福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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6月14日 ≪聖霊降臨節第三主日/こどもの日・花の日家族礼拝≫ 『かみさま、みーつけた!』使徒言行録17章22~28節 沖村裕史 牧師

6月14日 ≪聖霊降臨節第三主日/こどもの日・花の日家族礼拝≫ 『かみさま、みーつけた!』使徒言行録17章22~28節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫  午前10時15分
黙  祷
リタニー  (別紙)
讃 美 歌  こどもさんびか115 (別紙)
聖  書  使徒言行録17章22~28節
お 話 し  「かみさま、みーつけた!」
お 祈 り
献  金  65-1
祝 福 式  (こどものための祝福の祈り。別紙)
讃 美 歌  470/こども退場
説  教  「かみさま、みーつけた!」 (続き)
祈  祷
報  告
讃 美 歌  533
黙  祷

≪説教≫
【こどもとおとなのためのお話し】
 学校からの帰り道、こどもたちの遊び場になっている広場がありました。家にも帰らず、ランドセルをそのあたりにほうり投げ、ランニングシャツ一枚になったぼくたちは、ゆうぐれになるまで、時が過ぎるのも忘れてむちゅうで遊びました。いつも時間を気にしながら、能率(のうりつ)が悪(わる)い、効率(こうりつ)に問題(もんだい)があると、時間にしばられているおとなと違って、こどもは時間にとらわれることがありません。
 ある日、ひとりの子が大きな声で呼びかけます。
 「かくれんぼするもの、よっといで!」
 みんなが、わっと、そのまわりに集まって、
 「じゃんけん、ほい!」
 「あー、まけた。ぼくがオニだ。じゃ、かぞえるよ。いーち、にーい、さーん、しー、ごー、ろーく・・・」
 広場のすみにある大きな木に寄りかかり、腕に顔をふせ、目を閉じて、二十まで数えます。そして、
 「もーいいーかい!」
 大きな声で呼びかけます。
 「まーだだよ。」
 後ろの方から、みんなの声が聞こえてきます。少し待ってからもう一度、
 「もーいいーかい!」
 「もーいいよー」
 遠くから、小さくみんなの声が聞こえてきました。顔を上げ、目を開き、広場の方を向いて、あたりをじーっとみわたします。声が聞こえてきたと思える方角に、
 (ぼくだったらきっとここに隠れる・・・)
 そうけんとうをつけて、近づきます。あっ、音がする。
 「しゅうくん、みーつけた! 」
 そうして、隠れているみんなを、ひとりひとり探し出します。さいごの二、三人をなかなか見つけられないでいると、先に見つけられたこどもたちがそっと目であいずをして、教えてくれます。
 「さっちゃん、みーつけた! さっちゃんがさいごだ。」
 さっちゃんは、少しほこらしげです。
 「じゃこんどは、しゅうくんがオニだよ。」
 「うん。じゃかぞえるよ。いーち、にーい、さーん…」
 こうして、かくれんぼうはえんえんと続きます。少し日がかげり始めて、ようやくさいごのかくれんぼになりました。
 (よーし、ぜったい見つからないところに隠れるぞ!)
