福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

6月27日 ≪聖霊降臨節第6主日礼拝≫ 『口から出るもの』マタイによる福音書15章1~20節 沖村裕史 牧師

6月27日 ≪聖霊降臨節第6主日礼拝≫ 『口から出るもの』マタイによる福音書15章1~20節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫
前 奏  喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ (J.S.バッハ)
讃美歌   7 (1,3,5節)
招 詞  ヨエル書2章12~13節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  348 (1,4節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書15章1~20節 (新29p.)
讃美歌  153 (1,3節)
説 教  「口から出るもの」 沖村 裕史
祈 祷
献 金  65-1
主の祈り
報 告
讃美歌  545 (1,3,5節)
祝 祷
後 奏  喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ (J.S.バッハ)

≪説 教≫
■闘いの火ぶた
 舟でゲネサレトに到着したイエスさまの下に、多くの人々が病人を連れて押し寄せ、イエスさまの「その服のすそにでも触れさせてほしい」と願い、その病人のすべてが癒されました。「そのとき」のことです。ファリサイ派の人々と律法学者がやって来て、イエスさまの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことを非難したところから、論争が始まります。

 「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません』」

 食事の前に手を洗うのは、単に衛生上の配慮からではなく、宗教的、祭儀的な清めに関する戒めゆえでした。食事は神聖なもの、清められた時であり、食べ物に触れる手が汚れていることは許されないことでした。この戒めがどれほど重んじられていたことか。ジョーセスというユダヤ教の教師(ラビ)が「手を洗わないで食事をするのは、姦淫を行うのと同じくらい重い罪である」と言っている言葉からも推し計ることができます。そのため、食前の手の洗い方に関する具体的な規定が「言い伝え」として伝えられていました。その「言い伝え」を守らないことは、神の神聖さを軽んじ、清い生活を重んじない罪と見なされます。

 些細なことが原因の論争に見えるかもしれません。しかし、「ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った」とあります。彼らは、イエスさまを咎め、罪に定めるために、わざわざ遠いエルサレムからやって来て、その機会を窺(うかが)っていたのです。食事の前に手を洗わない弟子たちを見つけました。願ってもない、絶好のチャンスでした。彼らはイエスさまを厳しく咎めます。こうして闘いの火ぶたが切って落とされました。

■偽善者よ
 「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。…あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ…』」

 イエスさまもまた、彼らの意図を承知しておられたのでしょう。だからこそ、「偽善者たちよ」と敢えて事を荒立てるような、挑発的な言葉を面と向かって彼らに浴びせます。柔和なイエスさまが、なぜ、と思うほどです。理由は明らかです。怒っておられたからです。それは、彼らが「自分たちの言い伝えのために神の言葉を無にしてい」たからです。
 
 イエスさまは、なぜ食前に手を洗わないのかという問いには直接お応えにならず、その鉾先をまず、彼らの偽善に向けられます。「昔の人の言い伝え」と「神の掟」とを並べ、「昔の人の言い伝え」を、「自分の言い伝え」―原文のままに訳せば「あなたがたの言い伝え」―と言い換えることによって、彼らが頑なに守ろうとしている「言い伝え」が結局のところ、神の言葉ではなく、人間の言葉に過ぎないと、問題の核心を突きます。
「父と母を敬え」というのは、十戒の中の第五戒です。「父または母をののしる者は死刑」という規定は、聖書 に繰り返し記される、律法の倫理規定の中でも最も重きをなすものでした。イエスさまはこう言われます。
 
 ある年老いた夫婦に息子がいたとしよう。両親の生活ぶりを見た息子が、自分の持っていたある物をあげれば、両親はどんなにか助かり、喜ぶだろうと考えた。そのことは「父と母を敬え」という教えに適う行為でもある。ところがその一方で、それを手放したくない、手元に置いておきたいという思いもあった。そこで息子は、「お父さん、お母さん、悪いけど、これは供え物と決めていたものです。神に捧げることにしたから、悪しからず」と言う。

 そうすれば、「父母に与えないでよい」という「言い伝え」、人の定めた決まりがありました。「供え物」と宣言した息子は「言い伝え」により、両親に物をあげる義務を免除されたのです。ここでイエスさまは、あなたがたが厳格に守るべきだと人々に教えている「言い伝え」は聖書の教えに反している、と言われるのです。それは、親に対する侮蔑ではないか、律法本来の規定によれば、それは死に値する罪ではないか。それなのに、「あなたがたの言い伝え」によれば、これが敬虔な業として正当化される。これは明らかに、「神の掟」「神の言葉」をないがしろにしている、そう言われるのです。

