福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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5月30日 ≪聖霊降臨節第2主日/三位一体主日礼拝≫ 『いとおしい』マタイによる福音書14章13~21節 沖村裕史 牧師

5月30日 ≪聖霊降臨節第2主日/三位一体主日礼拝≫ 『いとおしい』マタイによる福音書14章13~21節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   来たれ全能の主 (H.ウィラン)
讃美歌   3 (1,3,5節)
招 詞   イザヤ書35章3~4節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   340 (1,3,5節,頌栄)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書14章13~21節 (新28p.)
讃美歌   198 (1,4節)
説 教   「いとおしい」 沖村 裕史
祈 祷
献 金   64
主の祈り  
報 告
讃美歌   549 (2,4節)
祝 祷
後 奏   来たれ聖霊よ (北澤  憩)

 

 

≪説 教≫

■深く憐れみ

 「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所へ退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」

 イエスさまが舟に乗って、どこかへと行こうとされているらしいことを聞きつけた人々が、イエスさまを求めて殺到します。イエスさまを追いかけます。マタイは「歩いて後を追った」と書いていますが、マルコによる福音書には「駆けつけ」とあります。舟に乗ったイエスさまの姿を、必死に追いかけたのでしょう。ガリラヤ湖の岸伝いに小走りに、息もあがって、ハアハアと言いながら、汗だくになって追いかけたことでしょう。救いを求める人々の必死な姿を見て、

 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」

 9章36節の、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という言葉が思い出されます。そんなガリラヤの人々を、イエスさまが今、「深く憐れ」んでくださいます。

 「深く憐れみ」。この言葉こそ、わたしたちの「救い」に関わる、大切な言葉です。

 わたしたちの誰もが、飼い主のいない羊のようになるときがあります。飼い主のいない羊とは「死」を意味します。羊は目が悪く、遠くを見ることができません。足も決して速くはありません。獣に襲われれば、たやすく殺されてしまう弱い生き物です。その身を守り、導いてくれる飼い主がいなければ、羊はすぐに死んでしまうでしょう。だからこそ、飼い主のいない羊は、いのちがけで飼い主を求めなければなりません。

 ここに描かれる、飼い主を求める人々の姿を、もう一度、想像してみてください。長血を患った女や愛する娘を失った会堂長の必死の姿によって神の深い憐れみが引き出されたように(9:16-26)、ここでも、汗まみれ、埃まみれで、必死になって追いかけて来た人々を見たとき、イエスさまから深い憐れみがあふれ出ます。ほっとけない。ほっといたら、この人たちは傷つき、死んでしまう。魂の叫び声に触れて、イエスさまの中から深い憐れみが引き出されます。

 憐れみとは、単なる同情ではありません。心の底から、存在の根源から湧き出る、相手の本当の幸せを願わずにはいられず、いとおしい、いとおしくて、とてもほっとけないという、そんな気持ちです。そもそも「憐れむ」という字には、「愛する」という字があてられます。憐れむとは、愛することです。そして、「憐れむ」と書いて、「いとほし」と読むことがあります。「いとほし」とは、相手がつらく苦しいであろうと思って、見かねる気持ちを言います。わたしたちは、愛する人が苦しんでいるのを見ると、いてもたってもいられない、とてもほっとけない、そんな気持ちになります。それが、「憐れむ」であり、「いとおしい」です。

 

■憐みを引き出す

 こどもたち、特に思春期の真っただ中にいる青少年に接すれば接するほど感じることですが、こどもたちはほんとうに傷つきやすく、弱い存在です。なぜなら、彼らには、家庭と学校以外に、どこにも逃げ場がない、居場所がないからです。家庭と学校がこどもたちの居場所でなくなったとき、彼らは、彼らの心は簡単に死んでしまいます。一昔前までは、地域社会がこどもを守ってくれていましたが、今はそれを望むべくもありません。

 7年前、関西学院大学神学部創立125周年記念講演で、東京大学名誉教授であり、当時、聖学院大学学長であったカン・サンジュ先生が、「現代のわたしたちは、35年前の1979年、25年前の1989年以降の世界を生きている。…その時には気付かなかったことであるが、35年前にイギリスの首相であったサッチャーが『もはや私たちの世界には社会は存在しない、存在するのは個人だけである』と語った、そんな時代を今も生きている」と言われた言葉が重なってきます。

