福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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7月5日 ≪聖霊降臨節第6主日礼拝≫ 『慌てふためくとき・・・』 マタイによる福音書8章23~27節 沖村裕史 牧師

7月5日 ≪聖霊降臨節第6主日礼拝≫ 『慌てふためくとき・・・』 マタイによる福音書8章23~27節 沖村裕史 牧師

■招かれる
 23節に「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。
 まず、イエスさまが舟に乗り込まれ、その後に続いて、弟子たちがその舟に乗り込む、という順番です。信仰に生きるということは、わたしたちが自分で準備し十分に整えた舟に、さらに確かな「お守り」のようにして、イエスさまをお迎えすることではなく、むしろその逆、イエスさまが乗っておられるその舟に、わたしたちの方が乗り込み、共に航海を始めること、それこそが信仰生活なのだ、ということでしょう。
 そのようにしてイエスさまに招かれ、従って、舟に乗り込んだ直後のことでした。
 「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」
 「そのとき」を直訳すれば、「すると見よ」です。あの重い皮膚病の人がやって来た時と同じく、予想外の事態が押し寄せてきたことを表す言葉です。イエスさまが舟を用意されていたのでしょうか。弟子たちは、イエスさまがお乗りなったその舟に乗り込むようにと招かれます。そして乗り込んだ結果、突然、激しい嵐に襲われ、その舟が波に飲み込まれそうになった、というのです。

■嵐の中
 ガリラヤ湖は、南北に21キロ、東西に13キロの、それも海抜マイナス213メートルという海よりも低い所にある、切り立った山に囲まれた、大きなお盆のような湖です。そのため、天気が少しでも変われば、たちまち風が強く吹く、よく荒れる湖でした。湖畔にある博物館には、数十年前に発掘された、イエスさまの時代の漁船が展示されています。当時のごく一般的な舟だと言います。写真を見ると、こんな粗末で小さな舟に乗って、よくもガリラヤ湖を渡って行こうとしたものだ、と驚かされます。
 もちろん、ガリラヤ湖で漁をしていたペトロたちも、そのことはよく知っていたはずです。空、雲、風、波の動きに目を凝らし、舟を進めていたことでしょう。しかし気づかぬうちに、嵐がすぐそこにまで忍び寄ってきていました。向こう岸に着くどころではありません。思いもかけない「激しい嵐」に襲われ、死の危険に晒されることになります。
 「激しい嵐」と訳されている言葉は「地震」と訳すべき言葉です。ただ、それでは意味が通じにくいため、マルコ、ルカ福音書に揃(そろ)えて「激しい嵐」と訳されていますが、マタイにとって、これは「地震」そのものです。終わりの時の天変地異としての地震(24:7)、イエスさまが十字架で殺された時に起こった地震(27:54)、そのイエスさまが復活された時の異変としての地震(28:2)です。マタイは、この嵐を、神に敵対する悪しき力として描き出そうしています。それほどまでに恐ろしい、そして邪悪な力が襲いかかります。大波が押し寄せては舟に流れ込み、ついには沈むばかりになります。
 ところが、そのようなときにも、イエスさまは舟の中で一人、ぐっすりと眠っておられます。弟子たちは慌てふためきます。そして必死に呼び起こします。
 「主よ、助けてください。おぼれそうです。」
 イエスさまのことを、神の御子として信頼をしていたというのではないようです。もしそうならば、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言うはずもありません。
 「あなたがこの舟で向こう岸に行けとお命じになったから、こんな災難にあっているのに。わたしたちは、こんなに一生懸命にがんばっているのに。ああ、もうどうしようもない。それなのに、それなのにあなたは、手を貸そうとしないばかりか、目を覚まそうとさえなさらない」。
 それでも、弟子たちの中には、「お守り」としてのイエスさまが乗っておられるから・・・と思った人もいたかも知れません。しかし、嵐は嵐として起こるのです。イエスさまというお守りがあるから嵐は起こらない、とは決して約束されていません。きっとこの時、多くの弟子たちは「こんなはずじゃなかった」と、イエスさまに従ったことを後悔したのではないでしょうか。
 わたしたちはどうでしょう。この世の生き方は「神抜き」の考え方によって成り立っています。そこでは「全てを統(す)べ治める神は不在」です。そのため、わたしたちの心の中には、「自分の力でどうにかしなくちゃ」という声が、いつも聞こえて来ます。当然、そうした心の中に平安はなく、次から次へと心配や不安、恐れが起こってきます。そして、そうした思いを払拭しようと、一層、真剣になり、努力をします。そして、がんばっているのに、これだけがんばってきたのに、どうして、と呟(つぶや)くことになるでしょう。途方にくれ、ああ、あの時、こうしていればよかった、ああしておけばよかった、そうだ、あの時、「向こう岸に行こう」とせず、あのままカファルナウムに残ればよかったのだ、と自らの境遇を嘆くばかりになってしまうでしょう。
 弟子たちの姿は、ひとごとではありません。耐えられない苦しみが重なって、神の姿、イエスさまの姿を見失い、どこにおられるのか、なぜ見捨てられるのか、とただ嘆くばかりになってしまいます。それが、わたしたちの姿です。

