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5月29日 ≪復活節第7主日礼拝≫ 『何が不幸で、何が幸せ?』マタイによる福音書23章13〜24節 沖村裕史 牧師

5月29日 ≪復活節第7主日礼拝≫ 『何が不幸で、何が幸せ?』マタイによる福音書23章13〜24節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■「幸い」と「不幸」

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉が、13節から36節の間に六回も繰り返されます。16節の「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」を含めれば、「七つの不幸」が語られていることになります。

 思えば、イエスさまの福音宣教は5章から7章に記される「山上の説教」から始められました。その冒頭、イエスさまは「心の貧しい人々は…悲しむ人々は…柔和な人々は…義に飢え渇く人々は…憐れみ深い人々は、心の清い人々は…平和を実現する人々は…義のため迫害される人々は、幸いである」と告げ、最初と最後の言葉に「天の国はその人たちのものである」と続けられました。この八つの「幸い」、「祝福の約束」をもって始められた宣教活動が終わりを迎えようとしている今、イエスさまが七つの「不幸」を宣言されます。

 この言葉が語られたのは、過越の祭の時、春の季節でした。ガリラヤ湖畔に集った大勢の人々相手に山上の説教を語られたのも、ちょうどこの季節でした。「不幸」を宣言されるイエスさまの言葉を聞いていた弟子たちと多くの群衆も、山上の説教を聞いて喜びに満たされたその時のことを想い起しながら、イエスさまが宣言される「不幸」の言葉を、訝(いぶか)し気(げ)な表情で聞いていたことでしょう。誰しも、慰めに満ちた言葉、救いの約束だけを聞きたいと願うものです。しかし、豊かな祝福の言葉をもって宣教活動を始められたイエスさまが、寝食を忘れて福音の言葉を語り続けた結果、最後にこの嘆き呻くような不幸の言葉を宣言せざるを得ませんでした。そこに、わたしたち人間の罪の現実が現れていたからです。暗澹たる思いにさせられます。

 しかしそれでもなお、いえ、だからこそ、一体、何が幸せなのか、なぜ、不幸なのかを、考えないわけにはいきません。

 

■ハッピーとラッキー

 聖書に従ってお話しする前に、ご紹介したい一冊の本があります。鷲田清一の『死なないでいる理由』という本です。「消えた幸福論」という章に、こう書かれています。

 「いつごろからだろうか、幸福な気分に包まれたとき、この国のひとびとは「ラッキー」と、Vサインを送るようになった。片手で、そしてもっとハッピーなときには両手で、「今日、なんかついてる」「当ったりぃ」というように。その姿に、幸福もえらく軽くなったものだと、戦中派のひとなどは嘆かわしくおもっているかもしれない。「幸福」と「幸運」、「ハッピー」と「ラッキー」。この二つの外来語は、この国の語感からすれば、あるいは現代人の語感からすれば、意味を異にする。だが、もとをたどれば意味はほとんど重なるらしい。…それが、いつごろからだろうか、かなりニュアンスを異にするものとなった。「グッド・ラック」はたまたま運がよければ訪れるものであるのにたいして、幸福というのはじぶんが努力してたぐりよせるものというイメージが強い。それは、「人生設計」という言葉もあるように、じぶんの存在はじぶんでデザインするものだという近代の思想と深くかかわっているようにおもわれる。そのためには勤勉でなければならぬ、各人が自立した強い存在でなければならぬ、そしてそういうひとだけが幸福に近づける」

 ところが、「いまどきのひとは、ちょっといいことがあるとすぐに「ハッピー」という。じぶんのこの小さな幸福には、歴史も社会も関係がない。たまたま今日は運がよかっただけのことだ、といわんばかりに、だ。…幸福のイメージが、「歴史」、つまりは他者たちとの共同生活の来し方行く末につながらないで、「わたし」ひとりの小さな幸福をしか思い描けなくなった…。それは、人間が幸福になるためにつくった生産装置や社会組織が、ひとりの人間の想像力を超えてはたらきだすようになって、ひとはもはやじぶんの生活のあるべき姿ですら、じぶんひとりのイマジネーションではまとめ上げることができなくなったからではないか。だから、ハッピーはラッキーになる」

