福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月20日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝≫ 『手を伸ばして』マタイによる福音書14章22~36節 沖村裕史 牧師

6月20日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝≫ 『手を伸ばして』マタイによる福音書14章22~36節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏     イエスキリスト 主にのみたのみまつる (J.パッヘルベル)
讃美歌     6 (2,3節)
招 詞     ヨエル書2章21~22節
信仰告白    使徒信条
讃美歌     342 (1,4節)
祈 祷
聖 書     ルカによる福音書14章22~36節 (新28p.)
讃美歌     462 (1,3節)
説 教     「手を伸ばして」 沖村 裕史
祈 祷
献 金     65-1
主の祈り
報 告
讃美歌     532 (1,2節)
祝 祷
後 奏     トッカータ (J.パッヘルベル)

 

≪説 教≫

■差し出された指

 弟子たちの乗った舟は、湖の真ん中近くにまで来ていました。辺りは夜の闇に包まれています。そこに激しい風が吹き、今にも波に飲み込まれそうになります。夜に湖を渡ろうとするなんて、なんとムチャなことをと思うところですが、弟子たちが望んでそうしたというのではありません。

 「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向う岸に先へ行かせ…」

 弟子たちは気が進まないのに、イエスさまが強いて、無理やり、弟子たちだけを向う岸に行かせたのです。弟子たちは、イエスさまが言われたことだからと舟を出します。しかしその舟の中に、イエスさまの姿はありません。

 「祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ…」とあります。

 東西13キロのガリラヤ湖は、気候条件が悪くても、6時間から8時間もあれば舟で横切ることができます。それが、遅くとも「夕方」には出発し、それから10時間から12時間も経った「夜が明けるころ」になっても、舟はまだ向こう岸に辿り着くことができません。

 激しい嵐の中、弟子たちは一晩中、必死に舟をこぎながら、イエスさまは自分たちのことを忘れてしまったのではないか、そう思いました。神は、わたしたちの苦難に沈黙し、困り果て、絶望の中に捨て置かれている。夜の嵐。恐れと絶望。本当の助けさえ、「幽霊」に映ります。何か遠い幻のように見えてしまいます。

 しかしそこに、イエスさまの声が聞えてきました。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

 「わたしだ」と言われます。「わたしだ」というこの言葉は、ギリシア語の「エゴー・エイミー」、英語で言えば、“I am”。「わたしいる」「他の誰でもないこのわたしいる」と訳せる言葉です。

 以前おりました広島の教会の礼拝堂には、高さ8メートル、横1メートルほどの大きなステンドグラスが三枚、並んで嵌(は)め込まれていました。そこには、鳩と炎、そして右手の人差し指が描かれています。陽が差し込むと、深くしかし鮮やかな色彩を放ち、美しく、実に荘厳でした。聖書によれば、鳩と炎、そして右手の人差し指、そのどれもが、神の霊、聖霊のシンボルです。神が、今ここに働いておられることを指し示すものでした。

 とりわけその人差し指は、わたしにとって、「わたしがいる」と告げてくださる神の大きな愛をリアルに感じさせるものでした。

 まだ幼かった頃のこと。夕方、仕事が終わって帰って来た父は、いつものように野良仕事の服に着替え、「行くぞ」と小さなわたしに声をかけ、右手の人差し指を差し出します。目の前に差し出された、つり革のようなその大きな指をつかんだわたしを連れて、畑仕事へと出かけて行く。それが、父とわたしの日課でした。

 畑仕事をする父のそばで、田んぼのすぐ横につくられた小さな水路の中にいるタニシやイモリやカエルを捕まえたり、気に入った小石を集めたり、つくしやたんぽぽを引っこ抜いたりして、夢中で遊んでいました。気がつけば日は暮れかかり、闇が辺りの山々を覆(おお)い始めます。少し肌寒くなり、鳥か獣か、遠くから不気味な鳴き声が聞こえてきます。忍び込んでくる暗闇が心の中を埋め尽くしてしまうのではないか。怖くなり、そわそわし始めたころ、「帰るぞ」と父が声をかけ、「ほら」とまた、大きな人差し指がわたしの目の前に差し出されます。

 その指はどんなに暗くなっても安心できる指。わたしと父をつなぐ指。家に帰る道は真っ暗闇です。ひとりだったらとても耐えられないほどに不安で恐ろしいのですが、その指につかまってさえいれば、安心することができました。

 その指が、「わたしがここにいる」といって差し出される、神の指を思い出させます。その指こそ、わたしにとっての神の霊でした。

 わたしたちは、神様を、イエスさまのことを、どこか遠くにおられる方だ、と思っていることがあります。しかし今、イエスさまは、「わたしだ」「わたしがここにいる」というこの言葉によって、この手で触れることができるほどに傍近く、「いっしょに」いてくださる方として、ご自身をお示しになります。

 イエスさまが人差し指を差し出して、「わたしがここにいる」「わたしだ」とご自身を示されるのを見るとき、わたしたちは、神様が、わたしたちの知らないどこか遠くから、手紙を書いたり、LINEなどでメッセージを送ったりするだけのお方ではない、ということに気づかされます。

