福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

7月3日 ≪聖霊降臨第5主日礼拝≫ 『あなたを選んでくださる』 マタイによる福音書24章15〜31節 沖村裕史 牧師

7月3日 ≪聖霊降臨第5主日礼拝≫ 『あなたを選んでくださる』 マタイによる福音書24章15〜31節 沖村裕史 牧師

■今なお終わりのとき

 「世の終わり」と聞く時、誰もが知りたくなるのは、「それは一体、いつ来るのか」ということでしょう。弟子たちもそうでした。この質問に、イエスさまは様々な徴について語られました。戦争の騒ぎやその噂、飢饉や地震などの自然災害。教会への迫害、教会内部での争い。今朝の箇所の、大きな苦難や偽メシア/偽預言者の出現などです。ただ、最終的には弟子たちの質問に対してイエスさまは「知らない」と答えておられます。「その日、その時は、だれも知らない。…ただ、父だけがご存じである」(36節)と言われます。

 確かに、イエスさまがいつ戻って来られるのか分かりません。分からなくて当然。それは神様の領域に属することだからです。それでも確かなことは、そのときにこそイエスさまが再び来てくださる、そしてイエスさまをお送りくださるお方は慈しみ深い父なる神だ、ということです。だから信頼して、「目を覚ましていなさい」とイエスさまは諭されます。

 そして21世紀に生きるわたしたちも、今なお「世の終わり/終末」に生きています。終わりの苦しみを今、当時の教会の人々とは別の形で体験しています。戦争の騒ぎや戦争のうわさは、今ひときわ高まっています。集団的自衛権の行使容認が閣議決定されました。戦後の日本が日本国憲法の下で歩んできた基本的な姿勢が大きく変更され、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくないという不安を多くの人々が抱いています。「民は民に、国は国に敵対」することも、ウクライナを始めとする世界各地で起り、核兵器使用のリスクはむしろ増大し、この国も周囲の諸国との間にそういう難しい問題をかかえています。大地震が起り、聖書の時代の人々が知らなかった原発事故による放射能被害に今も苦しんでいます。食糧の問題も、飢饉やコロナウィルスさえもが外交的な駆け引きの手段となるような時代になりました。また、信仰ゆえにあからさまに迫害を受けるということはありませんが、政治家が、批判的な報道機関は経済的に締め上げをすればよいとか、「平和憲法を守ろう」と叫ぶ青年を「利己的だ」と批判するなど、次第に自由にものが言えない社会になってきていると感じます。この福音書が書かれた時代に教会の人々が感じていた苦しみは、いつの時代にもあり、今のわたしたちにもあるのです。

 それら苦しみはしかし、世の終わりが、何よりも神の国の到来が今、もうすでに始まっていることの徴です。世の終わり、神の国の完成がいつなのかは誰も知ることができません。だから、これらの苦しみが襲って来た時に「もうこの世も終わりだ」と慌てふためいてはならない、むしろ「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とイエスさまは教えられました。それは、イエス・キリストの愛の御手の中で、わたしたちも耐えて、しっかりと立ち続けて生きることができる、希望に向かって生きることができるのだ、という「幸い」の宣言でした。

 

■逃げなさい

 そんな幸いを宣言されたイエスさまが、今ここで、世の終わりに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことによって、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」その時には、16節、「逃げなさい」と教えられます。

 わたしたちはこれまでずっと、「逃げてはだめだ」、「逃げたらアカン」と教えられ、育てられてきました。ところが、イエスさまは今、「逃げなさい」と言われます。17節、18節でも、家に何かを取りに戻ることなく、一目散に逃げなさいと教えられています。19節、20節には、そのように急いで必死に逃げていく時に、身重の女性や乳飲み子を持つ女性は不幸だ、そのことが寒さ厳しい冬に起るなら、ますます大きな苦しみとなるだろう、と言われます。

 雪降る3月11日、恐ろしい大津波に襲われた東日本大震災では、まさにこの通りのことが起りました。それに加えて、目に見えない放射能からも逃げなければならず、身重の女性や乳飲み子を持つ女性たちは、まさに最も深い恐怖に慄(おのの)かなければなりませんでした。いつも弱い者こそが最も大きな苦難に見舞われる、そういう苦しみが11年経った今も続いていることを、わたしたちは覚え続けなければなりません。

 そうした世の終わりとも思える大きな苦しみに際して、とにもかくにも「逃げなさい」と教えられています。それは、直前13節の、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という教えと矛盾しているように思われるかもしれません。苦しみを耐え忍ぶとは、逃げずに踏み止まり、苦しみと戦っていくことではないのか、苦しみに背を向けて逃げろという教えと、苦しみを耐え忍べという教えは相入れないのではないかと思えます。

 しかし、そうではありません。ここで、逃げなさいというのは、自分の力で最後まで戦おうとするな、ということです。自分の力で苦しみと戦って勝利しなければ、神様の救いにあずかることができないなどということはありません。それは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という教えと矛盾することではありません。むしろそこにこそ、わたしたちへの神様の大きな愛と恵みが示されています。

 人生には様々な苦しみが伴います。その歩みは苦しみとの戦いの連続であり、そこには忍耐が必要です。耐え忍ぶことなしに、生きることはできません。けれども、その苦しみの中でわたしたちが忍耐することによって、救いがもたらされるというのではありません。わたしたちが苦しみと戦って、勝利して、救いを獲得するのではないのです。そんなことなど、わたしたちにはできません。たとえ今、苦しみの始まりに、ある程度忍耐して持ちこたえることができているとしても、その苦しみは世の終わりに向かってエスカレートしていくのです。その苦しみの頂点では、わたしたちは逃げるしかないのです。「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」のですから、その苦しみに打ち勝つことはわたしたちにはできません。逃げてよいのです。いえ、逃げるしかないのです。

