことでしょう。

 だから、そんな危険な「砂の上」ではなく、安全な「岩の上」に、「人生」という「家」を建てなさい、イエスさまはそう教えておられるのだ。誰にでもわかる、実に分かりやすいたとえだ。わたしも、イエスさまの教えに従って、「岩の上」に「家」を建てよう。そう思われたかもしれません。

 しかし「現実」は、それほど単純ではありません。たとえ洪水の危険を知っていても、それでもなお、多くの人が、その平らな場所を選びました。家を建てるのに便利で、交通路としても利用され、地下水が豊富だったからです。古代文明を思い出してください。その多くが、大きな河川流域に誕生しています。なぜか。人々が、何年かに一度起きる大きな氾濫による「いのち」の危険よりも、洪水が運んでくる肥沃な土地による「豊かさ」、そして平らな場所での生活の「便利さ」を求めたからです。「いのち」よりも「生活」の豊かさや便利さを優先し、それを求めて多くの人々が集まり、たくさんの家が建ちました。それが、人の暮らす村や町の姿です。

 それこそ、イエスさまが目にし、生きておられた、このたとえの背後にある「現実」ではなかったでしょうか。

 

■砂の上と岩の上

 そして今も、わたしたちは、そんな「砂の上」に集まり、「自分の家」を建て、「自分の人生」を築こうとしています。

 「砂の上」の「砂」とは、何か。お金、仕事、能力、名声、趣味、健康、人間関係などなど…どれも人生にとって必要なものばかりです。しかし、人生の「本当の保障」にはなり得ません。

 有り余るほどの穀物や財産を倉に収めた後、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」と呟いた金持ちに、神が一言、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と告げられた、イエスさまのたとえ(ルカ12:13~21)にあるように、人生とは、端的に、与えられたいのちを生きること、生かされ生きることでありましょう。

 それなのに、わたしたちは、気づかぬ間に、そうした「砂の上」の人生に、あまりにも価値を置きすぎてしまってはいないでしょうか。それらはやがて、朽ち果て、消えていくものに過ぎません。にもかかわらず、そのようなものに決定的に価値があり、それらの上に人生を築き上げれば、大丈夫だとするような「的外れ」。それこそ、聖書の「罪」の本来の意味なのですが、そんな「的外れ」な営みを続けています。そんなわたしたちを御覧になりながら、それを積み重ねれば重ねるほど、倒れた時、その倒れ方は本当にひどい、イエスさまはそう言われるのです。

 大雨が降り、激流が襲いかかって、家を押し倒すということは、わたしたちの人生にも、しばしば起こることです。「砂の上」に建てようと「岩の上」に建てようと関係ありません。誰もそれを避けることはできません。そうなった時、たとえ外見は同じでも、いざという時になると、その本当の姿が分かる、その正体が見えてくる。誰もが、それぞれに自分の人生という家を建てるのですが、この地上の歩みの中で、様々な試練が襲いかかって来る時、何よりも終りの日に、神の御前に進み出る時、その激流に耐えることができるかどうか。自分の正体を突きつけられることになります。厳粛な人生の分岐点です。

 では、人生を「岩の上」に建てるために、どうすればよいのか。イエスさまは言われます、これに耐えることができるか否かは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か否か、この一点にかかっている、と。

 「わたしのこれらの言葉」とはもちろん、「山上の説教」のことです。その「山上の説教」を締めくくるにあたって、この山の上で語ったわたしの言葉をあなたは実践していますか、わたしの教えをあなたは守っていますか、それともしていませんか。そう問いかけられるのです。

 あなたは「敵を愛していますか」。

 あなたは「あなたに害をなす人のために祈っていますか」

 あなたは「偽善者のように施し、祈ってはいませんか」

 あなたは「神の国と神の義を求めていますか」

 あなたは「思い悩むことなく、父の御心にすべてを委ねていますか」

 あなたは「人を裁いてはいませんか」

 あなたは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしていますか」

 あなたは「求め、探し、門をたたいていますか」

 あなたは「狭い門から入り、細い道を歩いていますか」

 あなたは「天の父の御心を行っていますか」

 こう問われ、自分の心の奥底を覗き込んで、「はい」と答えることのできる人など果たしているでしょうか。とても無理だ、不可能だ、と思わざるを得ません。

 わたしたちは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というこの教えを、どう受け止めるべきなのでしょうか。

 