 神様が、今ここにいて、救いの出来事を始めておられることに気づかされます。

 

■手を差し伸べて

 聖書は、神が世界を、わたしたちをつくられた、と語ります。

 その神様が、ご自分のつくられた、この世界を、このわたしたちを見捨てられることなどありえません。この世界を捨てて、悟りを開き、遠く離れた場所でひっそりと生きなさい、と言われることもありません。雲の中のどこか遠く離れたところにいることに、満足などなさいせん。そうではなく、神様は、与えてくださったこのいのちゆえに、わたしたちを愛してやまないお方です。わたしたちを救いたくて、救いたくて仕様がない、愛の神なのです。

 倉田百三という人をご存じでしょうか。『出家とその弟子』や『愛と認識との出発』などの著者で、彼の郷里、広島県庄原のアライアンス教会に出席し、キリスト教にも深い関心を抱いた人ですが、その彼が著書『絶対的生活』の中に、こんなことを書いています。

 「後ろを見る眼が大事なことが解った。これは自分の思想と生活とにまた異なった趣を与えてくれるだろう。真理を求めて、眼を皿のようにして前方を遥(はるか)彼方(かなた)まで凝視する。しかしそれだけではどんなに真面目で熱心でも見ることのできない境がある。それは後ろだ。自分の背後の力だ。自分は自分の独力で真理を求めてここまで歩んで来たと思っていた。しかし後ろから押しているものがある。振り向いて見ると驚く。ああ自分の存在はそのものに依属していたのだ。真理を求める力どころの話ではない。自分の存在そのものがそのものに依属していたのだ。そのものが欲しなかったら、自分という存在は初めからなかったのだ。そのものとは生命の太源、アルファなる神だ」

 わたしたちはすべて、神に望まれて生まれ、今ここに在るのだ、と言います。

 その神様が、独り子なるイエス・キリストが、「わたしだ」と声をかけてくださるのです。この世の中に、「わたしだ」「わたしがここにいる」と言ってくださる方が、外にあるでしょうか。「こうしなさい」「こういう方法があります」という人は、いくらでもいます。でも、「わたしがここにいるよ」と言って、人差し指を、ご自身を差し出される方など、外にはありません。

 どんな思想も、イデオロギーも、哲学も、世界観や人間観は教えてはくれても、自分自身が救い主だとは言ってくれません。今、救い主キリストが、ご自分の方から、わたしたちのところに、悩み苦しむわたしたちのもとに来てくださったのです。

 弟子たちは今、自分を自分の力で助けることができずにいます。どうしようもないと思えるその場所で、何もかもあきらめて投げ出すしかないその時に、しかしイエスさまはその嵐の只中に立たれ、弟子たちを助けてくださるのです。これこそ、本当の助けです。これこそ、イエス・キリストにはっきりと示された、神の愛です。

 それはいつも、自分とは関係のない「向う側からの奇跡」として起こります。奇跡とは、単なる魔術、不可思議な何かというのではありません。それは、わたしたちがもはやどうすることもできない、そんなギリギリのところで、神様が近づき、神様が出会ってくださる出来事のことです。

 このときも、不安と恐れの只中にいたペトロが、荒れ狂う湖の上に一歩を踏み出すことができたのは、彼に勇気があったからでも、彼が立派な信仰を持っていたからでもありません。「来なさい」というそのひと言に従っただけのことです。イエスさまからの招きゆえ、ただ、イエスさまが招いてくださったからでした。

 この後のペトロと同じのように、わたしたちも、風を見ては恐ろしくなり、勇気も信仰も霧のように消えてなくなることでしょう。実に弱く、また頼りない、わたしたちです。それでも、そのわたしたちに、イエスさまの愛が、人差し指が差し出されるのです。

 ペトロは沈みかけました。弟子の中の弟子と言われるペトロが沈むのなら、このわたしたちはなおさらのこと、きっと沈んでしまうことでしょう。しかし、イエスさまは沈みません。沈むことなく、嵐の波の上でなお、わたしたちといっしょにいてくださるのです。

 わたしたちは、差し出されたイエスさまのその指に、ただ手を差し伸べて、つかまりさえすれば、よいのです。そうすることができるのです。

 

■委ねて生きる

 とすれば、ここでイエスさまがペトロに投げかけられたもうひとつの言葉、「信仰が薄い者よ」という言葉に込められているものも、嵐に翻弄される弟子たちへの非難の言葉というのではなく、その神様の愛を、イエスさまの愛だけを頼みとし、信頼してすべてをお委ねする信仰に生きなさい、という招きの言葉ではなかったでしょうか。

 「信仰が薄い」というこの言葉を、マタイはこの箇所を含めて、五回使っていますが、今、皆様に思い起こしていただきたいのは、6章25節以下です。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」

 豊かな現代日本の社会では、何を食べ、何を飲み、何を着るかで深刻に思い煩っておられる人は多くはないでしょう。では、このイエスさまの言葉は、わたしたちにはもはや無縁のものとなったのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。コロナ禍にあって社会の分断と格差がより一層進む中、仕事の問題、家庭の悩み、健康の不安、人間関係等々、わたしたちは皆、そうした思い煩いに疲れ果てています。そんなわたしたちに、イエスさまは言われます。

