福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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5月24日≪復活節第七主日礼拝≫ 『御心ならば』 マタイによる福音書8章1~4節 沖村 裕史 牧師

5月24日≪復活節第七主日礼拝≫ 『御心ならば』 マタイによる福音書8章1~4節 沖村 裕史 牧師

■み言葉とみ業
 今朝の出来事を、マルコとルカは数々の奇跡の中のひとつとして描きますが、マタイは、直前までの「山上の説教」と、ここから始まるイエスさまのみ業とを、注意深く繋(つな)げています。
 7章28節から29節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とありました。これに続けて、マタイは「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」と、この章を書き始めます。「山上の説教」の舞台となった、その「山を下りられ」たとき、山の上でイエスさまのみ言葉を聞いていた「群衆が(そのまま、あるいはふたたび、イエスさまに)従った」。明らかに、山の上のみ言葉と山を下りて行われるみ業とを、繋ぎ合わせようとしています。
 そうすることで、イエスさまの力あるみ業を、権威あるイエスさまのみ言葉が目に見える形で現れたものとして描こうとしています。山の上で教えてくださった「父の御心」-神の愛が現実の出来事となった、マタイはそう信じ、今、イエスさまの驚くべきみ業を語り始めます。

■ほら見てごらん!
 その最初のみ業として、マタイが取り上げたのは、「重い皮膚病を患っている人をいやす」と題される、奇跡の出来事でした。
 2節以下、「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り・・・・・・」。
 「すると」とあります。マルコにもルカにもない、マタイの特別な思いが込められている言葉です。直訳すれば、「見よ」。「ほら、見てみなさい!」と訳してよいでしょう。衝撃的な出来事が起こったことを表す言葉です。
 今、重い皮膚病の人がイエスさまに会うために、大勢の群衆のいるそのただ中にやって来た、それは、驚くべく出来事、あり得ないことだった、と言うのです。そして、
 「この人を、ほら、見てごらん!」。
 ここにも、耐えがたい痛みと如何(いかん)ともしがたい苦しみに、人生を覆(おお)われ、人としての歩みを遮(さえぎ)られている人がいる、そうマタイは言います。
 たったひと言、「重い皮膚病」と記されているだけですが、それはまさに、堪(た)えがたい苦しみでした。
 レビ記に、こうあります。
 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(13:45)。
 重い皮膚病を患った人は、自分のことを「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければならず、罪人として、人に近づくことも、触れることも一切許されませんでした。当然のこと、故郷の懐かしい人々からも、親しい友人からも、家族からさえも、見放され、追い払われるようにして、村や町の外で生きる外ありませんでした。
 この「重い皮膚病」の人々と同様の境遇を強いられた、ハンセン病を患ったひとりの人の言葉が、今もわたしの心に突き刺さっています。岡山県にある邑久光明園入園者、中山秋夫の「白い遺言」です。
 「わたしは昭和十四年に入所した。・・・・・・療養所というからには病を養い、癒す所であるはずだが、療養所に初めから火葬場があり、さらに監禁室があり、死亡してからも持ち帰ることのできない骨のための納骨堂があった。(中略)患者は当然死に絶える、誰もいなくなる。そして死に絶えた療養所に骨堂が残る。どこへも行くことの出来なかった骨が残される。これでいいのだろうか。病気は治ったというのに、このような形で清算されていいのだろうか。(中略)日本の敗戦とともに、軍国主義と一つになった強制収容の嵐が終わり、病気が治る時代に入ってもなお、療養所で死んだ者の骨が、家へ帰ることが憚かられなければならないのは、なぜか。そうしたことに国や国民がなんの責任もとらずに、ライ医療(行政)は終った、と言い切れるのは、なぜか。療養所の一角に、骨の収容所が残るという、このことの責任を誰がとるのだろうか。わたしの骨は、そのことを世の中に問う証拠物件として光明園の納骨堂に残ることになるだろう。なぜ、なぜ、そうなのかを、骨になっても、やはりわたしは、問いたいのである。」
 「重い皮膚病を患っていた」この人の苦しみもまた、肉体だけではありません。「汚れた者」というレッテルによる宗教的な断罪、そして何よりも社会的な疎外-三重の苦しみを背負わされ、治療の手立ても、回復する希望もなく、社会から抹殺された、まさに死の世界を生きるほかない人でした。

