福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月28日 ≪聖霊降臨節第五主日礼拝≫ 『共に旅する者』 マタイによる福音書8章18~22節 沖村裕史 牧師

6月28日 ≪聖霊降臨節第五主日礼拝≫ 『共に旅する者』 マタイによる福音書8章18~22節 沖村裕史 牧師

■恐れつつ従う
 ここには、二人の人とイエスさまとのやりとりが記されています。
 最初は、律法学者です。山上の説教に感動し、ガリラヤでの奇跡の出来事に眼を開かれた人であったかもしれません。彼はイエスさまに近づき、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と告げます。立派な決意表明です。
 ところがイエスさまは、この人の決意に水をさすかのように、わたしに従うことは並大抵のことではない、と教え諭(さと)します。
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。
 「人の子」とは、イエスさまのことです。「あなたは、わたしの行く所ならどこへでも従って行くと言うけれど、そのわたしには枕する所もない。安住の地もなければ、心の休まる暇もない旅をしていくことになる。そのわたしに本当に従うことができるのか。」
 ご注意をいただきたいのは、この言葉に先立って、イエスさまが弟子たちに、「向う岸へ行く」ようにと命じておられることです。唐突に思えるこの言葉は、この後、23節以下の場面を準備する言葉です。その小見出しに「嵐を静める」「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」とあります。つまり「向う岸」とは、単なるガリラヤ湖の東側のことではなく、悪霊の支配する、大きな戦いが待ち受けている、その場所を指しています。そればかりか、そこに向かうために舟で湖を渡ろうとしたとき、弟子たちは、いのちの危機に晒されるほどの激しい嵐に襲われます。そんな大きな試練と厳しい戦いに向けて旅立つことを、イエスさまは弟子たちにお命じになっておられるのです。
 もう一つ、1世紀当時のガリラヤでは、「賢者」と呼ばれた教師の弟子たちはしばしば家を離れ、師に従って各地を転々と旅して歩くのが普通の暮らしでした。巡回伝道者の一行と言えば聞こえはいいのですが、その実態はホームレスの集団です。貧しく、食べるものにも事欠く、そんな日々に耐えなくてはなりません。「枕する所もない」というイエスさまの言葉は、単なる比喩ではなく、現実でした。空腹を抱えて麦畑を横切り、星空を仰ぎながら野宿をすることも珍しくなかったに違いありません。それが、イエスさまと弟子たち、そして従っていた群衆の姿でした。それに対して、律法学者は、安定した生活を営み、指導的な地位に立っていた人です。
 イエスさまの旅は、紛れもなく「枕する所もない」歩みです。イエスさまに従うということは、厳しい試練が待ち受ける、そしてついには十字架へと至る、険しい旅路を共に歩むということです。だから悪いことは言わない、そんな覚悟もないのに、わたしに付いて行くなんて言うのはやめた方がいい。イエスさまは、そう言っておられるかのようです。
 正直なところ、この厳しい言葉に怯(ひる)み、腰が引けてしまいそうになります。
 しかし、そこでなお目を止めていただきたいことがあります。それは、この言葉がいわば、すばらしい決意、立派な信仰を告白した人に対して語られているということです。
 ペトロのことを思い出されないでしょうか。イエスさまから「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたとき、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と、実にすばらしい決意を表明したペトロですが、イエスさまに十字架刑が下されたその法廷の中庭で、彼は三度も「あの人のことなど知らない」と言ってしまいました。
 イエスさまに従う旅路、十字架への道は厳しいのです。
 イエスさまはその厳しさを、今、はっきりと教えておられます。であればこそ、その旅路をわたしたちの決意と努力によって、つまり人間的な力によって歩むことができるなどと考えたり、そういう思いで高ぶったり、誇ったりすることは、また逆に、そんな思いから人を軽んじたりすることがあるとすれば、それはとんでもなく傲慢なこと、罪深いことです。
そう、今ここで、弟子たちに、そしてわたしたちにできることは、決然として進むことではなく、ただ恐る恐る、頼りなげであっても、それでもなお、主のみ後に従うこと、ただ、それだけです。