 

■神の選び

 では、逃げるしかないわたしたちの救いは、どこにあるのでしょうか。22節にこうあります。

 「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」

 苦しみに打ち勝つことはできない、逃げるしかない、このままでは誰ひとり救われることのない、そんなわたしたちのために、神様が苦しみの期間を縮めてくださり、神様の愛と恵みによってわたしたちを救ってくださるのです。

 そのことは、「神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」というところにも示されます。神様が苦しみの期間を縮めてくださったのは、ご自分のものとして選んでくださった人々のためだったのです。わたしたちの救いは、神様の選びによるのだということです。

 ただ、この「神の選び」という教えは、間違って受け取られやすいものです。例えば、自分は神様に選ばれているのだと誇って他の人を見下したり、逆に、自分は選ばれていないのではないかと不安になったり、あの人は選ばれているのか、この人はどうかと詮索したり…ということはすべて、「神の選び」の教えを間違って捉えていることから起ることです。

 神の選びの教えが語っていることは、ただ一つ。

 わたしたちは、自分の力や努力や忍耐によって救いを獲得するのではなく、ただ神様の愛と恵みによって救われるのだ、ということです。その救いにあずかった人は、自分の中には救われるべき理由は何もない、自分が他の人よりも立派だったり、信仰が深かったりすることはないし、忍耐強いわけでもない、それこそ逃げることしかできない者だ、ということを知っています。そういう自分が救われたのは、神様が自分を愛と恵みによって選んでくださったからとしか言いようがない、と感じているのです。それが、神の選びの教えです。

 わたしたちの救いは、「選び」という言葉で言い表すしかない、神様の愛と恵みによって与えられる。そう、そのことが、世の終りの、誰も耐えられないような苦しみの中で、明らかになるのです。しかも、この恵みは、世の終わりに明らかになると同時に、既に与えられています。

 教会に来られていた一人の女性のことが思い出されます。夫が突然、彼女の目の前で倒れ、救急車で病院に運ばれました。病院での診断は「脳の中に膿みが溜まっている」ということでした。「このままでは良くない」とのことで、脳の手術をしました。手術は6時間のはずが、なぜか10時間もかかりました。

 不安の中、手術室の待合室で待っていた彼女のもとに先生が近づき、こう言います。「悪いところは全部取り切れました」。ありがとうございましたと、ほっとする彼女に告げられたのは思いもよらない言葉でした。「あと1年半のいのちです。末期の脳腫瘍です」。こども三人をかかえ、まだ40歳の夫。彼女は、どうしても治してあげたい、そう願い、心から祈りました。しかし半年で再発。もうその病院では「治療方法がない」と言われ、探しに探して、大阪で最先端の治療を受けられる幸運に巡り合えました。最先端の治療を4回も行いました。がしかし、最初の手術から1年半で亡くなりました。

 41歳。どんなに無念だっただろう。彼女の心もボロボロになりました。24時間一緒にいた人がこの世にいないことが、それほど辛いとは思いませんでした。彼女は、わたしにぽつりと呟きました、この世に神様はいない、と。その後、世界で一番不幸なのは自分だと思い、どうして先に死んでしまったのかと恨みに思いながらも、彼女は、残された三人のこどものために働き続けました。2年が過ぎて、彼女の顔に笑顔が戻り、目に柔らかさが漂うになりました。

 そのときのことを彼女はこう語ってくれました。

 幸せになりたいと願いました。答えは簡単でした。すべてを受け入れるということ。神様が与えてくださる絆を大切にすること。後悔しないように何でもチャレンジすること。夫が生きられなかった人生を精一杯生きること。そして、今、わたしは、素敵な仕事にめぐりあえ、神様が与えてくださるたくさんの友人がいます。わたしの仕事に理解を示し、応援してくれる子どもがいます。わたしは今、とても感謝して生きています。夫と人生が神様の豊かな恵みの中にあったように、今も、神様はわたしを見捨てていないと、感じています。

 彼女は、過去の恵みを数えるうちに、滅ぶほかなかった自分が、既にイエス・キリストの贖いによって、選ばれ、救われていたのだという、何よりも大きな恵みに気づかされたのでした。

 最後31節に、そのとき、「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。

 再び来られるイエスさまは、全世界から、選ばれた人たちを呼び集めてくださる。信心深い生活をして、苦しみを最後まで耐え忍んだ者が救いを獲得するのではなく、苦しみの中で逃げることしかできず、散らされた者たちが、イエスさまによって、もう一度呼び集められ、救いにあずかるのです。

 イエスさまの弟子たちもこの後、そのことを体験しました。イエスさまが捕えられた時には逃げ去ってしまった彼らが、復活のイエスさまによって、もう一度呼び集められ、最初の信仰者として立てられていったのです。弟子たちと同じように、わたしたちも自分の力強さや正しさによってではなくて、イエスさまによって選ばれ、呼び集められることによって、救いにあずかるのです。

 自分はこの「選ばれた人たち」の中に含まれるのだろうか、と不安に思う必要はありません。あなたは現に選ばれ、呼び集められているからこそ、ここに集められているのです。そのことを信じて、この世を生きて行く。そこにこそ、世の終わりに向かう苦しみを最後まで耐え忍ぶ力が与えられていくのです。