福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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8月1日 ≪聖霊降臨節第11主日/平和聖日礼拝≫ 『天が裂けても』 エゼキエル書12章21~28節 沖村裕史 牧師

8月1日 ≪聖霊降臨節第11主日/平和聖日礼拝≫ 『天が裂けても』 エゼキエル書12章21~28節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏    汝、平和の君、主イエス・キリストよ (J.B.バッハ)
讃美歌    12 (1,3節)
招 詞    ヤコブ 1章19~21節
信仰告白  使徒信条
讃美歌    372 (2,3節)
リタニー         懺悔の祈り(別紙)
聖 書    エゼキエル書12章21~28節 (旧1311p.)
讃美歌    580 (1,3節)
説 教    「天が裂けても」沖村 裕史
祈 祷
献 金    64
主の祈り
報 告
讃美歌    521 (2,4節)
祝 祷
後 奏    天は喜び 地は踊る (D.ツィポリ)

≪説 教≫

■これはみんなウソだ!

 エゼキエルの時代、バビロニア帝国によって国を滅ぼされ、異郷の地バビロンへと移住させられていた人々は、大きな問題に直面していました。その問題とは、自分たちの宗教、正しいと信じてきたもの、価値観、目にしてきたものすべてが、何の意味もないものとなってしまったのではないか、いや、それらはそもそも、全くの欺瞞ではなかったのか、ということです。後に、バビロニア帝国から解放されることになるイスラエルの歴史を知っているわたしたちは、当時の人々のことを、愚かで弱く、実に不信仰な人々であったと思うかもしれません。しかし、わたしたちが同じような状況に置かれるとき、例えば、76年前のあの敗戦前後の混乱、無力感、そして絶望を思い起こせば、イスラエルの人々のことを簡単に批判することなど、とてもできないでしょう。

 鶴見俊介編著『廃墟の中から』という本の中に、「中学生の焼跡探検」と題される一文が収められています。

 時は1945年3月10日。前日の9日午後10時半から10日午前2時半までの4時間にわたって、B29型爆撃機を主力とする米軍飛行機、350機が東京を襲いました。雪の降りしきる中、東京中央部、南部に火は燃え広がり、家を失う者100万、死傷者は12万にも及びました。

 中学三年生の小沢信男は、混乱の中をともかくも動員先の工場まで出かけました。休み時間は爆撃の噂でもちきりです。彼は同級生のヤモンとしめしあわせ、仕事終わりのベルが鳴るやいなや、焼跡視察の旅に乗り出しました。

 「神田駅のホームに降りたつやいなや、ぼくらはおもわず嘆声を発した。ヤモンは両手をひろげて叫んだ。『地平線が見えらあ!』ホームのへりに立ったぼくらの足もとから、遠く荒川の方向へ、目の届く限り一面の焼野原で、まるで地球の裏側までこの焼跡はうちつづいているようだった。『こりやぁ、たいへんだぞ』とぼくは言った。『ひでえ、ひでえ』とヤモンは応じた。…」

 「この焦土の中には、どれほどの生活必需品やら贅沢品やら買溜め物資やらが吸いこまれてしまったものか。ぼくはせめて地面に吸われ残った焼けこげの品物たちを、いちいち靴先でけとばしながら、つくづく腹の底から声が出た。『もったいねえなあ。』ヤモンもすかさず唱和した。『もったいねえ。あア、もったいねえ。』ぼくらはもったいねえの合唱をしながら、ずんずん焼跡を突っ切って歩いた。…日頃いっしょうけんめいケチケチと暮らしているのに、一方でこうむやみと焼かれてしまっては、まるでなんにもならないバカバカしさとなさけなさとくやしさが交錯してやりきれなかった。…」

 「その時ヤモンが、ぼくの背中をゲンコツで力いっぱいこづいた。とびあがってふりむくと、ヤモンは眼を三角にとがらせて『見たか!』と叫んだ。またすばしこくなにかを見つけたらしかった。

 『いまのトラックか。』『そうだ。』『なんだ?』『バカ!』

 ヤモンはひとりでイキんで顔を紅潮させ、舌打ちしてプイと向うをむき、手で合図しながら『ほら、また来たぞ。あの車もきっとそうだ。よく見ろよ』と言った。そのトラックは荷台の枠が外れていたので、今度はぼくにもよく見えた。…みるみるぼくの眼玉も三角にとがり、便意をもよおす時のように体中がイキんでくるのをおさえられなかった。