 空の鳥を見なさい、彼らは余計なことを望まず、与えられた今日一日のいのちを精一杯生きているではないか。明日炉に投げ込まれるかもしれない野の花さえ、今日のいのちを精一杯咲いているではないか。どうしてあなたのいのちを神にお委ねしないのか。ああ信仰の薄い者たちよ。

 こう言われたイエスさまの声は限りなく憐れみに満ちた、やさしいものであったに違いありません。わたしたちの弱さをよくよくご存知だからです。

 鳥や野の花のように、わたしたちはただ飛ぶだけ、ただ咲くだけでは満足しない存在です。より多くのものを望み、願います。ああしたい、こうなりたい。ああしてほしい、こうしてほしい等々。「生きるとは、すなわち願うことである」とさえ言われます。人は、そんな自分の願いに従って努力し、そのために物を作り、人を動かし、果ては神様をも利用しようとします。いかにも神様を崇めているような姿を取りながら、その実、神様を自分の願いが叶えられるために仕えさせようとします。そして、神様が自分の期待通りに動いてくれない時、人は秘かに神様を呪い、否定し、殺すことさえあるのです。

 今朝の冒頭、解散させられた五千人を超える「群衆」も、また湖を渡って辿り着いたゲネサレトで「その服のすそにでも触れさせてほしいと願っ」て押し寄せて来た病気の人々も、イエスさまによって飢えを満たされ、病を癒されながら、しかし、イエスさまを見捨て、十字架の上に見殺しにしました。

 見捨てられ、見殺しにされることになるイエスさまが、それでもなお、そうする人々に、裏切る弟子たちに言われるのです。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

 6章のみ言葉の最後を、イエスさまはこう締めくくられます。

 「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」

 神の国とは何か。神様のみ心が行われている所です。生きるということが願うことであるのならば、まず、神様のみ心の成ることを願い求めなさい。まず、神の義の成ることを願いなさい。自分の願いの成ることを第一とするのではなく、神様のみ心の成ることを第一としなさい。そのことが、あなたが思い煩いから解放される道、救いの道です。なぜなら神様のみ心は、神様ご自身の力によって必ず成るのであり、そのためにあなたに必要なものはすべて添えて与えられるからです。そのための、あなたの今日一日の苦労は、今日一日で十分です。

 思い煩いから解き放たれ、空の鳥や野の花のように、神様の愛が今ここにそなえられていることを信じて、与えられた今日一日のいのちを精一杯生きる姿、そこに、神様にいのち与えられた者の姿がある、そう教えられるのです。

 誰の人生にも、嵐は襲いかかります。避けようとして避けることのできない苦難に、人生の嵐に、誰もが一度や二度は遭遇するものです。それでも、そんな嵐の中にあっても、「わたしがいる」「わたしがいっしょにいるよ」と言って、人差し指を差し出してくださる方がおられることを知れば、もはや、うろたえ、恐れ、叫ぶことなど必要ありません。イエスさまのところまで行こうとする必要もありません。イエスさまはすでに近くにいてくださるのですから、落ち着いて、冷静に、自分にできることをすればよいのです。舟が重ければ、自分が持っている荷物を捨てることもできます。舟の中に水が入ってくれば、それを掻き出すこともできるはずです。

 阪田寛夫の『バルトと蕎麦の花』の中に、実在の一人の牧師をモデルにした主人公「ユズル牧師」が登場します。その主人公が、様々な苦難と自らの弱さと向き合いつつ辿り着いた、高原の小さな教会のクリスマス礼拝で語ったメッセージが書き留められています。

 「平和について考えてみたい。説教が一段落したところで、牧師が言った。神の御子イエスを信ずる人には平和が与えられるといわれるが。―ある人は言う。この平和は、波風の立たない静かな湖のようではなく、荒れ狂う嵐の中で母鳥に守られている巣の中の雛鳥のようなものだ、と。すなわち、クリスマスに御子イエスがこの世に来て下さるのを信じたら、この世の問題がなくなるのではなく、神さまが来て嵐の中に翼をひろげて守って下さる、『守られている平和』が私たちに与えられるわけです。……」

 イエスさまを信ずるということは、どんな苦難の中にあっても、平安の内をあるがままに生きること、そして人としてできることを誠実に為し遂げていこうとすることです。驚くべきことですが、そのための助けが、神の指が今ここに、わたしの前に、あなたの前に差し出されているのです。後は、わたしたちがその指に向かって手を伸ばして、その指を掴めばよいのです。

 

お祈りをします。主なる神よ。あなたが共にいてくださることを確信させてください。恐れを砕いてください。疑いを吹き消してください。風を見て脅える目と心とを、あなたが塞いてください。風ではなく、御子イエスを見る目を、あなたが与えてください。あなたの指を差し出し、聖霊による平安を与えてくださいますように。ここにいるすべての者が手を伸べてあなたの指をつかみ、手離すことがありませんように。主のみ名によって。アーメン