福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月13日 ≪聖霊降臨節第4主日/こどもの日・花の日合同礼拝≫ 『なんどでも、やり直せる!』ルカによる福音書19章1~10節 沖村裕史 牧師

6月13日 ≪聖霊降臨節第4主日/こどもの日・花の日合同礼拝≫ 『なんどでも、やり直せる!』ルカによる福音書19章1~10節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   かみさまのあいは (佐久間 彪)
リタニー  (別紙)
讃美歌   60(1,2/こ58)
聖 書   ルカによる福音書19章1~10節 (新146p.)
お話し   「なんどでも、やり直せる!」 沖村 裕史
お祈り
献 金   65-1
祝福式   (省略)
讃美歌   470(1,3/こ114)           こども退場
説 教   「なんどでも、やり直せる!」(続き) 沖村 裕史
祈 祷
報 告
讃美歌   448(1,4)
祝 祷
後 奏   やさしい目が (小山 章三)

 

≪お話し(こどもとおとな)≫

■優しい目

 教会の保育園のお庭には、いろんな草や花、木が植えられていました。その木や草が生えている根っこの土を、こどもたちがほじくり返しています。ゆりちゃん、そらくん、すみれちゃん、うみくん。いつも一緒の四人組です。そこに園長先生がやって来ます。そのことにも気づかず、一生懸命、土を掘っています。「何をしているの?」って聞くと、みんな一斉に「ダンゴ虫を探してる!」。

 とても楽しそうだったその四人の姿を思い出しながら、園長先生、お礼拝の時間にこんなお話をしました。

 「お庭には、本当にたくさんのいのちがあるよね。虫や木や花、草や小鳥やウサギたち。そのいのちは、そしてみんなのいのちも、神様がくださったものなんだ。だから、神様はみんなのことが大好き。だから、どのいのちもみんな、とてもとても大切なんだよね!」

 その後が、さあ大変。こどもたちが次から次へといろんな虫や花や草を大切そうに持ってきます。「園長先生、いのちがあるよ!」「このいのちは何?」と聞いてきます。ゆりちゃんが持ってきたのは、きれいな白い百合。そらくんが持ってきたのは、青空のように青い羽の蝶々。すみれちゃんが持ってきたのは、小さくて可憐なすみれ。うみくんが持ってきたのは、海の中を泳いでいるようにくねくねと動く大きなみみず。

 四人のこどもたちが、小さないのちを大切そうに差し出すその小さな手がとてもかわいくて、園長先生、思わず祈りました。このこどもたちにいのちをくださってありがとうございます。ひとつとして同じものはないけれど、いのちはどれも、みんな、とても美しい。神様、ありがとうございます、って。

 でも、そんな仲良し四人組でも、ときどき喧嘩をしてしまうことがあります。ある日のこと、「そらくんが三輪車を代わってくれない」と言って泣いているこどもがいます。どうも、ゆりちゃんのようです。その声を聞いたひとりの先生が泣いているゆりちゃんのそばにやってきました。すみれちゃんも心配そうに先生のそばに立っています。先生が「どうしたの」って聞くと、ゆりちゃんはもっと大きな声になって泣きだします。すみれちゃんは、そらくん男の子なんだから、すこし女の子にやさしくすればいいのに、と呟いています。三輪車で近くまで来たうみくんは、男とか関係ないよ、そらくんが三輪車を交代交代で使えばいいじゃないか、と言いたそうな顔で見ています。

 こんな時、みなさんだったらどうしますか。「どうしたの?泣いてばかりじゃ、分かんないじゃないの」と泣くのを止めさせて、泣いた原因を聞きだし、悪いことをしたこどもに謝らせて、その場を収めようとはしないでしょうか。どうするのかなって見ていると、先生、腰を屈(かが)めてゆりちゃんを優しく見つめます。「泣かないで」と言うのかなって思ってると、「そうだね。悲しかったんだよね」と言って、泣いてるゆりちゃんをしっかりと抱きしめました。

 これを見ていた園長先生は感動しました。なぜって、けんかを解決することや、泣くのをやめさせることよりも何よりも、泣くことで、分かってと訴えっている、ゆりちゃんの悔しい、悲しい思いをしっかりと受け止めてくださっている、そう思えたからです。しっかりと抱きしめてもらったゆりちゃんは、次第に落ち着きを取り戻し、少し笑(え)みもこぼれ始めます。

 実はこのとき、その様子を遠くから心配そうに見ている、もうひとりの子がいました。そらくんです。「まずい、泣かしちゃった。きっと叱られる!」

 そんなそらくんに気づいた先生、そらくんを呼んで「交代交代で、遊びなさい!」と叱るのかなって思っていたら、何も言いません。ときどき、そらくんに優しい目を向けるだけです。と、そらくん、意を決したように、ゆりちゃんと先生のところに近づいて来て、三輪車を突き出しました。そして「また後で、交代…」と小さく言って、うみくんの方へ走って行きました。ゆりちゃんは少し驚いたようでしたが、にっこり笑って「ありがとう。また後で!」。園長先生も、神様、ありがとうございますって、またお祈りをしました。