 こどもたちだけではありません。わたしたち大人たちでさえ、どこにも逃げ場、居場所がない、そう感じてしまうことが少なくありません。人と人とのつながりが、絆が失われてしまっています。そんなとき、たとえどんなに突っ張っていても、いえ、むしろそうであればあるほど、弱く、そして救いを求めています。弱ければ弱いほど、飼い主を必要としているのです。

 「ああ、このこどもたちは、これから大変な人生を生きていくんだ。でも試練を乗り越え、本当に幸せになってもらいたい。そのために何でもしてあげたい」

 そんな親心が、こどもたちのはしゃいでいる姿、とんがっている姿、ひとりうつむいている姿を見ていると、自分の中から引き出されてくるのを感じます。そして、わたしなんかでもそうなのだから、ましてや、いのちの主である神なら、と思わずにはおれません。

 イエスさまの「深い憐れみ」がどれほどのものなのか、イエスさま以外には誰にもわかりません。けれども、こんなわたしからでも、そんな憐れみの心が出てきます。人間ですらそうなのですから、ましてや天の父は、人間なんかとはくらべものにならない、想像もつかないほどの深い憐れみを持ってくださるはずです。それも、弱ければ弱いほど、憐れみも増すはずです。

 相手の弱さ、足りなさに触れると、いとおしくて、いとおしくて、ほっとけない気持ちになる。それは上から目線の同情ではなく、何とも言えない、あったかい気持ち。立派な強い人に会っても決して出てこない気持ち、それが憐れみです。弱さとか足りなさこそが、あったかいものをいっぱい引き出します。その意味では、こどもは自分が弱いことを知っていますから、「助けて」と言って飼い主を追いかけますが、大人になればなるほど、自分で何とかしようとします。また、そうするように求められます。でも自分でがんばっていると、どこからも「深い憐れみ」が出てきません。深い憐れみは引き出さなければなりません。素直に、ちっぽけな知識や経験に頼らず、自分の全存在をかけるほどの思いを持って助けを求め、神の憐れみを引き出さなければなりません。

 わたしもいつか、弱さも足りなさも極まって身動きとれないようなときになったら、何はなくとも、ともかくイエスさまの姿だけは見失うまいと縋るようにして追いかけたい。実際に体が動かなくても、魂の世界ではどこまでも追いかけたい。そうして、イエスさまの傍まで行って、イエスさまのお顔を仰ぎ見て、イエスさまと目が合ったとき、きっと、こんなわたしのような者にも、神からの深い憐れみが溢れ出てくることだろう、そう思えます。

 

■あなたがたが与えなさい

 そんな深い憐みをもって、イエスさまは時の過ぎるのも忘れて、病をいやされ、福音を語りかけられました。いつしか陽も傾き、夕暮れが近づいていました。弟子たちがイエスさまにこう声を掛けます。

 「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」

 もう「夕暮れになっ」ていました。しかも、「人里離れた所」、「荒れ果てた、孤独な、人に見捨てられた」ような場所です。弟子たちは、群衆を「解散させる」ように、とイエスさまに言います。

 今、弟子たちが問題にしているのは、食ベ物の有無(あるなし)ではなく、食ベる物の調達の方法についてです。ここに、人々の飢餓に対する緊迫した危機感と言ったものは感じられません。「そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」とあるように、自分たちで食べ物を買いに行くことができることを前提にしています。弟子たちの発言は、もっともな意見、当然の配慮に思えます。後は、それぞれの自己責任で、問題を解決させればよいではないか、と弟子たちは言います。

 ところが、イエスさまにとって、人々をそのまま放り出すことは、牧者であることの放棄以外の何ものでありませんでした。弟子たちにイエスさまはお答えになります、

 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」

 原文は「与えなさい」で始まっています。また「あなたがたが」という言葉が強調されています。直訳すれば「与えなさい、他の誰でもないあなたがたが、彼らに、食べるために」となります。イエスさまは弟子たちに、他の誰でもないあなたがたが、今ここに救いを求めて殺到してきている、あの大勢の群衆を養いなさい、彼らに必要なものを与えなさい、とお命じになります。

 イエスさまは、個人の問題、自己責任という言葉で、人と人との絆を、関係を断ち切るのではなく、むしろ、それを取り戻そうとされます。そして、「行かせることはない。わたしが与えよう」とは言われず、「与えなさい、あなたがたが」と、与えることを弟子たちに、わたしたちに強く求められるのです。

 なぜか。それこそが、天の国を今ここにもたらすことだったからです。

 しかし、弟子たちには、イエスさまの言われることの意味が理解できません。

 「弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません』」

 何を言われるのですか、不可能です、そんなことできません、と弟子たちは答えます。弟子たちは、イエスさまの姿―イエスさまが語られる天の国の福音に目を向けようとせず、ただ、目に見える現実だけ、自分のことだけに、心を向けています。