■「御心ならば」とひれ伏す
 しかし、その彼が、「イエスに近寄り、ひれ伏し」た、とあります。
 これと同じ出来事を記したルカは、この時の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(5:12)と伝えています。「いてはいけない人が、そこにいた」というニュアンスです。本来、いるべく定められた場所を抜け出して、そこにいた、ということです。
 この人は律法に従い、自ら「汚れた者、汚れた者」と叫び、爛(ただ)れた患部を見せながら、人々と接触しないように歩いて来たはずです。時には、石を投げつけられ、汚れた豚のように追われたこともあったでしょう。それほどの辱めと危険を犯して、彼は、イエスさまのところへとやって来ました。
 そして、こう願いました。
 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
 えっ、なぜ、と思わずにはおれません。それほどの苦痛に耐えて、やって来た彼です。「御心ならば」「あなたが願ってくださるのなら」などと言わず、なぜ、ストレートに「主よ、清めてください!」と強く願わなかったのか。
 不安だったのでしょう。これまで、どれほど傷ついてきたことか。それでも、小さな幸せをつかむことができるかもしれない、そう思い、そう期待することもあったでしょう。しかし、そうした期待はいつも、あっという間に奪われ、消えてしまいました。そうしたことの繰り返しでした。期待をすることに臆病になります。もう傷つけられたくありません。このときも、イエスさまだけは、きっと違う、そう期待しながら、でも、もしかしたら・・・・・・、そんな期待と不安で、心は千々に乱れていたことでしょう。
 それでも、それでもなお、彼は、すがるような思いで身を投げ出し、「ひれ伏し」ました。わたしが願ったとしても叶(かな)いはしない。でも、あなたが願ってくださるのであれば、きっと、いや、絶対・・・・・・。
 彼は、「天の父の御心」にすべてを委ねるほかありませんでした。他に道はなかったのです。そんなギリギリのところでの願いと信頼が、この「御心ならば」「ひれ伏し」という言葉となったのです。

■手を差し伸べて、触れて
 この人のギリギリの姿を思うとき、いつも決まって思い出す映画があります。古代ローマを舞台とした『ベン・ハー』です。そこに、「死の谷」と呼ばれる、深い谷の中に暮らす、「重い皮膚病」の人々の姿が描かれています。最低限の食べ物と飲み水だけが、つるべのようなもので、谷底へと届けられます。暗い、昼でも日のさすことのない暗い谷底で、いのちをつなぐその食料を待つ、何人もの人々が手を伸ばし、それを懸命に受け取ります。幾つものその手は、救いを求め、天に向けて、すがるようにして差し出される手のようでした。
 「重い皮膚病」のこの人も、誰からも触れられることもなく、絶望と孤独の闇の中に閉ざされていました。一体どれほどの歳月を、その闇の中に生きていたことでしょう。しかしそれでも、いえ、だからこそ、と言うべきでしょう。彼は、「御心ならば」とすべてを委ね、すがるようにして「ひれ伏し」ました。救いを求めて、たとえ、たとえ届かずとも、天に向けて、その闇の中から懸命に手を伸ばそうとしました。