■静かに眠る
 しかし、その大きく揺れる小舟の中にあってなお、静かに眠っておられるイエスさまの姿は、それとは、いかにも対照的です。
 弟子たちが慌てふためいているのに対して、イエスさまはこの舟の中で平安の内に寝ておられます。弟子たちが死の危険すら感じている状況の中で、乳飲み子が母親の懐(ふところ)で安らぐように熟睡しておられます。
 イエスさまは、多くの人々に囲まれて生活をしておられました。神の国の福音を宣べ伝え、病気を癒し、悩みに答えて生きる日々でした。ご自身の働きによって、人々が新しくされ、救われていくことは、大きな喜びであったに違いありません。しかし一方で、イエスさまを取り囲む人々の中には、イエスさまに好意を寄せている人々ばかりではなく、批判的で、敵意剥き出しの人も数多くいました。毎日の激務に加え、そういった人々の存在が、イエスさまをどれだけ苦しめ、どれほど疲れさせたことでしょう。だからこそ、イエスさまも、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」、自分には安心して休み、安らぐことができる場所など、どこにもない、と言われたのでした。
 ところが、そう語られていたイエスさまが、眠っておられます。それも、嵐の中で。揺れ動く船の中で熟睡しておられるのです。
 わたしたちはここに、100パーセントでありながら、100パーセントとして、わたしたちと同じような肉体的な限界を持ちながら生きておられた、人の子としてのイエスさまを見ることができます。疲れを覚え、死んだように眠るイエスさま。そこに見るイエスさまの限界や弱さに、わたしは失望どころか、むしろ、親近感を覚えます。
 十字架の前の晩、苦しみながら祈っておられました。その肝心な時に、疲れがどっと押しせよ、睡魔に負けてしまった弟子たちをご覧になって、イエスさまは、「心は燃えていても、肉体は弱い」と言われました。その言葉の背景には、今日、ここにあるような、ご自分の体験があったのではないでしょうか。
 しかしそれ以上に、わたしたちが目を留めるべきは、イエスさまがぐっすりと眠ることができたのは、心の内に平安があったということです。
 眠りは、体が働きを止めた、最も無防備な状態ですから、人のあるがままの、その人らしい、本当の姿が露わになる時間です。とすれば、眠るということは信頼の行為だと申し上げてもよいでしょう。わたしたちは委ねる。すべてが上手くいくという証拠も何もないのに、誰もわたしたちを傷つけないと信じて初めてできること、それが眠ることです。逆に、平安がなければ眠ることなんかできません。「眠っている場合ではない」と思います。委ねることができないでいると、わたしたちの心は、思い煩いで一杯になります。「何かできないか?」、「何かできるのではないか?」、そして次に「じゃあ、どうしたらいいだろう」。そんなことを考え続けていたら、とても、ゆっくりと眠ることなどできません。
 そして、今、イエスさまは眠っておられます。
 「板子一枚下は地獄」という言葉があります。自分の身を横たえている板、その十数ミリ下は、何十メートルの深い湖です。それも嵐の中、小さな舟の中で眠ることができたのは、イエスさまにとって、たとえ、たとえ暴風雨の荒れ狂う湖の上であったとしても、そこは、父なる神の創られた世界の一部に変わりなく、それゆえに神の支配される所、神の領域であるとの信頼があったからではないでしょうか。
 そこが、突風の吹き降ろすような湖の上であっても、イエスさまにとっては、父なる神の懐(ふところ)に変わりなかったのです。父なる神のご支配のおよぶ、神の国の一部でした。これが、イエスさまの信仰でした。