 

■神さまの子として

 さて、エリコっていう町に、みんなから「大キライ」って言われていた人がいました。その人の名前はザアカイ。「ザアカイって、知ってる?」「知ってるさ。あの背が低くて、みんなから税金をしぼり取って、自分はズルして余計にお金を集めて、お金持ちになって、いばっているやつだろう。あんなやつ、大キライさ!」なんて言われていました。ザアカイは、ローマという強い国の王さまから、「ユダヤの人たちから、ローマで使うお金をいっぱい集めてこい」って命令され、言われるままに税金を取り立てていました。だから、ザアカイが「おはよう」って挨拶したり、「今日はいいお天気ですね」なんて言っても、みんな知らん顔。それどころか、「あっ、ザアカイだ」って言って、逃げるようにして避けて行きます。

 ザアカイは、お金がたくさんあっても、一人もともだちがいません。いつもひとりぼっちでした。普段は、そんなこと気にもしていないような涼しい顔をしていましたが、本当はとても淋しくて、心の中は悲しさでいっぱいでした。

 ある日、町中の人が大騒ぎをしています。「ねえみんな、聞いたかい。このエリコの町に、イエスさまがいらっしゃるんですって」。「何々、イエスさまが…」。ザアカイは「イエスさまってどんな方だろう。会ってみたいなあ。病気の人を治したり、困っている人や悲しんでいる人を慰めたり、助けたりしてるって聞いたけど」「でも、ぼくみたいな『のけもの』の嫌われ者は、相手にしてくれないかも」「お金があっても、本当は寂しくって、苦しくって…。誰か、ぼくのことを心から思ってくれる人がほしい。何でも話せる、ともだちがほしい。たくさんの人を救ってくださっているイエスさまだったら、もしからしたら…。イエスさまに会ってみたい」、心からそう思いました。

 大勢の人たちがイエスさまを見ようと押しかけます。ザアカイは、背が低かったし、嫌われていたので、イエスさまが見えるところまで行けそうにありません。「あっ、あそこにちょうどいい具合に、いちじく桑の木がある。あれに登って、高いところから一目だけでも見てみよう」と思い、急いでその木に登りました。

 「間に合った」と思ったとたん、その木の下で、なんとイエスさまが足を止め、ザアカイを見上げ、「ザアカイ、急いで木から降りてきなさい。あなたのおうちに泊まらせてほしい」、そう言われるではありませんか。ザアカイは、もううれしくて、うれしくて、たまりません。イエスさまは、ザアカイといっしょに食事をされました。エリコの町で、まるでヘビやサソリのように嫌われているザアカイを、イエスさまは、ご自分のともだち、「神さまの子」として接してくださったのです。こうして、ザアカイは生まれ変わりました。持ってるお金を貧しい人にあげて、だまし取っていた人には何倍にもして返しました。こうしてザアカイは、新しい一歩を歩み出したのでした。

 わたしたちも、悪いことした、失敗したと思うことが何度もあります。仲間はずれにされたり、誤解されたり、悪口を言われたりしたこともあります。でも大丈夫。なぜって、神様が、そんなわたしたちを優しく見つめ、しっかりと抱き締めてくださっているからです。だから、わたしたちは何度でもやり直せます。

 

お祈りします。天の神様。どうか、これからもわたしたちの傍にいて見守っていてください。ともだちと仲良くできるよう、いつも抱き締めていてください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

≪説教(おとな)≫

■三つ子の魂

 「三つ子の魂、百まで」という諺があります。小さな子どもの時に身についたものは、死ぬまで消えることはないと言います。「氏(うじ)より育ち」とも言われます。どんな育てられ方をしたかが、その人の個性を決めるのだということです。

 わたしたち人間は、生理学的には、1年ほど早産で生まれているのだそうです。しかしそれが神の知恵です。早産による未熟さがむしろ、精神の発達を促し、他の動物とは比べ物にならない知的な動物として育つのだそうです。当然、生まれてからの10か月は、胎内にいる10か月と同じように大切に保護される必要があります。この20か月の間に、基本的な人間形成がなされるからです。

 エリクソンという学者によれば、赤ちゃんは生まれて8か月から10か月までに基本的な信頼と不信を身につけるそうです。たとえば、赤ちゃんは言葉や認識が発達していないので、お腹が減ると「お腹が減った」と考えることはできず、何か自分の存在が消えていくような不安に支配されることになります。だから泣きます。そこでお母さんが授乳をしてくれると、またいのちが活性化してくるように感じ、お母さんに対して基本的な信頼を持つようになるというわけです。しかし、どんなに赤ちゃんを愛しているお母さんでも、赤ちゃんの求めに応えてばかりいるわけにはいきません。忙しくて、手が離せない時もあります。そんな時、泣いても応えてくれないお母さんに赤ちゃんは不信感を持ちます。こうして、基本的信頼と基本的不信が深い記憶の世界で育っていくのだと言います。