 そんな深い闇の底へ、一本の手がまっすぐに「差し伸べ」られました。
 そればかりか、差し伸べられたその手が、何のためらいもなく、病んだその肌に「触れ」ました。

 この「伸ばす」という言葉は、「外へ」と「差し出す」という、二つの言葉からなっています。イエスさまは、今、この人の方に向かって、真っ直ぐに手を差し出してくださっています。そして「触る」という言葉にも、「しっかりと結ぶ」という意味があります。さっと撫(な)でるように、いつ触られたかどうかもわからないようにではなく、つかむようにして触れる。
 まっすぐに差し出されたイエスさまのみ手は、つかんでくださるほどにしっかりと、確かな力をもって触れてくださるのです。
 決して誰も触れることのなかった、その崩れた肌に、その手が確かに触れました。憐れみといたわりに満ちた温かい、「愛の手」が触れ、彼をつかんだのです。
 想像してみてください。
 この瞬間、この人はきっとすべてを悟ったにちがいありません。これは、神様のみ手だ。わたしは、こうして触れられるために、生まれ、そして、これまで生かされてきたのだ、と。
 いのちの主である神が、イエスさまのみ手をもって、この人に触れ、体を清め、魂をよみがえらせ、祝福してくださる「幸い」な一瞬です。神は、祝福のために、触れる神でした。山上の説教の、冒頭の「幸いなるかな」というみ言葉と同じ、圧倒的な「幸い」のみ業が、イエス・キリストの伸ばす、そのみ手において、現実のものとなっています。
 今日のこの福音を、「自分なんか、誰からも触れてもらえない」と思い込んでいるわたしたちは、しっかりと聞かなければなりません。

■御心だから
 続く「よろしい。清くなれ」というイエスさまの言葉は、そんなわたしたちへの「福音の宣言」です。
 この「よろしい」とは本来、「わたしの心」「わたしの願い」と訳すべき言葉です。文語訳では、「わが意なり、潔くなれ」となっていました。「あなたが願うなら」と「天の父の御心」を求めるこの人の願いに、「わたしは心から願う。あなたが癒されることを」と、イエスさまが「愛の御心」で応えてくださったのです。わたしたちが癒されることを、救われることを、イエスさまが、父なる神が、御心によって願ってくださるのです。
 神様が願われることは、必ず、実現します。その意味で、この言葉は、ご自分の望みのままに「光あれ」と言われ、「良しとされた」、天地を創造された時の神様の宣言と同じ響きをはらんでいます。イエスさまのこの言葉は、単なる回復、治癒の奇跡というよりは、新たな創造―新しいいのちの、新しい人生の創造の出来事というべきでしょう。驚くべき神の愛が、今ここに、現実のものとなって示されています。
 「爛れた肌」に苦しんでいるのは、この人だけではありません。自らを汚れた存在、誰からも相手にされない存在と思い込んでいる人が、そしてこのわたしが、息をひそめるようにして生きています。しかし、そんな自分でも触れたくない、わが身の最も汚れたところ、わが心の最も醜いところにこそ、イエスさまは手を差し伸べて、触れてくださるのです。
 イエスさまは、そこに触れるために愛の神様から遣わされたお方なのです。触れていただいたそのとき、わたしたちは、自分が神様に触れていただくほどに、価値ある存在であると気づかされ、真に生きるものとされます。人は、愛の神様に触れられて初めて、人となるのです。それはちょうど、赤ん坊が母親に抱きしめられることで安心し、自らの存在意義を信じて生き始めるかのようです。
 ですから、わたしたちもそんな幼な子のように神様に祈りましょう。一握りの信仰とひとかけらの希望を胸にイエスさまのもとへ行き、「あなたが願ってくださるなら、わたしを清くすることがおできになります」と願って、ひざまずきましょう。
 その願いに向かって、イエスさまは手を伸ばしてくださり、「わたしは、願う」と宣言をしてくださるでしょう。そして、わたしたちに触れて、今ここに、新たな創造のみ業が、愛による救いのみ業が実現している、と高らかに宣言してくださるでしょう。

お祈りをいたします。愛の主よ、この国にも、世界にも、不当な差別が続いています。わたしたち自身が、汚れていると思うものを、自分自身さえ、遠ざけることによって、自分の清さを保つことができる、そう考えてしまいます。目の前にある痛みに心を動かすことを止めてしまいます。真実の愛に生き、父なる神の御心とひとつになって、わたしたちの罪を負ってくださった御子キリストの愛のみ業を心に刻むことができますように。わたしたちも、御心ならば、その主の御心に少しでも適って、日々を生きることができますように。主のみ名によって。アーメン