■山の上の福音

 5章2節から3節、「そこで、イエスは口を開き、教えられた。『心の貧しい人々は、幸いである…』」。

 この山上の説教は、「幸いなるかな」という呼びかけで始められていました。この山の上で語られていた言葉は、律法―戒めの言葉ではなく、福音の言葉でした。祝福の到来を告げる、救いの宣言です。

 とすれば、これを聞くわたしたちが、その恵みをしっかと受けとめ、その恵みが、わたしたちの魂にしっかりと刻まれること、そのことが求められています。「聞いて行う」ということは、驚くべき、この恵みを受け止める、ということ以外にはあり得ません。それは、先週申し上げたように、天の父の御心、神の愛を、わたしたちへの無条件の愛として受けとめ、この愛に応えて、愛に生きようとすることです。

 しかしここで、わたしたちはまた、足がすくんでしまいそうになります。主の愛に応えて生きていくことが、果たして、このわたしにできるのでしょうか。この問いが再び、わたしたちの目の前に立ち塞がります。

 しかし今ここで、イエスさまは、できる、と言われます。イエスさまは、そうできることを信じ、またそれを前提に語っておられます。できると思われるからこそ、これに背いた時には厳しく断罪されることになる、と告げられました。

 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

 「山上の説教」の、最後の最後の、この言葉は、もはや裁きの言葉ではありません。むしろ、わたしたちへの信頼の言葉であり、わたしたちへの揺るぐことのない招きの言葉です。

 だからこそ、イエスさまは「岩」というたとえを用いられたのでした。

 聖書は繰り返し、神を「岩」にたとえています。その一つを、さきほど招詞としてお読みいただきました。その詩編18篇の3節を口語訳で読むと、「主はわが岩…わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩」となります。「主はわが岩」です。それは何よりも、神が、いろいろな試練や苦しみの中、もだえているわたしたちに、岩となって、砦となってくださる、逃れ場となってくださる、ということです。そして、今一つ忘れてならないのは、「主はわが岩」という表現には、岩の蔭にわき出る清水を見いだし、ほっと一息をつく、憩うことができる、そのことが込められています。神は、砦となって守ってくださる方であり、憩いを与えてくださる方なのです。

 だからこそ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(11:28)という、皆さんよくご存じの呼びかけの後に、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:30)と続けられるのです。「わたしの軛」という言葉の中には、わたしたちが思わず足をすくませてしまいそうになる、この「山上の説教」も含まれています。しかしここで、イエスさまは、足がすくみたじろぐわたしたちに、「あなたがたを休ませてあげよう」と言われ、「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」ことこそ、まことの平安を得る道だ、と教えられます。

 とすれば、イエスさまの言葉を聞いて行うことは、可能であるばかりでなく、まことの平安に至る道でもあり、わたしたちを越える、聖霊による、驚くべき豊かな恵みのみ業が、ここに示されているのだ、と申し上げてよいでしょう。

 「聞いて行う」ということは、このことです。

 神の御心を、神の愛を、感謝をもってしっかりと受け止め、今ここにもたらされている聖霊の愛にすべてを委ねて生きなさいということ、これが山上の説教の核心、中心だったのです。

 時に、人生の激流が押し寄せてきて、疲れ果ててしまうでしょう。その都度、わたしたちの心は揺れます。ちょっとしたことが起こっても、それはひどい衝撃となります。涙が出ます。耐えられなくなります。苦しくなります。でも、なぜ涙が出るのでしょう。なぜ涙を流れるままにすることができるのでしょう。わたしたちが、イエスさまを、父なる神を、人生の土台とするのではありません。そうではなく、父なる神が、イエスさまが、わたしたちの人生の土台、岩となってくださるからです。たとえ、わたしたちがどんなに叫んでも、どんなに泣くことがあったとしても、崩れない家、人生としてくださるのです。

 ですから後は、安心して、すべてを委ねて、ご一緒に、イエスさまの言葉に、誠実に応えようと励んで参りたい、そう心から願う次第です。

 

お祈りします。天の父よ、小さな出来事、大きな出来事の中で、わたしたちの心は揺らぎ、歩む足は頼りないものとなります。しかしそこでこそ、あなたを心から呼び求めることができます。あなたが、どんなときにも、わたしたちを支えてくださる土台となると約束くださるからです。あなたの恵み、あなたの愛そのものである、御子キリストの名を、愛を、わたしたちが日々、祈り求めることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン