福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月19日 ≪聖霊降臨第3主日礼拝≫ 『愛という名の…』 マタイによる福音書23章25〜39節 沖村裕史 牧師

6月19日 ≪聖霊降臨第3主日礼拝≫ 『愛という名の…』 マタイによる福音書23章25〜39節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■外と内

 23章から25章は、十字架の受難を目前にしたイエスさまの教え、「遺言」のようなものです。その冒頭23章に繰り返される言葉が、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ」という言葉でした。「不幸だ」、ウーアイという呻くような嘆きの言葉が今日も繰り返されます。25節から26節、

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」

 ここで問題になっているのは、衛生上のことではなく、どのような器が宗教的な意味で汚れており、どのようなものが清いのかということです。ファリサイ派の人々にとってそれは、あくまでも器の外側に関わるものでした。それら清い器の中に入れられるものが、たとえ、悪辣な手段で手に入れたものであっても、あるいは、自分の貪欲な欲望を満たすためのものであったとしても、器そのものが汚れていなければ、何の問題にもなりません。律法学者、ファリサイ派の人々にとって大切なのは、人の目にどう映るか、外面でした。

 しかしイエスさまは、「外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦に満ちている…内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」と言われます。

 さらに続きます。27節から28節、

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようなあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」

 当時は土葬でした。墓の中で遺体は腐敗します。死体は不浄とされていたので、仮に墓に触れたり、足が付いたりすれば、その人の体も汚れると考えられていました。そこで、ユダヤの人々は、過越の祭のときなど大勢の人々がエルサレムにやって来るとき、誤って墓に触れて汚れることのないよう、その時期、路傍の墓をみな白く塗りました。春の日の光を受けて白く輝く墓は、当時の美しい風物の一つであったとさえ言われます。がしかし、その美しさとは裏腹に、内は死体や骨に満ちていました。そんな墓の有様とユダヤ教の指導者たちの姿が似ている、とイエスさまは言われます。

 イエスさまは今、外面を重んじて内面を問うことをしない、偽善を問題にしておられます。どんなに外面の形式や装いを整えたとしても、内面がそれとは裏腹に「強欲と放縦で満ちている」、見せかけだけのものであることを手厳しく批判しておられるのです。

 そうした外面へのこだわりは、外面によって内面をごまかすことができるという思いから生まれてくるものです。それは、内面を何もかもすべてご存じのお方、神の目を些かも意識せずに、日々を過ごしているということに他なりません。神の目は内面をことごとく明らかにします。その内面が、「強欲と放縦で満ち」、「死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と言われます。他人事ではありません。生ける神の目を畏れる日々がどれほど厳しいものであることか、そう思わずにはおれません。しかしそのことはまた、外面によってしか人を判断しない世間の目が、たとえ、わたしをどれほど悪意に満ちて判断し、誤解することがあったとしても、内面のすべてをご存じの神の目はわたしを正しく理解し、わたしを一切の誤解から守ってくださるのですから、生ける神の目こそが実は、慰めに満ちた確かな歩みを、わたしたちに約束するものであることを忘れてはならないでしょう。

 

■黒い罪の血

 そして最後、七つ目の嘆きの言葉が語られます。29節から30節、

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う」

 死んだ預言者の墓を建てたり、正しい人たちの記念碑を飾り立てたりすることを、イエスさまはなぜ非難されるのか。むしろ、よいことではないのでしょうか。たとえば、預言者イザヤは鋸(のこぎり)でひかれて死んだと言われ、エレミヤは石打ちにされたと伝えられています。彼らがその墓を建てたり、記念碑を飾り立てたりするのは、その償(つぐな)いのためでした。償いの礼拝堂と呼ばれて聖者崇拝が行われることもあったようです。ヘブライ人への手紙11章32節以下に、「他の人にあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄され…石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩く」経験をした、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことが語られています。彼らが、先祖の犯した罪の償いとして墓を建て、記念碑を飾り立てるとは、実に感心なことだ、と人々の目には写ったはずです。

 しかしイエスさまは、彼らが墓を建て、記念碑をつくって、「もしも、(わたしたちが)先祖たちの時代に生きていたら、殺人者の側、罪なき人の血を流す側にはつかなかっただろう」と自慢している、そこに彼らの偽善が露わになっている、と言われます。

 この言葉は十字架の死の直前に語られたものです。「殺人者の側、罪なき人の血を流す側にはつかなかっただろう」と嘯(うそぶ)く彼らが、今まさに、罪のない正しい人、預言者中の預言者であったイエス・キリストを十字架につけて殺そうとしています。その偽善が、彼らがあの祖先の子孫であることを証明している。彼らの中には、預言者を殺した先祖の黒い罪の血が流れている、とイエスさまは言われます。

 イエスさまの告発と嘆きは頂点に達します。32節から33節、

 「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」

 

■わたしたちもまた

 しかしこれほどまでに、十字架を目前にイエスさまが「不幸だ」と激しい言葉を語り、さらに締め括りとして34節から38節の言葉を語られるのは、ただ律法学者やファリサイ派の人々を批難し、裁くためではありません。そうではなく、幸いと災い、いのちと滅びの決断をなおも迫り、悔い改めを期待しておられたからです。35節から36節、

 「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」

 アベルは、創世記4章に記される、カインによって殺害された兄の名前です。人類最初の殺人事件の犠牲者です。それに続いて「バラキアの子ゼカルヤの血に至るまで」とあります。ユダヤ教の聖書の最初には、わたしたちの聖書と同じように「創世記」が置かれていますが、最後に置かれていたのは「歴代誌」でした。その歴代誌下に登場してくる罪なき犠牲者が、24章20節以下に出てくるゼカルヤでした。こう記されています。

 「神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。『神はこう言われる。「なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる」』。ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した」

 ゼカルヤは、神殿の庭で神の言葉を民に大胆に伝えたために、石で殺されました。罪なくして血を流した最初の犠牲者はアベルであり、ユダヤ教の聖書の最後の文書であった歴代誌下に出てくる最後の人物がゼカルヤでした。歴史の最初から最後まで、ということです。その間に流された罪なき人々の血、その死について、律法学者やファリサイ派の人々は無関係でないどころか、責任がある、とイエスさまは言われるのです。責任があるのに、あたかも自分たちこそ、罪のない正しい人であるかのように考えたり振る舞ったりしている彼らの偽善を批判し、その上でなお、悔い改めを求めておられるのです。

 律法学者やファリサイ派の人々は、大真面目に信仰の演技を繰り返していました。大真面目で、よいことをしているつもりで、偽善を重ねていました。わたしたちはどうでしょうか。戦時中の日本人の犯した罪について、今週、創立記念日を迎える日本基督教団の過ちと罪について、わたしたちはそれと似たような感じ方をしてはいないでしょうか。アジアの各地を旅する中で、あるいはアジアから来られた多くの方から、戦時中、いや、戦後になっても日本人から様々な形で被害を受けていると訴えられても、それはわたしたちの問題ではないと考え、昔の日本人はひどいことをやったと言い、人の罪を糾弾することには熱心でも、わたしたちの罪、わたしたちの責任に対して、この律法学者やファリサイ派の人々と同じように、鈍感に、頑なになってはいないでしょうか。

 34節、イエスさまが派遣される弟子たちを、彼らは十字架につけて殺してしまうことになると言われます。正しい、罪のない者の血をこれからも流す人間の罪の深刻さは、言い逃れの道もなく、わたしたちに突きつけられています。

 わたしたちの心も重くなってきます。一体、どうすればよいのでしょうか。

 

■「愛という名の」翼のかげ

 そんなわたしたちに、イエスさまはこう呼びかけられます。37節、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」。深く嘆く、痛切な呼びかけです。しかし、イエスさまの言葉は嘆きで終わりません。続きます。

 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」

 旧約聖書の歴史を振り返れば、神様は幾度となく預言者を遣わされましたが、神の民はその預言者を次々と殺してしまいました。その事実は変えられません。今、イエスさまはその事実から目を背けるのではなく、その事実に目を向けさせつつ、そこでなお、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と、イスラエルの民に、わたしたちに神様の思いを、愛の御心を知らせようとしてくださるのです。

 最初に赴任した教会の牧師館は、保育園の園庭の上、二階にありました。その二階の窓のひさしに、毎年春になると、つばめが巣を作り、卵を産みます。二週間くらいで卵がかえると、雛は懸命にピーピーと鳴いて、親鳥が餌を持ってくるのを待っています。雛は親鳥なしに生きることができないことを本能で分かっています。そして親鳥もまた本能なのでしょう。雛を一生懸命、守ろうとします。以前、雛が巣から外に出ようとしていました。親鳥は、雛たちが自分勝手に巣から出て、落ちて死んでしまわないように、何度も何度も自分の羽の下に集めていました。翼の下にいるのは雛です。親鳥の翼の外側は外敵から雛を守る堅い羽で覆われ、内側は温かい柔らかな羽で包まれています。

 そんな神様の御力と愛に、わたしたちも包まれ守られています。そう、救いとは、慈しみ深い神様の、「愛という名の」翼のかげに迎え入れられることでした。

 それなのに、わたしたちはその翼のかげにジッとしていようとしません。もちろん冷静な時、何事もない時には、そうありたい、そうしたいと思っています。でも苦難に見舞われると決まって、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」の後に続く、肩を落とすようにして語られた言葉のようになります。

 「だが、お前たちは応じようとしなかった」

 神様は、預言者を通し、聖書の言葉を通し、ある時は目覚まし時計が急に鳴り響くように、想定外の出来事を通して、わたしたちを翼のかげに集めようとしてくださいます。でも、わたしたちはそれに気づきません。その招きに応えません。自分の思いを貫いて、自分の力で生きようとします。結果、38節「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」のです。これは、人間が自ら選んだ道の結末を予告する言葉ですが、「結局は、滅びしかないのだ」とイエスさまは言われます。

 ただ幸いにも、神様の愛は、救いはそれでも終わりません。何度でも、最後の最後まで、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われたように、わたしたちを集め続けてくださるのです。

 ある人は言います。「イエスが最後に死んでいきながらお見せになった姿は、鳥が翼を広げてその下に雛を集めるように、両手を大きく広げて見せた姿だったのではないだろうか、わたしたち罪人を守ろうとする姿ではなかったでしょうか」と。両手を広げたら、自分を守ることはできません。まったくの無防備な姿勢です。しかし、その一番無防備、両手を広げたままの姿で、何をされたのか。わたしたちを守ってくださったのでした。しかも、わたしたちを守るために、その十字架の上から、「めん鳥が雛をその羽の下に集めるように、…お前の子らを何度集めようとした」ように、イエスさまは今も、わたしたちに呼びかけ、招いてくださっているのです。

 「だが、お前たちは応じようとしなかった」と、イエスさまを嘆かせ続けてよいものでしょうか。わたしたちを偽善から守るもの、自分を大きく見せる生き方から自由にしてくれるものは、十字架に示された神の愛、愛の神以外にありません。

 一番安全な、神様の「愛という名の」翼のかげに、いつもとどまり、恵みと平安の内に今日からの一週間を共に歩んでいきたい、と切に祈り願います。