 息をこらして待ちかまえていると、同じようなトラックは、三台も五台も走ってくる。どれもみな荷台に死体を平らに並べて寝かし、焼トタンや板切れをかぶせていたけれども、あいにく死体たちは脚をつきあげたり、腕をにゅっとのばしたり、体ごとへんによじれて焼トタンを押しあげたりしているので、枠からはみだしてチラチラと見えるのだった。…ぼくはもう気味悪さをかくす気もなかったが、こう束にしてこられると、気味悪さも応接しかねて、いらいらと不愉快な腹立たしさに変わってゆくらしかった。…」

 「〔しばらくして〕ぼくはどうやら気分転換に成功したらしいが、そうすると、なんだかだまされたような気もするのだった。ぼくは自分があんなふうに丸焼けになると思うことに堪えられず、自分だけはぜったいにああはならないと思いこんでこの世の側にしがみついていたいのだった。けれども、眼に見えるものがどれもこれも、…つまりこの世の側のものはみな一斉にそう思い込み、またはおたがいにそう思い込ませにかかっているのではあるまいか。だからいったんウラが出たら、つまりなにかの衝撃(ショック)を与えれば、一瞬後にはこの代々木駅もただの焼け錆(さ)びの鉄骨になって、その鉄骨のところどころに丸焼きがひっかかっているかもしれないではないか。

 いまのぼくの、眼をこすってもこすっても鼻から先はほんとうは見えていないようなこのいらだちは、だからことばにするならば、じれったそうに(これはみんなウソだ!)と叫びだすかもしれなかった。そしてぼくは、しきりと、じぶんがひとりぼっちだという気がして寒かった。……」(小沢信男「徽章と靴」、沖村〔 〕補足)

 天が裂けたかのような出来事によって、一瞬にしてすべてを失い、大切なものを、大切にしてきたものを奪われたと思い知らされるとき、わたしたちもきっと同じ呟きを口にすることでしょう。

 この中学生の混乱と無力感と絶望がイスラエルの人々の問いと重なります。

 エゼキエルの時代まで信仰の拠り所となっていた、イスラエルという国も、約束の乳と蜜の流れる土地も、その二つのいずれもが目の前で奪われ、失われてしまった。自分の罪、そしてまた先祖の罪があまりに重かったので、神はついに、わたしたちを見捨ててしまわれたのではないか。

 この問いに対して、エゼキエルは確かに破局と裁きを語りますが、それで終わりというのではありません。彼の信仰とメッセージは、その過酷な現実を受け入れ、それを乗り越えようとするものでした。

 エゼキエルにとって、神は、具体的な呼び名、たとえば「父よ」と親しく呼びかけることのできるような存在ではありません。神は、その力においてもその聖さにおいても、わたしたち人間から掛け離れている、まさに超越的な「他者」です。それでもなお、たとえ神が、わたしたちから掛け離れた、絶対的な他者としての存在であっても、エゼキエルにとって神は、神と人間との関係の内に見出され、そこに働いてくださるお方でした。

 しかし今、目の前に見える現実は、それとは程遠いものにしか見えません。それでもなお、エゼキエルは希望のメッセージを語ります。それは、人間に対する楽観的な期待ゆえではなく、神の愛と赦しとは決して尽きることがないという、神への深い信頼に基づくものでした。

 この非凡な書がわたしたちに語りかけるもの、それはまさに希望そのものでした。

 

■滅びと救いの現実

 とはいえ「預言」というものは本来、警告の言葉です。そこではいつも、神の裁きが語られます。そのため、聞く人々からは様々な抵抗に遭わざるを得ません。エゼキエルの預言に、人々は強い不快感を抱きました。さきほどのみ言葉の中に引用される「諺(ことわざ)」に、預言に対する人々の根深い反感を読み取ることができます。

 第一の諺、「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」は、そのヘブライ語の持つ簡潔さを生かして訳すなら、「時は過ぎ、何事も起らない」となります。要は、預言者の言葉など真剣に受けとめる必要はない、ということです。預言者たちは、いつも恐ろしい災いの警告をしたけれど、一度でも何か起こったことがあっただろうか、何も起っていないではないか。確かに、預言の多くが現実のものとなることはありませんでした。しかし、しかしその時すでに、イスラエルの人々は現実に、言葉にならぬほどの苦難に見舞われていたのです。それなのに、何事も起こらないという反応は、如何にも愚かです。