 そして、「偽善者たちよ。イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ」と言って、イザヤ書の言葉を引用し、彼ら、ファリサイ派と律法学者の「偽善」を、「口先」だけの信仰を、「人間の戒めの教え」を振りかざすその姿を、手厳しく批判されたのでした。

■旧約聖書を揺るがす
 そうして続く10節以下、イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者たちもそこに立ち混じっていたであろう「群衆」すべてに向かって、「なぜ、手を洗わないのか」という問いに直接お答えになります。

 「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』」

 イエスさまは今、内にそして外に向けて、広く「真理」を宣言されます。

 イエスさまは、およそ口から体の中に入る物が、人を汚すことはない、口から出るものが人間を汚すのだ、と断言されます。言葉を変えると、手さえきれいに清めておけば、人は汚れないで済む、という戒めは間違っているのであって、人の心が清くならなければ、いくらでも汚いものが人の口から出てくるのだ、ということです。

 これがどれほど重大な宣言なのか、わたしたちは立ち止まって、その重さ、深さをしっかりと受け止めなければなりません。

 旧約の祭儀規定の中には、汚れた物についての詳細なリストだけでなく、それらから身を清める手続きも、詳細に規定されています。特にレビ記12章から15章に記されている祭儀規定を、「昔の人の言い伝え」はさらに拡大し、生活の隅々にまで至る、詳細な規定をつくりあげました。食事の前に手を洗うことは、その典型的なひとつの例として、ここで取り上げられているのですが、イエスさまが断言されるように、口から入る物が人を汚すことはないとすれば、そしてむしろ、内から出る悪しき思い、心こそが、人を汚すのだとすれば、浄―不浄について作り上げられてきた祭儀律法それ自体が、一挙にその根拠を失ってしまうことになります。これによって、旧約以来の聖なる伝統は崩れ去ってしまう、という危機感を人々が覚えたのは、無理からぬこと、当然のことでした。

■つまずく
 12節から、その時の様子を窺い知ることができます。

 「そのとき、弟子たちが近寄って来て、『ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか』と言った」

 この箇所が前の共同訳聖書では、「ファリサイ派の人々がその言葉を聞いて、憤慨したのをご存じですか」となっていることからも分かるように、「つまずく」ということは「憤慨する」「カンカンになって怒っている」ということです。弟子たちは、ファリサイ派の人々がイエスさまの言葉に反発し、彼らとの間にもはや修復することもできないほど決定的な亀裂が入ってしまった、と心配しています。

 しかしイエスさまは、弟子たちの危惧を和らげるより、むしろ逆にこの決裂を真向(まっこう)から受け止め、これを神のみ旨として、ファリサイ派の人々との断絶を甘んじて受け入れることを決意されます。13節から14節、

 「イエスはお答えになった。『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。…』」

 旧約聖書は、イスラエルの民を「神に植えられた木」と表現します。自分たちは、神に植えられた特別な存在だ。だから、誰も引き抜くことなどできない。必ず成長し、実を結ぶ、という確信です。ただ現実は、ユダヤは当時、ローマの支配下にあり、以前から何度も異邦人の国によって支配され続けてきました。そのような中でなお、自分たちの信仰、民族としての誇りを守ろうと考えた人々、その代表がファリサイ派であり、律法学者でした。彼らは、自分たちのことを「まことのイスラエル」と呼び、「神に植えられ選ばれし者」との誇りを持って生きていたのです。

 ところがイエスさまは、その彼らについて、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と言われたのです。実に激しく、また厳しい言葉です。誰よりも聖書を熱心に学び、ひたすら神の言葉に生きようと努めていた彼らに対して、「ファリサイ派の人々、彼らは天の父がお植えになった者ではない。だから必ず抜き取られる」と言われたのです。

 イエスさまは、彼らが「つまずく」どころではない、さらに怒り狂うこと、そのことを百も承知の上で、そう告げられました。

■垣根
 わたしたちのいのちは、イエスさまの言葉によれば、神様が植えてくださったものです。そうして、わたしたちは人生のスタートを切り、また信仰を与えられ、今ここを生かされ生きています。ファリサイ派の人々もそうです。ところが、イエスさまは「しかし」と言われます。「しかし、今の彼らの生き方は違う」とはっきりと言われるのです。