 

■愛の扉が開くとき

 そのとき、イエスさまが一筋の爽やかな風、ガリラヤの風を吹き込まれます。

 イエスさまはまず、「『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じにな」ります。マルコでは、「皆を組に分けて、青草の上に座」わるように命じられたと記されています。

 「草の上」「緑の草の上」です。

 そこは、「人里離れた所」「寂しい所」であったはずです。それは「荒野」を意味する言葉です。創世記冒頭の「混沌」カオスに通ずる、何の実りももたらさない「荒野」が、今、「緑の草の上」に変わるのです。「緑」は新緑の薄緑色。「草」は「囲われた放牧場」から転じた、家畜の餌となる「草」のことです。いのち溢れる、芽吹いたばかりの青々とした牧草地がそこに広がっています。「飼い主のいない羊たち」のような群衆の姿が、今や、イエスさまの下で、いのち溢れる、生き生きとした群れへと変わります。

 この姿こそが、今朝の出来事のクライマックスでした。

 それは、支配と被支配、上と下、強いものと弱いもの、大きいものと小さいもの、清いものと穢れたものにバラバラに分断する、この世的な垣根がすべて取り去られた、終わりの日の、天の国での「祝宴」の光景そのものです。

 晴れやかな食事のときに、家の主(あるじ)がするように、イエスさまは人々を食事へと導かれます。あの最後の晩餐のときにパンを裂かれた場面を思い起こさせます。感謝と賛美の祈りをささげつつ、わずかばかりの食ベ物を分け配られたとき、そこに驚くべきことが起こりました。

 「女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」と記される、実に雑多で、様々な違いと格差を抱えているであろう多くの人々が、まるで「ひとつの家族」のように共に食事をし、「すべての人が食べて満腹した」のです。

 まさに奇跡です。しかしそれは、パンと魚が無限に増えたという意味の奇跡ではありません。そのときそこに集まっていた人々の、「弱り果て、打ちひしがれた」、闇の中に閉ざされていた心が打ち破られ、変えられたことこそ、奇跡でした。そしてそれこそが、天の国が今ここにもたらされている、神の愛の御手が今ここに差し出されていることのしるし、福音でした。イエスさまが、憐れみ、いとおしんでくだった人々に示し、与えてくださったもの、それこそ、天の国そのものでした。

 弟子たちの姿はわたしたちの姿です。弟子たちの発言はこの世の常識そのものです。しかしイエスさまは言われました、「あなたがたが食べ物をあげなさい」。これは、人の耳には不思議に、また愚かなものに聞こえるでしょう。しかし、神の世界、天の国では当たり前のことなのです。

 事実、地球は何億年もそうしていのちを育んできました。神が分け与えてくださっている愛は、決して尽きることがありません。ところが、もうダメだ、限界だとわたしたちが考え、恐れたとき、神の尽きることのない愛が閉ざされてしまいます。イエスさまのみもとで愛の言葉を聞いて、みんながひとつになっている、その喜びの集いを解散させるなんてとんでもない。天の父が集められたこの友を、天の父が養ってくださるのは当然のことだ。さあ、ここで、みんなで食べようと、イエスさまがパンを手にするときこそ、あふれるほどの愛の扉が開くときなのです。

 マザー・テレサの言葉が思い出されます。「わたしたちは死にゆく人々にパンを与えます。なぜなら、彼らが飢えて死ぬのは、パンのためだけでなく、愛のためでもあるからです。彼らにパンを手渡すとき、わたしたちは彼らに愛を与えています」。

 弟子たちがイエスさまの言う通りにすると、全員食べて満腹しました。これこそ、天の国です。それがもう実現しているのです。

 この世には、「もう無理」「ここまで」ということがいくらでもあります。けれども、天の国はその先にあるのです。そんな天の国に憧れて、教会が建てられ、守られてきました。わたしたちも決してあきらめず、限りない力を信じ、尽きることない愛に触れ、そこから惜しみなくいただきましょう。 イエスさまを追い求めるわたしたちを、神はいとおしんでくださいます。そして、わたしたちにも天の国を示してくださり、わたしたちにも小さな天の国のために働くようにと招いてくださいます。感謝して、家庭で、職場で、学校で、地域で、そしてわたしたちのこの教会で、ご一緒に小さな天の国を証しすることができればと願う次第です。