 神はエゼキエルに命じ、人々の頑なさを根底から突き崩そうとされます。エゼキエルは先程の諺に対し、「その日は近く、幻はすべて実現する」、つまり「時は近づいた。すべての事が起ろうとしている」と預言します。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスさまの第一声が思い起こされます。イエスさまがそこで語っておられることもまた、エゼキエルの預言と同じ、終わり時の裁きではなく、過酷な現実の只中にこそ、神の約束が、神の国が、神の救いの御手が、今ここに差し出されている、という希望でした。

 第二の諺は、「彼の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである」というものでした。「預言の成就は遠い将来のことだ」というこの諺は、預言は真実ではない、偽りだと言う代りに、預言の成就はずっと先である、と語ります。今はまだ、そんなに思い煩う必要などない。核による危機や地球の環境破壊といった、思い煩いとなるこの世の深刻な問題は、子孫たちにまかせればいいではないか、ということです。

 預言者はしかし、この諺も否定します。それは今、あなたがたの時代に起っていること、現実ではないか。神の言葉は決して偽りではない。そのことは、その言葉が成就される時に明らかになる。それが遠い未来ではないことは、すぐにわかるだろう。滅びも、そして救いもまた、今ここに現実のものとなっているのだから、と。他の誰よりも、囚われの民であるイスラエルは、預言は成就しないとか、遠い未来のことだと言うことが、どれほど愚かなことであるかを弁えるべきでした。

 そしてこの預言の言葉は、わたしたちにも、いえ、今のわたしたちにこそ向けられています。「そんなことは起らない。ともかく、わたしの生きている間には…」。見たい現実だけを見て、見たくない現実は見ようとしない。現実を見ているようで実は見ていない、見ようとしない。そういう姿が、わたしたちの遠ざけたいと願っている裁きを招き寄せ、近づきたいと願っている救いを遠ざけることになります。

 裁きを告げる預言の言葉が実は、神の愛による恵みの言葉であるということを忘れてはなりません。天が裂けてもなお、その言葉に従うならば希望が生れ、逆にそれを聞こうとしなければ災いが生れます。

 

■焼跡のヒロシマ

 76年前、同じ「焼跡」の中にあったヒロシマの信徒たちも、この預言者のメッセージを自分たちへの神の言葉として聞き取っていました。

 広島で被爆した一人の牧師が書き残した手記の中に、1945年9月の日付とともに、「原爆」と題を付けられたこんな一文が記されています。

 「罹災後一ヶ月以内に実に多くの人が死んだ。牛田地区に避難していた負傷者も傷の手当てを受けつつ次々に死んで行った。牛田では数カ所で死体を焼いていた。牛田の中央部にある小公園はその一つであるが、私はよくその側を通過したので、そこの状態が一番印象に残っている。毎日いつ通っても三つ、四つ火葬していた。(略)」

 死がまるで当たり前のようにして普段の生活を覆い尽くし、日々生きることが奇跡のような、そんなある日のことです。9月12日付、

 「きょう久しぶりに牧師館の焼跡に立寄った。戦時中私は庭の石灯籠や花を除けて畑を作った。しばらく来なかった〔その〕畑にナスの木二、三本、そして手頃の果実一つを見つけて、歓声あげて歓んだ!茎は焼けても、土の中に残っていた根がまだ生きていたのだ。やがてそれが芽をふき、花を咲かせ実を結ぶに至ったのである。広島は70年人の住めない所だと恐れられていたのにも関らず、植物は廃墟の中から更正、生きているのではないか!!

 私は此の果実一つをもぎ取ってポケットに収めた。そして、その足で白島の逓信病院にゆき、M夫人を見舞った。彼女の眼球は取り出されていたが、その手術の経過は一進一退で、今尚、危険状態であった。私は彼女のふるえる手に、焼跡から持ち帰ったナスの果実を握らせ、『御覧なさい。此のナスは灰の中から芽を出して、立派に実を結んだのです。貴女も此のナスのように原子爆弾に打ち勝って下さい。』と励ました。彼女はツヤツヤと紫色に光る美しいナスをやぶにらみに眺め乍ら『まあ、そう』とにっこり笑った。