■何を第一とするか
 最初の人とのこのやり取り以上に、驚き、戸惑う他ない言葉が、さらに続きます。
 もう一人は「弟子の一人」です。 この弟子は、律法学者のように自分から従いますと申し出たというのではなく、イエスさまから「従いなさい」と招かれたのでしょう。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」とやんわりと断ります。「主よ、あなたは従いなさいと言われるけれど、わたしのことを、わたしの父が亡くなったことをご存知ですか。ご存じないのでしょう」とでも言いたげな言葉です。
 しかしここでも、イエスさまは、驚くべき、厳しい言葉を告げられます。
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
 この人は、イエスさまの招きに従わない、と言っているのではありません。まず父親の葬りをすませたい、と言っているに過ぎません。親を葬(ほうむ)ることは、何にもまさる大切な務めでした。ところが、イエスさまは、それをうち捨てて、わたしに従ってきなさい、とお命じになるのです。
 ある土曜日の朝、教会員の姉妹からお電話をいただいきました。その方の大事な友人が召され、土曜、日曜と葬式に行くので、朝の礼拝に出席することができない。わたしに許可を求めるようなお電話でした。80歳半ばの方でしたが、もし、疲れていなければ夕礼拝に出席しようと思うといった内容の、丁寧なお電話でした。
 わたしはその方のお話をお聞きしながら、イエスさまの言葉が心に刺さりました。しかし電話口で「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とは言えませんでした。電話を切った後、「言えなかった」という牧師としての小さな敗北感のようなものと共に、一方で、「事情を知れば知るほど言えないよな」と自分を正当化するような言い訳がましい思いと、いずれにせよ、何とも複雑な気持ちになりました。そのとき、心の中に浮かんだのは、「では、なぜイエスさまは、こんな厳しいことをこの人に言えたのだろうか」という問いでした。
 まるで、「退路を断って、従いなさい」と言わんばかりの厳しいこの言葉を、わたしたちはどう受け止めるべきなのか。皆さんは、どう納得されるでしょうか。
 とても厳しい。厳しいのですがしかし、わたしたちは、この厳しさを割り引かずに、しっかりと受け止めなければなりません。
 なぜなら、それが紛れもなくイエスさまの言葉だからです。
 わたしたちのことを誰よりも愛し、ご自分のいのちを差しだすほどに愛してくださるイエスさまです。いつも、わたしたちの最善を願い、行動し、語りかけてくださるお方です。そのイエスさまの言葉なのです。そこに、このような厳しさが伴うのだということを、いささかも値引きせず、都合よく解釈せず、言い訳せず、ましてや見て見ぬふりをしたり、聞いていても聞かないふりをしたりせず、まっすぐに受け止めなければなりません。
 親を葬ることは、ごく当たり前の、人としてなすべき、大切なことです。それは優先されるべきことだと、だれもが思うことです。しかし、わたしたちは、そうした優先度の高いと思われることを、他にもたくさん抱えてはいないでしょうか。この世を生きる者として、この国、この地域社会の一員として、家族のひとりとして、職場や学校の中で様々な責任と働きを負っている者として、これは大切だ、これは優先にしないと、ということはいくらでもあるのです。そういう現実の中で、わたしたちは、主に従おうと思いつつも、いつしかそれを二の次、三の次、四の次にしてしまう。放っておけば、必ずそうなることを、だれも否定することはできないでしょう。その意味でも、わたしたちはこの言葉をしっかりと受け止めなければなりません。
 イエスさまのこの厳しい言葉は、そのようなわたしたちに、本当に大切なこと、最終的に第一とすべきことは何なのか、ということを教えようとするものです。