 広場から少し離れたところある、小さな物置小屋の中にもぐり込(こ)みました。わくわくどきどきしながら、見つけられるのを待ちました。じっーと待ちました。いつまでも、待ち続けました。
 しかし、待っても待っても、だれも来ません。見つけてくれません。
 (どうしたんだろう・・・。さっきまで聞こえていたみんなの声がしなくなったみたい・・・)
 不安になったぼくは、ようすを見ようと小屋の戸を開こうとしました・・・が、何かに引っかかって、開(あ)きません。押しても、引いても、たたいても、びくともしません。あたりはだんだん暗くなってきます。こわくなったぼくは、
 「おーい。ぼくはここだよ。だれか、ここから出してよー!」
 大きな声で助けを求めますが、だれの声もしません。力つき、ただ泣くほかありませんでした。どれだけ時間が過ぎたでしょうか。たいした時間ではなかったかもしれません。でも、こどものぼくには、恐ろしく長く感じました。
 もうだれも、ぼくがここにいること、気づいてくれないんじゃないか。もう二度とここから抜け出せないじゃないか。また涙があふれてきました。
 そのときのことです。
 「おーい、ひろしー! 」
 ぼくを捜している声です。
 「ここだよー、ここだよー」
 必死に叫びます。小屋の戸を力いっぱいたたき続けました。ガタガタ、ガタガタ、小屋の扉が開くと、そこにはかいちゅう電灯を持った父が立っていました。
 「ひろし、何やってる。母さん、すごく心配してるぞ。でも、まあ、見つかってよかった。もう泣くな!」
 そう言って、涙でぐちゃぐちゃになったぼくの顔を手ぬぐいでふくと、ひょいと抱きかかえてくれました。
 それは、「みーつけた」と言って、見つけてもらえることのうれしさを、心の底から味わい知った瞬間(しゅんかん)でした。
 一人ぼっちで、だれも、自分のことなんか見てくれていない、そう思って、とても寂しくなったり、悲しくなったりしたことはありませんか。でも、だいじょうぶ。どんなときにも、だれがいなくても、たった一人、「みーつけた」と言って、見つけ出してくれる人がいます。もうだめだとあきらめて、泣くよりほかないぼくたちのことを、何度も何度も「みーつけた」と言っては見つけ出してくださって、もう泣くなかなくていいよ、と抱き上げてくれる人がいます。それが、かみさまです。
 みんなも、そんなかみさまを「みーつけた」と見つけることができたら、なんて幸せでしょう。「みて!みて!」といつも声をかけ、おいのりすることができたら、どんなに安心でしょうね。
お祈りします。かみさま、このお花たちにいのちをあたえ、こんなにきれいに咲かせてくださって、ありがとうございます。そして、ぼくたちにこのいのちをくださって、「みーつけた!」といって見つけ出し、いつも見守ってくださって、ありがとうございます。イエスさまのおなまえによっておいのりします。アーメン。

【おとなたちへの説教】
 さきほど、「みんなも、そんな神さまを『みーつけた』と見つけることができたら、なんて幸せでしょう」と申し上げました。
 何かを一生懸命に探して、それを見つけたときの喜び。それは、わたしたちちが生きる上で、とても大切なものです。わたしたち人間は、大切な何かを探すように定められていて、大切な何かを探すこと、それ自体が、わたしたちの生まれながらの喜びです。
 たとえば、「いつまでも愛している」「きみのことが大好きだよ」と言ってくれる、深い愛。たとえば、「きっといいことがある」「だいじょうぶだよ」と励ましてくれる、闇の中に射し込む光のような言葉。たとえば、「今のままでいいんだよ」「生まれてくれてありがとう」と言われて気づく、自分の大切さ。いのちのこと。神の国のこと、などなど。
 そんなものありえない、ありっこないよと言うことは簡単です。しかし、わたしたちは探さずにはおれません。それはきっと、もうすでに見えているのに、信じなければ、決して見えないものなのかもしれません。それは、世の初めから隠されているけれど、求めるものは必ず受け、探すものは、必ずいつの日か見つけることができる。それを目のあたりにしたそのとき、わたしたちは、もてる最高の笑顔で叫ぶことになることでしょう、「あった!」、「神さま、みーつけた! 」と。
 二千年前、パウロが、イエスさまの後ろ姿を追いかけ、死も恐れず地中海を三度にもわたって旅し、遠くローマにまで出かけたのも、そのためでした。
 今パウロは、あなたたちが知らないで拝んでいるものを教えよう、と言って、わたしたちにいのちと生きることの本当の意味を与えてくださった神のことを、アテネの人たちに解き明かします。
 24節「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」
