福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月12日 ≪聖霊降臨第2主日/こどもの日・花の日「家族」礼拝≫『いっしょに!』 『一緒に喜びなさい』フィリピの信徒への手紙2章12〜18節 沖村裕史 牧師

6月12日 ≪聖霊降臨第2主日/こどもの日・花の日「家族」礼拝≫『いっしょに!』 『一緒に喜びなさい』フィリピの信徒への手紙2章12〜18節 沖村裕史 牧師

お話し【こども・おとな】『いっしょに!』

 5月のある日、ひとりの男の子が生まれました。予定より三ヶ月も早く生れたその子は、他の赤ちゃんの半分にもならない944グラム、両手の中に入ってしまいそうなほどの、小さな、小さな赤ちゃんでした。お医者さんはおかあさんに言いました、「いのちがもつか、まず三日ほど待ってください」。保育器の中で、サランラップを巻かれ、管を何本もつけられた、今にも消えてなくなってしまいそうな小さないのち。でも生まれて三日、その小さな心臓は動き続けました。それが凛太郎くんでした。

 凛太郎くんは、体が小さくて、弱かったので、何年も病院に行かなければなりませんでした。頭を強く打つと危険だから注意するように、命取りになるから風邪やインフルエンザには気をつけてください、お医者さんからそう言われながらも、凛太郎くんは四歳になりました。

 教会の幼稚園に入った凛太郎くん。優しい先生たちに見守られて、幸せな二年間を過ごしました。その頃、凛太郎くんはテレビや絵本で俳句という詩があることを知りました。誰が教えたわけでもないのに、気づけば凛太郎くんは、五・七・五の十七文字で詩をつくるようになりました。凛太郎くんの口から次々と溢れだす十七文字を、おかあさんとおばあちゃんは驚きながら、うれし涙を流しながら、ノートに書き留めていきました。

 さて、幼稚園を卒園する頃には、凛太郎くんの体もようやくみんなとおなじくらいにまで大きくなりましたが、足や腕の力は弱いままで、目も悪かったため、交通事故にあわないようにと家族と一緒に学校に行くことになりました。ランドセルを背負う凛太郎くんの後姿を見て、おかあさんは、ここまで育ってくれたことを喜び、神様に感謝をしました。

 ところが、学校で思わぬ目にあうことになります。いじめです。

 凛太郎くんは足が弱かったで、ぎごちない歩き方でした。バランスを取るため、両手をひらひらとさせながら歩くのを、「オバケみたい」とからかう子どもがいました。それからというもの、朝、学校に行くと、「凛がきたあ!」と友だちが教室の戸を閉めて、中に入れてもらえません。ようやく入れてもらえたところで、寄ってたかって、手でつついたり、足をひっかけたり、腕を雑巾を絞るようにして後ろからねじ上げたりして、凛太郎くんがこけたり、泣いたりするのを笑うのです。「凛ちゃん、いじめられて毎日泣いてる。見てられへん」と女の子がある日、おかあさんにそっと教えてくれました。

 入学して一週間目。突然、後ろから突き飛ばされて顔を強く打ち、目が開けられないほどに腫れました。迎えに行って驚いたおかあさんに、担任の先生は、「一人でこけました」と言います。凛太郎くんは勇気を振り絞って言いました、「違うよ、後ろから誰かに突き飛ばされたんや。あんまり痛かったから起き上がれずにいたら、誰かは分からへんけど、女の子が職員室に先生を呼びに言ってくれたんや」。でも、担任の先生は何もなかったことにしました。

 そんなことが何度も続きました。

 おかあさんと一緒にお風呂に入った時、お腹に大きく真っ青な跡を見つけて、おかあさんは悲鳴をあげました。もう少し上なら腎臓。腎臓の弱い凛太郎くんにとっては、いのちの危険があるところです。「どうしたん?」とおかあさんが尋ねます。すると「男の子に突き飛ばされて椅子の角で腰を打った」と凛太郎くん。そのことを、すぐに担任の先生に伝えましたが、「その男の子は自分ではないと言っています。周りの子にも聞きましたが、誰かやったのか分かりません」。

 心配でたまらなくなったおばあちゃんが、ある日、担任の先生とお話をすることになりました。でも、先生はただ黙って下を向いて、おばあちゃんの話を聞くだけ。三十分も経った頃、担任の先生はようやく顔を上げ、初めておばあちゃんと目を合わせ、こう言いました。「凛太郎さんも鉛筆を落としたり、時間割を教えてもらったり、周りに迷惑かけてます」。

 それからしばらくたった日曜日の夜、凛太郎くんが初めておかあさんに訴えました。「僕、学校に行きたくない。友だちが僕の顔を見るたびに空手チョップするねん。僕、机の下に隠れるねん」。心配をかけまいと、決して弱音を言わなかった凛太郎くんの初めての訴えでした。おかあさんとおばあちゃんは、いっしょうけんめいに学校にお願いをしました。でも、光が見えないまま一学期が終わりました。そして二学期に入っても、何も変わりませんでした。