■共に旅する
 では、「本当に大切なこと、最終的に第一とすべきこと」とは、何か。それはもちろん、主に従うことです。
 しかしそこで、思い出していただきたいことは、今朝の言葉が、直前17節「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」というマタイの信仰告白に続く、その流れの中に置かれている、ということです。
 イザヤ書53章にある「苦難の僕」の一節です。そこにはこう記されていました。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(2,3,5節)
 そのイエスさまが、そのように苦しみを担い、十字架につけられて殺されるのは、わたしたちを愛し、救うために、わたしたちの罪を全て背負って、身代わりとして死んでくださるためです。そのことによって、わたしたちが、すべて罪赦され、新しくされ、神の子として生きるようになるためです。そのためにこそ、イエスさまは、宣教の旅路を歩み始めておられるのです。
 そして、その旅路に従いなさい、とわたしたちを招いておられます。たとえ、わたしたちの歩みが、躓(つまづ)きの連続で、頼りなく、道を踏み外すことがあったとしても、それでもなお、なりふり構わぬお姿で、すべての苦難をその身に受けてくださり、ただひたすらに、わたしたちの前を歩み、導き、進みゆかれるのです。
 だからこそ、大切にしなければならないことがいろいろある中でしかし、このイエスさまのみ後に従っていくことをこそ、何よりも大切にしていかなければなりません。そうでなければ、わたしたちは、悩み、苦しみ、思い煩うたびに、ほんとうに簡単に、道を踏み外し、倒れてしまうことでしょう。
 イエスさまの言葉を、父の葬式を出している暇があったら伝道せよとか、家族のことなど抛(ほう)っておいてわたしに従えといった、そんな律法、戒律が与えられていると考えることは、間違いです。わたしたちがここから読み取るべきことは、信仰者としてイエスさまに従って生きるとは、わたしたちが、先頭に立って決然と歩み行く者となることではなく、「わたしたちの前を歩み、導き、進みゆかれる」そのイエスさまと共に旅する者となるのだ、ということです。
 信仰とは、旅立つことです。「旅立つ」とは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」とあるように、このわたしたちにとっての、安住の地、安心できる家を離れることです。「離れる」とは、捨て去ることではありません。父を葬ることに象徴されるような、親だから、子どもだから、夫婦だから、教師だから、学生だから、上司だから、仕事だからといった、この世的な様々なしがらみからいったん離されて、自由にされて、イエスさまと共に生かされ生きる者となることです。
 「本当に大切なこと、最終的に第一とすべきこと」とは、このことでした。

■退く覚悟
 不退転の決意をもって、退路を断ち、厳しい困難な道を進みゆかれる、イエスさまです。しかし、そのイエスさまと共に旅する十字架への道は、決して、退き、引き返すことを知らない、ただひたすらに前進する道、というのではありませんでした。
 それはむしろ、「この世的な様々なしがらみからいったん離され」、この世の慣わしから退き、自分の欲望の赴(おもむ)くままに進む道、自分のエゴ・我を通して、行け行けどんどんで押しまくる道から退いていくことです。弟子としての道は、ただひたすら前に進む道ではなく、むしろ、その道は退路、そこから自由にされる道でした。
 上林(かんばやし)順一郎という人の本の中に、こういう一文があります。
 「押してもだめなら引いてみな、という歌がありましたが、押してばかりいるのが、わたしたちの社会の現実の姿でしょう。力の押し合いの世界の中で、力を抜くことは負けることであるかもわかりませんが、キリストにあって生きるということは、力を抜いて生きるということなのです。引くことへの覚悟があるかどうか、それが問題です。」
 弟子たちに、そしてわたしたちに求められていることは、退路を断ち、ただひたすらに、イエスさまの道を歩むことでした。しかしその歩みは何よりも、この世の慣わしから退き、引き下がっていく、退路、自由への道そのものであった、と言わなければなりません。
 今、わたしたちの社会は、国も人も、行け行けどんどん、押しまくり、傷つけ、いのちを奪ってでも、自分の思いとエゴを押し通そうとする、一歩たりとも後退することを知らず、前進あるのみの暴走特急のようです。
 そんな歩みからふと退いて、たとえ、険しくても、あるがままのいのちの道を歩いてみる、そこに退いてみる。しかし退いて、自分たちに心地よいところに閉じこもるのでもなく、これまでの通い慣れた気楽な道を選ぶのでもなく、イエスさまに従うことによって、自分中心のエゴと欲望に満ちたこの世界からの、決然たる退路を選ぶこと、引く覚悟こそが、イエスさまに共に旅するわたしたちに求められていることでした。
 そして、その旅こそ、主の愛に導かれた真の自由と平安への道なのですから。

お祈りします。主なる神よ。「従いなさい」と招かれてくださる御子こそ、わたしたちの羊飼いです。わたしたちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださるお方です。そのお方が、愛ゆえに、わたしたちを正しい道に導いてくださいます。その道こそが、羊であるわたしたちにとっての最善の道、まことの祝福にいたる道です。どうか、これからも御子に従いゆくことができますよう、弱く、欠け多いわたしたちを支え、励まし、導いてください。この祈り、主の御名によって。アーメン