 幸福のイメージを思い描くことの大切さを語った上で、こう続けます。

 「そのためには「生きる」ということがまず肯定されていなければならない。生きる理由(動機ではない)がないときにでも、それでも死なずに、生きている、生きつづけるのはどうしてか。生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いのほかむずかしい。そのとき、死への恐れははたらいても、倫理ははたらかない。生きるということが楽しいものであることの幸福な経験、そういう人生への肯定が底にないと、死なないでいることをひとは肯定できないものだ。そういう生の肯定はしかし、浮遊する孤立的な生のなかでは不可能である。「いいんだよ、おまえはそのままで」―。じぶんがこのままで他者によって肯定されることに渇くひとびと、そういう他者による(条件つきのではない)肯定。そういう他者による〈存在〉の贈与に、ひとは焦がれだしているのかもしれない」

 いかがでしょうか。「あなたのままでいい」「あなたがいてくれて嬉しい」と互いを受け入れ合うことが、幸福のイメージにとってとても大切だと言います。その通りだと思います。しかし、そうしようとしてそうすることがなかなかできないのがわたしたちの現実です。であればこそ、人や自分がどうあろうと、いわば絶対的他者としての神様による「無条件での肯定」と、神様による〈存在〉の贈与、存在の根拠としての「いのちを与えられているということ」が、幸福、幸せを考えるための大切な前提になるのではないでしょうか。この鷲見の言葉を心に留めて、今日のみ言葉を味わってみたいと思います。

 

■なぜ不幸なのか

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」

 「天の国」。そこは、死んでから行く場所ではなく、「神様の支配」のことです。イエスさまが、「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られた福音とは、「神のご支配が、神様の御手が、今ここにもたらされ、差し出されている。だから、今までの生きる向きを変えて、神様の支配を受け入れ、神様の御手にお委ねするように」というメッセージでした。ところが、律法学者やファリサイ派の人々は、人々の前で天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない、と言われます。

 天の国は、わたしたちの努力や行いによってもたらされるのではありません。わたしたちは、神様によっていのち与えられ、そのいのちを生かされ生きています。そのいのちゆえに、誰であれすべてのひとが神様に愛されています。その神様の愛ゆえに、天の国の扉は、すべての人に開かれているのです。鷲見の言う、「無条件の肯定」「〈存在〉―いのちの贈与」です。

 それなのに、律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちのように律法のすべてを正しく守り、厳格に行っている者だけに、天の国の扉は開かれ、救いはもたらされると信じ、教えていました。鷲見の言う「幸福というのはじぶんが努力してたぐりよせるもの」ということです。彼ら自身、そう信じ、教えることによって、自分たちだけでなく、人々が今ここにもたらされている天の国を受け入れる道をも閉ざし、神様の支配を、神様の御手が今ここにさしだされていることを認めない、認めさせないのです。そのことを指して、彼らは「不幸であり、災いだ」、と深く嘆き、呻くようにしてイエスさまは言われたのです。

 続く15節も同じです。

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」

 熱心がいけない、余り熱心にならずにほどほどが良いというのではありません。問題は、熱心さが何のためのものか、どこに向かっているのかということです。パウロが「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(ガラテヤ6:13)と言っているように、彼らの熱心さは、ただ自分を誇るため、自分の業績を上げるためでした。改宗者を得ることは、人々を救いに導くためでもなく、ただ改宗者を得ること自体が目的となっていました。そうして改宗者が出ると、自分よりも倍も悪い地獄の子にする、その熱心さが不幸なのです。

 今日でも、熱心に自分の仲間にしようとして努力をし、情報をコントロールし、洗脳して、自分よりも輪をかけて手に負えないような地獄の子にしてしまうような事例を、わたしたちは知っています。宗教だけでなく、家庭、地域、学校、会社、国、世界の至る所で、見聞きすることです。

 

■天の国から遠ざける行為

 こう読んでみると、この「偽善者」という言葉は、単なる「演技する」という本来の意味合いとは、些か異なっているように思われます。

 「演技者」「俳優」であれば、人から見られることを意識して、信仰的な振りをすることを非難しておられると考えることもできます。しかしここでは、自己矛盾をもたらしていることが問題とされているように思えます。極めて真面目に律法に従い、熱心に信仰に生きていると思っているし、人々からもそう見られていた本人たち自身、意識的に演技をしているつもりなどさらさらなく、そこに生じている矛盾に気づいていなかったのではないでしょうか。律法が本来意図していることと、自分たちの律法解釈に基づいて信じ、行い、教えていることとの間に矛盾が、本末転倒が生じていることに気づいていないのです。