 「先生は、僕がいじめられてる言うても、“してない、してない”言うて、全然言うこと聞いてくれへん」。二年生の秋を迎える頃、凛太郎くんは学校に行かないことにしました。その時、凛太郎くんはほっとした顔をして、まじめな顔でこうつぶやきました。「学校って残酷なところやなあ」。

 その後も、いじめは続きました。友だちの体がさらに大きくなる連れて、小さいままの凛太郎くんへのいじめはますますひどくなっていました。「もう、学校をやめる」。そう凛太郎くんが宣言したのは五年生の時のことでした。

 見るのも嫌になった学校でしたが、凛太郎くんが「一番好き」という友だちがいました。同じクラスのヒロシくんです。祭りの日、凛太郎くんとおかあさんとおばあちゃんと三人で見物に行った時のことです。はっぴ姿で、綱を持って走る子どもたちの中から「凛ちゃん!」という声が聞こえてきます。見るとヒロシくんです。ヒロシくんはおみこしから離れて、見物している凛太郎くんのそばに駆け寄って来て、声をかけてくれました。

 「凛ちゃん、また、学校に来て。いっしょに遊ぼう!」

 「いっしょに」という言葉に胸が熱くなりました。おばあちゃんはヒロシくんを抱きしめていました。(『ランドセル俳人の五・七・五』小林凛、ブックマン社より)

 「いっしょに!」

 いい言葉ですね。今日は、こどもの日・花の日のお礼拝です。みんなの前に、お花がいっぱいに飾ってあります。このたくさんの花には、いろんな色や形があって、ひとつとして同じものはないけれど、どれもみんなきれいです。いえ、違っているからこそ、とてもきれいだとは思いませんか。神様がそうしてくださったのです。だから、みんなも違っていいのです。違っているからこそ、みんな素敵なのです。神様が、イエスさまがどんなときにも、いつも「いっしょに」いてくださいます。だから、みんなも違っているままに、「いっしょに」仲良く遊んでほしい、心からそう思います。

 

説教【おとな】「一緒に喜びなさい」

■苦難の時

 八歳、九歳の少年が詠んだとはとても思えない、小林凛太朗君の俳句があります。

 『冬蜘蛛が 糸にからまる 受難かな』

 『捨てられし 菜のはな 瓶でよみがえり』

 苦難の内にも希望を秘めた、とても印象深い俳句です。
 
 今日の手紙を書いたパウロの生涯もまた、労苦の連続でした。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」(2コリント11:23)と告白しています。フィリピの教会の人々との交わりの中で、苦労してきた甲斐があったと思えたその時、パウロは捕らえられ、この手紙を牢獄の中から書いています。死刑になるかもしれません。こんなにも苦労し、それなのに何の実りもないとすれば、誰であっても落胆して、無力感に囚われてしまうでしょう。ところが、パウロはこれまでの人生を振り返って、「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかった」(2:16)、苦しみの連続であったこの生涯が決して無駄でなかった、と逆に、フィリピの人々を励まします。

 わたしたちも、大喜びではしゃぎまわり、手放しで喜んでいる時もあれば、時として、深く沈み込み、自分を考えて何のために生きてきたのだろうと、この人生に意味はあったのかと、絶望し、ふさぎこんでしまうことがあります。そんなわたしたちに、今、パウロはこう語りかけます。

 わたしたちの人生に、いのちに無駄、無意味ということはない。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(2:13)。神様が、わたしたちにこのいのちと人生をお与えてくださって、どのような時にも共にいてくださる。

 だから、今この苦難の時にも、「一緒に喜びなさい」と。

 

■星のように

 パウロは今、理不尽な仕打ちによっていのちの危機に晒されていました。それなのに、わたしと一緒に喜びなさい、とパウロは言います。どうして喜ぶことなどできるというのでしょうか。

 パウロは、神様が「あなたがたの内に働いて」おられる、神様がいつも一緒におられる、そう語りながら、小さく弱いわたしたちが、本当の喜びに満ちて生きる道を指し示そうとします。それこそ、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」(2:14-15)ことのできる道である、と教えます。

 さきほどのこども祝福式の中で、皆さんとご一緒にお読みいただいた言葉です。「あなたがたは清い神の子となり、この世に輝く星のようになりなさい」。パウロは、今、わたしたちが「世にあって星のように輝く」(2:15)、わたしたちの誰にも、この世に光をもたらすことができる、と言います。

 本当でしょうか。わたしたちにそんなことができるのでしょうか。わたしたちはしばしば、自分が深い闇の中にあると感じ、その闇の中でもがきながら、光を探し求めている、そんな存在です。そんなわたしたちが周囲を照らす光となることなどできるのだろうか。誰もが自分に問うはずです。

 その問いに預言者イザヤはこう答えました。

 「主があなたのとこしえの光となりあなたの神があなたの輝きとなられる」(60:19)