■一緒に眠る
 そのイエスさまが、慌てふためき、心騒ぐわたしたちにこう言われます、
 「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
 神のみ心を怖れるな、神の愛を信じなさい、わたしを見なさい、そうイエスさまは語りかけ、教えてくださっています。これは、弟子たちを叱りつける言葉というよりも、まことの信仰への招きの言葉です。
 耐え難い苦難や労苦は、この世の、わたしたち人間のはかりにかければ、何の益にもならない、ただ避けたいと願うばかりのことですが、しかし、神の愛というはかり、神の国のはかりにかければ、それは、とても重く、とてもかけがえないものとなります。
 わたしたちのいのちは、存在は、いったい、だれから与えられたものでしょうか。自分の力で手に入れたものでしょうか。もちろん、そうではありません。いのちも、家族も、体も、人生も、信仰も、すべて与えられたとしか言いようのないものです。しかもそのお方は、考えられないほどの大きな愛で、わたしたちを包んでくださるお方だ、とイエスさまは教えてくださっています。それなのに、そのことを知らず、そのことを忘れて、自分だけを頼り、自分に囚われ、ただただ、不安と恐れ、諦めと絶望に支配される、わたしたちです。すでに備えられている可能性を、希望を、自分の手で押しつぶしてしまう、そんなわたしたちです。
 イエスさまがどのようなお方であり、どのような力をお持ちであるかを知っていたなら、弟子たちは、慌てふためく必要などなかったことでしょう。
 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(10:29-31)。
 このイエスさまのみ言葉を心から信じるなら、愛する独り子と、その独り子を与えるほどに愛してくださっている弟子たちの乗る舟が、どうして、天の父のお許しもなく、湖の底に沈むことなどあるでしょうか。天の父の許しがなければ、1羽の雀も地に落ちることはないのです。この神の無限の愛、無限の力に対する深い信頼が、この時の弟子たちにあったならば、弟子たちの態度は、ほんの少しだけでも、変わっていたに違いありません。
 この真実に弟子たちが気づき、イエスさまを単なる「お守り」としてではなく、「愛のお方」として信じることができていたら、彼らは、決して慌てふためくことなく、落ち着いて対処することができたことでしょう。舟に水が侵入してきたら、掻(か)い出せばよかったのです。バランスが崩れかけ、重さで沈みそうであれば、余計な荷物を湖に捨てればよかったのです。「人事を尽くして天命を待つ」の理(ことわり)どおり、まず自分自身でなしうる最善を尽くして、信じる力をもって耐え忍んでおけば、そのうちに、嵐も過ぎ去ったはずです。
 いえ、誤解を恐れずに申し上げるなら、弟子たちは、イエスさまと一緒に眠っていてもよかったのです。そんなと思われるかもしれません。しかし現に、イエスさまが目の前で寝ておられるのです。弟子たちは、イエスさまが今ここで寝ておられるという事実、現実に、その信仰に気づくべきでした。そして、「ああ、大丈夫なんだ。心配しなくていいんだ。イエスさまがそこまで信じて眠っておられるのだから、わたしも信じよう。信じて、一緒に寝てしまおう」と思えばよかったのです。
 イエスさまと一緒にぐっすり眠る。なんという平安でしょう。そうして、イエスさまと一緒に寝てるうちに、風は止み、凪になり、「ああ、よく寝た」と起きた頃には、きっと「向こう岸」に着いていたるとでしょう。
 このとき、行き着く先、向こう岸はもちろん、天の国です。それが、この世の天国か、死後の天国か、どちらでもいいことです。生きるも死ぬも、神のお望みのまま。わたしたちは、いのちを落とすかもしれないというような人生最後の究極の嵐の時にこそ、向こう岸に着くまで、ぐっすり寝て過ごしたいものです。騒ぎ立てず、静かにイエスさまと一緒に過ごしたいものです。  
 そして再び、このお方と共に目覚め、日々歩むことができるのです。そういう舟に、わたしたちを招いてくださっているのです。マタイは言います。「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」。わたしたちも、このイエスさまが用意された舟に乗って、主の導きに従って歩む一週間でありたいと願います。

お祈ります。愛の主よ、あなたがまるで生きておられないかのように、慌てふためき、ゆれ動き、不安を抱いてしまう心があります。どうかあなたが、そんなわたしたちを招き、励まし、叱りつけてください。イエスさまご自身がわたしたちの心を開いて、あなたの恵みに立ち続けることができますように。自分の思い、こだわりを捨て、あなたが命じられるみ業に、共に手を携えて生きる喜びを、どうぞ一人ひとりに与えてくださいますように。主のみ名によって。アーメン。