神は、この世界を創り、すべてのものにいのちを与えてくださったお方です。そのいのちゆえに、いわば神の作品であるすべてのものを愛してくださいます。その愛ゆえに、神はすべての恵みの源です。パウロが別の町で語っているように、「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(使徒14:17)。
 またここで、パウロが、ひとりの人からあらゆる民族が創り出された、と言っているのは、自分たちギリシア人は特別な起源を持つ、だれよりも立派な人種だという誇りを持っていたアテネの人たちへ、その間違いを教え諭そうとするものでした。神は、すべての人の神であるばかりではなく、時代を越え、国境をも越え、すべての人にいのちをお与えくださるお方です。
 そのことは、神が、わたしたち人間を超えられる方であることを示すとともに、かえってそれゆえに、わたしたちにとって神の存在が近くなり、すべての人々に探し求められるお方であることを意味します。
 神は、すべての人に平等に、すべての歴史―どの時代にも、神でおられます。ですから、およそ生きとし生けるすべての人は、「神の中に生き、動き、存在する」(28節)のであって、「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられ」(27節)ないのです。
 では、なぜ、知ることのできる神が「知られざる神」になったのでしょうか。なぜ、知らないではおれないほど近くにおられる神を、人々は知らずにいるのでしょうか。
 それは、二つの罪ゆえだ、とパウロは語ります。
 第一の罪は、人々が的はずれの方向に神を探り求める罪、手で神殿をこしらえたり、手当たりしだいに祭壇を祀ったり、金・銀・宝石の像を刻んだりする無駄骨ばかり折ってきた。つまり、神でないもの(人間や科学技術)を神(絶対のもの)としてしまうという罪です。それが偶像礼拝の罪です。
 第二の罪は、的はずれの捜査ばかりして、本当の神を「探り求め」ようとする意欲も努力も持たない罪、その必要を感じない罪です。自己満足、自己中心の罪とも言えるでしょう。
 この二重の罪のために、「探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなの」(27節)に、「探り求め」もしないし、求めても見当はずれに終わる、という結果になったのです。まことの神は、知ることのできる神です。しかしそれは、「探り求め」ようとするならば、です。
 このとき人は、こう反論するかもしれません。神が、全世界の造り主、全歴史の支配者、全人類の父ならば、なぜ、いっそ、「探り求め」なくても、神が知られるように人間を造らなかったのか、と。
 しかし、それは、人間を物のように、操り人形のように造ってくれ、ということにほかなりません。信じるということ、信仰とは、神と人との親しい、人格的な交わりのことです。礼拝は、人として自分から自然に、ありがとうございます、と感謝をささげる営みです。神を信じ、神を礼拝するということは、どうしても、神の側からの一方的な自己啓示とは別に、わたしたち人間の側からの人格的で、自覚的な応答が必要なのです。
 ただ人は、そのことを的はずれに行ってきましたし、探し求め続けることを忘れてしまいました。それが、不信と疑い、不安とエゴイズムに覆われた現代の様々な不毛な対立と争いをもたらす原因です。今こそ、「みーつけた」と言ってくださる神との人格的な出会いを通して、「あった」という大きな喜びに満たされ、神の「愛」へと生きる向きを変えることそが求められています。
 今日は、花の日・こどもの日。この美しい花の中に示される、そして今日ここに集まっておられるすべてのこどもたち、ご家族一人ひとりの中に示される、神の大きな愛と恵みに気づかされて、「神さま、みーつけた」と喜びにあふれ、「それぞれの場で、しかし共に」礼拝を守ることができる幸せを感謝したいと思います。
お祈りします。神よ、この花のように、わたしたちの心を生かしてください。神よ、この花のように、わたしたちも人々を慰めるものとならせてください。神よ、この花のように、わたしたちもあなたを讃美するものとならせてください。神よ、わたしたちを憐れんでください。神よ、わたしたちの祈りをお聞きください。どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、わたしたちに平和をおあたえくださるように。コロナウィルスによって苦しんでいる人、コロナウィルスの危険の中で隣人のいのちのために戦っておられる人を支え、励ましてください。今も世界中には、戦争や災害、圧政や差別、貧困や病気のために苦しんでいる、多くのあなたのこどもがいます。どうぞ、その一人ひとりを見つけ出し、また出会い、救いのみ手を差し伸べてください。主の御名によって祈ります。アーメン