 わたしたちの光は、太陽の光ではありません。太陽は自ら光ります。「星のように」といっても、わたしたちは自ら光る星ではなく、太陽の光を反射して光る月のようなものです。星はいつも夜空に輝いています。あたりが冷たく暗ければ暗いほど、その光は道行く旅人を導きます。本当に世の闇を照らすことができるのは、神様から照らされる光以外にはありえません。月が太陽の光を借りて、その反射の光を地上に投げかけるように、そして今ここに飾られている花が神様によっていのちを与えられて、色とりどりの美しさを持つように、わたくしたち一人ひとりが輝くとすれば、それは神様からくる光を反射しているからです。

 光の源である神様にしっかりと向き合っていれば、わたしたちがその光に照らされていることがよく分かるはずです。時に、自らの中に、また周囲に深い闇を感じるわたしたちですが、そのわたしたちが、心から神様からの光を探し求めるとき、神様の光、愛の光によってわたしたちが輝いていることがよく分かります。

 わたしたちの生きるこの世界もまた、光を求めています。パウロがフィリピの人々に語っているように、わたしたちにもこの世界にもたらす喜ばしい務めを与えられています。ところが、わたしたちは周囲を照らすことではなく、自分を輝かせることばかりを考えてしまいます。そのために逆に、周囲に闇をもたらしてしまうこともしばしばです。わたしたちが周囲の人々に、居心地のよい暖かさを感じるような春の光をもたらすものになれるなら、なんと喜ばしいことでしょう。

 そうなるために、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。パウロはその秘訣をわたしたちに教えてくれています、「一緒に喜びなさい」と。

 

■生きる力、喜びの言葉

 「一緒に遊ぼう」「一緒に始めよう」「一緒に生きていこう」

 誰かから「一緒に」と言われると、ただそれだけで、嬉しくなります。小さな頃から、なんでも「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」と言われて育ってきたわたしたちは、「一緒に」と言ってくれる人がそばにいることに励まされます。小さな頃から、いつでも自分は仲間はずれで、忘れられていると感じて育ったわたしは、「一緒に」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、もうちょっと頑張れそうな気がしてきます。「一緒に」は、とても嬉しいだけでなく、とても安心させてくれる言葉です。

 でも、現代は「一緒」が苦手な時代です。一見、なんでも横並びで「みんな一緒」という気分に満ちているようでいて、それが実は、心からの「一緒」でないことは、さきほどの凛太朗君の話のように、だれもが知っています。

 本当の「一緒」は、思いやりがあり、忍耐強く、だからこそ安心なのです。

 よい親は「こうしなさい」「ああしちゃいけない」と、高みから言いません。「一緒にやってみよう」「お母さんも我慢するから、あなたも守ってね」と、一緒の場所で言葉をかけます。

 よい教師は「さあ、ここまでこい」「何でそんなことができないんだ」と、教壇の前の方から叫んだりしません。「一緒に歩いていこう」「おれも背負うから、おまえも頑張れ」と、一緒に、むしろ後ろの方から背中を押すようにして励まします。

 よいリーダーは「これに従え」「守れないものは去れ」と、特別席から命じたりしません。「一緒なら、きっとうまくいく」「一緒にやることに意味がある」と、自分から一緒の輪の中に入って鼓舞します。

 だから、「一緒」という言葉で、わたしたちは生きる力を与えられ、喜びに満たされるのです。

 

■愛の言葉

 思えば、人は、一緒にいるように創られているし、一緒にいるときに一番うれしくなるように定められていました。旧約聖書の創世記によれば、神様は初めひとりの人間を創造されましたが、やがてこう言われました。

 「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助け手をつくろう」(2:18)

 そして、もうひとりの人間を創造し、二人を一緒にいるようにした、とあります。つまり、人は互いにとって「一緒にいるべき助け手」なのです。

 時に、夫婦なのに、家族なのに、友だちなのに、一緒にいてもちっとも助けてくれない、そう感じることがあるかもしれません。でも、よく考えてみましょう。一緒にいること自体が、すでに助けなのだとは思われないでしょうか。独りでいることは、自分のためだけに生きることは、神様が照らしてくださっている愛の光をさえぎって、冷たい闇の中で生きるようなものです。この世で、人から言われて一番うれしい言葉のひとつは、間違いなく、「あなたと一緒にいたい」「あなたと一緒でうれしい」です。

 「一緒に喜びなさい!」

 パウロが告げるこの言葉こそ、わたしたちにいのち与えてくださった神様からの光であり、愛の言葉です。神様は、愛の光を照らし、わたしたちをその光で輝かせようとしていてくださっています。わたしたちが、たとえどのような者であったとしても、またどのようなときにあっても、いえ、惨めで、悲しくて、辛いときにこそ、輝いてほしいと心から願ってくださっているのです。

 だからこそ、いのちの終わりを思わざるを得ないほどの苦難の時にあってなお、パウロはわたしたちにこう呼びかけ、今日のみ言葉を閉じました。

 「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。