 ファリサイ派や律法学者、ユダヤ教の教師(ラビ)たちは、「神の掟」を守るための様々な禁止事項、「言い伝え」を定めるとき、「律法の周りに垣根」(アヴォート1:1、3:13)を張り巡らす、という言い方をしています。これを念頭に置いていたのでしょうか、聖公会の牧師であり、聖書学者であるジョン・ストットは、ファリサイ派の生き方、彼らの信仰のあり方について、神の言葉の周囲に規則や律法という垣根を張り巡らしてしまった、と表現しています。

 しかし、神の言葉は「神を愛し、隣人を愛する」ことを教えている、とストットは言います。ファリサイ派は、その神の言葉の周囲に、「言い伝え」という垣根を設け、「そうした規則を守ることで神を愛したことにしましょう。隣人を大事にしたことにしましょう」と言って、神を愛し、隣人を愛することを、その時々に、その場面々々で、真剣に主に祈り求め、考え、葛藤しなくても済むものにしてしまった、と言います。

 ファリサイ派と律法学者は、「清め」ということ、浄―不浄を大変重んじ、それを厳しく問題にしているようですが、手を洗えば、それで人が清くなるのだ、と考えています。汚れというものに対して、極めて楽観的です。 そういう信仰のあり方は、結局、神を愛する、隣人を愛することを抜きにしても成立する、安心を得るための道具のようなものです。そうした宗教の在り方には、さらにもう1つの落とし穴があります。規則に従わない人を批判し、裁き始めるのです。そこには、巧みな自己正当化が潜んでいます。そうなって来ると、聖書の信仰から完全に離れ、変質してしまうのです。

 イエスさまは、何が人を本当に汚すのかを、極めて重大に考えておられたのです。そのことを、群衆に、そして弟子たちに何とか分かって欲しいと願われたのです。「ファリサイ派の人々ですら、この心の罪を逃れることができないとするならば、あなたたちはどうですか」。群衆に向かって、イエスさまは問うておられるのです。さて、わたしたちはどうでしょうか。

■愛と赦し
 「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」

 わたしたちにとっては、とても分かり易い言葉ですが 、さきほども申し上げたように、これは、祭儀宗教としてのユダヤ教の根幹に関わる問題でした。一歩も譲れない生命線でした。なぜか。旧約聖書それ自体を典拠としていたからです。ここに斧を打ち込むことができるとすれば、それは聖書の言葉を越えた、神の権威を持つ者だけでしょう。イエスさまは今まさに、そのような存在としてここに立っておられます。旧約聖書の条文、その後、成立した言い伝えに基づいて、神の前に清くあるべき道を模索した人々にとっての神と、生ける神の子であるイエスさまにとっての神とが、ここで激突し、対峙しています。

 イエスさまの父である神は憐れみの神であり、その民にも愛を求められます。だからこそ、神殿への奉献という名目で、両親への義務を怠ることは、許しがたい偽善とされました。また、イエスさまの父なる神は赦しの神であって、義の衣をもって罪人を包んでくださるお方です。義は恵みの賜物であって、人が自分の力と行いにより、それを勝ち取ることのできるものではありません。この真理と信仰に立つなら、小心翼々と手を洗うことによって、身を清く保つこができるとすることは、愚かな、罪深い業以外の何ものでもありません。

 ファリサイ派の清めは、どこまでも自分の清め、個人の清めに終始しています。そこでは、汚れもまた極めて個人的な、我が身の汚れです。しかし、イエスさまが語っておられる、人間の心から出て来る汚れは、神と隣人に対して大きな影響を持っています。悪意、殺意、姦淫などなどすべてが、神との、隣人との関係を損なうものです。自分一人の汚れと清めといった、ファリサイ派の自己保身、自己義認に対して、イエスさまが指摘しておられる汚れと清めは、神の愛と赦し、隣人への愛と責任に貫かれています。

 だからこそ、イエスさまは今、このようにファリサイ派の人々を責めたてながらも、結局は滅ぼすことをなさいませんでした。いえ、むしろ逆に、ある人の言葉を使えば、「植え直し」てくださろうとしているのです。

 わたしたちに対しても、イエスさまは同じように関わってくださるのです。「兄弟の罪を、何回赦すべきでしょうか」と問うペトロに対して、「七回どころか七の七十倍まで」と言われるお方が、わたしたちの神であり、そのお方こそ、わたしたちを生かす主なるイエス・キリストだからです。