 どんなに優しいお母さんでも、赤ちゃんに100パーセントの基本的信頼を与えることはできません。それでも、60~80パーセントの基本的信頼を持つことができた赤ちゃんは健やかに育っていきますが、40~60パーセントの基本的信頼しか育てられなかった赤ちゃんは、その後の生活次第で、性格的な問題で苦労し、何か大きな誘発要因で心にダメージを受けやすくなります。20~40パーセントの基本的信頼しか育てられなかった赤ちゃんは、その後の生活で、小さな衝撃でも心に傷を受けやすく、心の病気を起こしやすいのだと言います。

 さて、わずか10ヶ月までにわたしたちの人格が決定されてしまうのだとすると、わたしたちは自分の性格を分析しながら、ただ自分の親や自分の境遇を恨み、責め、諦めるほかなくなります。しかし最近の研究で、6歳から12歳の頃、いわゆる学童期の親の態度によって修正が可能なのだそうです。この機会を逃した人には、12歳から25歳までの青年期に、自分で学習することによって自分を変えることができるのだそうです。では、25歳をとうに過ぎてしまっているわたしたちには、生まれ変わることのできるチャンスはないのかでしょうか。

 

■小さな芽

 生まれ変わることはできる。人生はやり直せる。そう教えてくれるのが、さきほどのザアカイの話です。

 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」

 イエスさまから声をかけられたザアカイの喜びは、いかほどだったでしょうか。ところが、それとは対照的に、実に冷ややかな周囲の人々のまなざしが、イエスさまとザァカイの背中に刺さります。

 「これを見た人々は皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』」

 この様子を見ていたすべての人々がつぶやきます。怒りました。当然のことです。しかし、ザアカイは屈しません。

 「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」

 このザアカイの言葉―「施します、返します」は、未来に向けての決意の言葉のように思われます。しかし、原語のギリシア語では現在形を取っているため、「施しています、返しています」とも訳せます。つまり、彼はこのとき、心ひそかに新しい生き方を始めようとしていたのだとも言えるでしょう。これは、変わりはじめている自分を、イエスさまに聴いてほしくて語られた言葉だとも考えられます。このザアカイの「変化」―「やり直したい」という思いを聞いたイエスさまは、心から喜んでくださっています。

 「今日、救いがこの家を訪れた!」

 それでも、きっと周囲の人々は喜びません。どうせ三日ももちはしない。きっと、またいずれ狡猾なザアカイに戻ることだろうと、人々は冷静にその様子を見ていたに違いありません。

 他人の変化に意地悪に対応する人の心情も分かるような気がします。なぜなら、その人もきっと幾度となく傷ついたことがあるのです。今度こそ変わってくれる、今度こそこの人は生まれ変わってくれる、と何度も隣人に期待して、裏切られた過去があるはずだからです。もう傷つきたくないので、下手な期待はかけない。変わる!と叫ぶ人を、自分を突き放して眺める習性がおのずと身についていくものです。

 しかし、イエスさまは違います。たとえそれが、将来どのような形になろうとも、たとえ明日にはあっけなく挫折しようとも、その変化への思いが心に芽生えたこと自体、かけがえがなく、貴い、とイエスさまは見なされます。

 「変化」という名の、いちじくの小さな芽を見つけても、ぬか喜びはやめよう。傷つくのは嫌だから。大きくなって実がついて、がぶりと食べてから安心して喜ぼうとする、わたしたちです。そういう他者への視線は、もちろん自分自身にも向けられます。変わり始めたぐらいで喜んじゃ、駄目だ。結果を出さなきゃあ…と突っ張るわたしたちに、イエスさまは、微笑みながら近づいてくださいます。そして「どんなに小さな芽でも、たとえまた枯れても、芽が出たことがすごいことだ!」と耳元で囁いてくださるのです。

 本当に変われるかどうかはひとまず別として、です。

 わたしたちの「芽」そのものを、それほど無条件に喜んでくれる方がいるということが、限りなく挫折をしてきたわたしたちにとっては、涙ぐむほどに嬉しい筈です。きっとザアカイも同じように、たまらなく腹の底から嬉しかったのだろう、と思います。

 誰かひとりでも自分のことを愛し、理解してくれていると思うとき、わたしたちは生まれ変われるのです。イエスさまが、「この人もアブラハムの子なのだから」と言われた時、イエスさまは、ザアカイの心の中に「善く生きたい」という願いがあることを見抜いておられたのです。

 豊かさに恵まれ、平然とした顔をしていても、「わたしには見えているよ、あなたのことが!あなたの小さな芽が!」というそんな暖かい一声を、だれもが、本当は心の底でひたすら待っているのではないでしょうか。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という、まっすぐな神様のみ声を待っているのではないでしょうか。

 なぜなら、そのひと言で、わたしたちは何度でもやり直せるからです。

 

お祈りします。愛の神よ。すべてのものを造り、いのちを与えてくださったあなたは、わたしたちが新しく生まれ変わることを心から喜んでくださり、深い慈しみの内に育み、一人ひとりを美しく咲かせてくださいます。どうか、わたしたちもこの花のように、こどもたちを、家族を、そして隣人を慰め、喜ばせることのできる者としてくださいますように。主のみ名によって。アーメン。