 そうであればこそ、「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」という言葉に続くことになるのでしょう。自分が迷うだけでは済まず、隣人をも誤りへと導くところに大きな不幸があるのです。

 その具体的な例が語られていきます。ひとつは誓いについてです。

 「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」

 神殿の黄金とは、神様に捧げられた物です。その黄金にかけて誓いをしたら、必ず果たさなければならない。でも神殿という建物それ自体は、人間が建てたものだから、それにかけて誓うならば、果たさなくても大丈夫。何か分かったような、分からないような理屈です。続く、祭壇と祭壇の供え物も同じです。

 実際に、彼らがこう教えていたかどうかは分からないと、現代の聖書学者たちは口を揃えて言います。ここでイエスさまは、誰が聞いても何か変、どこかおかしいと思うような理屈を、敢えて語ることで、律法学者、ファリサイ派の人々の本末転倒、自己矛盾を際立たせています。

 そして最後の一つ、捧げ物についてです。

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」

 確かに、律法では土地の産物の十分の一を捧げることが求められていました。薄荷(はっか)、いのんど、茴(うい)香(きょう)(クミン)というのは香辛料の類です。ただ律法には、このような小さい物まで十分の一を捧げるという規定はありません。それでも、彼らは細かい物まで徹底して十分の一を捧げていました。

 律法の重箱の隅を突くようなことをしながら、的を外した彼らの信仰、生き様をご覧になって、イエスさまは「不幸だ、災いだ」と言っておられます。

 では、的を外さない、本末転倒にならないための、律法の的、神様の御心とは何でしょうか。それこそが「正義、慈悲、誠実」、神様の「義、慈しみ、真実」でした。

 

■何が不幸で、何が幸いなのかを知るために

 律法学者、ファリサイ派の人々は「ものが見えない」がゆえに、自分たちの罪、自己矛盾に気づいていません。むしろ、いつの間にか自分が善人であり、信仰深い者であるかのように勘違いしています。

 では、なぜ、彼らは勘違いするのか。神様の御心を知らないからだ、とイエスさまは言われます。神様との生きた関係があれば、そうした生き方には決してならない。本当に恐れるお方を恐れていたら、人の目からは自由にされるはずです。安心して生きることができます。人の目を気にし、人の目にどのようにしたら大きく映るのかを考えて生活している彼らには、神様が見えていないのです。神様の「義と慈しみと真実をないがしろにして」、たとえ、どんなに真面目に、熱心に、律法に基づいた信仰生活を過ごそうとしても、信仰の的が、御心が全く分かっていないのです。だから不幸だと言われるのです。

 宗教改革者のマルティン・ルターの妻ケイティの話です。ある朝、ケイティは喪服を着て夫ルターの前に現れました。驚いたルターは「誰が亡くなったのか」と訊くと、彼女は「あなたの神が亡くなったのです」と答えたそうです。ルターは「馬鹿なことを言うな。神が死なれるわけがないじゃないか」と言うと、彼女は「神が生きおられるなら、なぜあなたは神が死んでいるかのように振舞うの」と返したそうです。

 神様は生きて働いておられるのです。もし生きて働いておられ、わたしたち一人ひとりに深い関心を持ち、愛してくださっている神様を心から信じていたら、わたしたちの生き方は本当に変わってくるのではないでしょうか。

 詩篇18編でダビデは歌います。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」と。ダビデは「主は生きておられる。そのことを心から信じていますか」と、この詩篇を通して訴えています。そして本当にそのことが分かったら、見えてくるものがあります。それは、何が本当に不幸で、そして何が幸いなのか、です。不幸とは、わたしたちをあるがままに肯定し、わたしたちにいのち与えてくださった神様の「義と愛と真実」を見失い、自分だけを見つめることです。幸せとは、神様の「義度合いと真実」をこそ見つめ、信頼し、自分が自分がという強迫観念から自由になることです。今、わたしたちは、神様の「義と愛と真実」にお委ねするという、そういう幸いの道を選び取るようにとイエスさまから招かれているのです。