 付添いのIの話に依ると、行方不明であった末子(すえっこ)K〔女学院高女部一年生13才〕は、8月7日、被服廠に収容されている所を彼女の父に発見された。雑魚場町(ざこばちょう)に於て、家屋疎開作業中に罹災したのであった。高熱に浮かされて臥せっていた。時に意識を回復しては『御民われ』『愛国行進曲』を高らかに唱う。彼女の周囲に苦しんでいる人々も彼女の此の凛々しい掛声に励まされて、うめき声もパッタリ止(と)めた。

 彼女を自家(じたく)に連れ帰るため父が彼女を背負わんとして彼女の背中に手をやったときハッと驚いた。背一面火傷して、それが化膿しているのだ。その翌朝、彼女は父に水を求め、一口呑んで絶命した。

 私はKのため、彼女の母の頭枕(まくらもと)に祈って別れを告げた。」(沖村ルビ・〔 〕補足)

 原子爆弾によって、言葉にすることもできない苦しみ、悲しみを味わった人々の、そのときの思いはどのようなものだったのか。9月15日付によれば、娘と孫を亡くした教会員を訪ねての追悼祈祷の後、信徒であった弟が牧師にこんな言葉をかけました。

 「今後、私共の出方一つで此の犠牲を活かしも殺しもする。敗戦は必ずしも悲しくはない。日本を悔改めさするための神与の戒めである」と。

 原爆投下から一年後の8月6日、瓦礫と化した広島流川教会に集まった市内諸教会の信徒たちが作成した「平和宣言」の冒頭の一句が思い起こされます。

 「一つ、我らは戦争の惨禍の防止に対し、力弱くして為す無かりし過去、衷心より懺悔す。」

 言葉にできぬほどの過酷な体験をし、かろうじて生き残った被爆者たち。アメリカを憎み、戦時下の指導者たちの過ちを告発してしかるべき彼らが、文字通り、天が裂けたかのような惨禍を身に染みて味わいながらも、いえ、であればこそ、そこに神が働いておられることを確信し、憎しみや敵意ではなく、戦争を止めることのできなかった自分たちの罪を懺悔し、主の平和を心から祈り求めたのでした。

■生きる現実の神

 これこそ、聖書日課でエゼキエル書と共に与えられている御言葉の中で、パウロが語った、「生ける神に立ち帰る」ということです。

 「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」(Ⅰテサロニケ1:9)

 「生けるまことの神」の「まこと」というひらがなに、皆さんは、どんな漢字を思い浮かべるでしょうか。「真実」や「真理」という文字を思い描いた方が多いかもしれません。しかしここで、もうひとつ思い起こしていただきたいのは「現実」という文字です。本当のこと、真理とは呼べるものの、まだ現実になっていないものもあるかもしれません。しかし、ここで語られる「まこと」「真理」とは、「現実」、わたしたちの「現実そのもの」のことです。

 わたしたちにとっての問題は、この真理を現実として生きていないということにあります。現実に生きるということと、真理に生きることとがひとつにならない。真理に生きるとは、「建前」に生きることであり、「本音」に生きる現実的な生き方は、それとは矛盾したものでしかないと思うのが、わたしたちの日常の感覚であり、知恵とさえなっています。

 お金は汚いものだと子どもに教えます。お金がこの世を醜くするものであることをわたしたちは知っています。しかしまた、お金ぐらい現実的な力を持つものはないとも思っています。愛とか正義といった真理が、この世の中で最も力を持つことを願いながら、実は、この金銭の示す現実の前では、これらの真理がかすんでしまっているように思わざるを得なくなります。そういう考え方に慣れています。それで、世間を知っていると自負する者は、理想に燃え、真理を求めて生きていこうとする人に対して、偽善者だとか、世の中はそんなに甘くないなどと言います。そのようにして、真理と現実をバラバラに離して考えるようになります。それが世間を知ることだ、と思っています。真理とは夢のような美しい理想の世界に過ぎない、人間の世界の現実はむしろ、わたしたちを打ちのめすようなものだと考えてしまいます。

 しかし、そのような現実の中に立ちながら、パウロもまた、エゼキエルと同じように、わたしたちは絶望しなくてよい、真理の神は今ここに、現実に生きて働いておられる、と語るのです。

 そう、イエスさまが言われるように、確かに、神の国が、神の救いが、今ここにもたらされています。この世の現実は、今もここで、生けるまことの神の愛のみ業に支えられています。その現実に生きるということこそ、わたしたちが信仰に生きるということなのです。

 わたしたちのどんな理想も、決して現実にはかないません。なぜなら、理想はすべてわたしたちの頭の中のことで、頭の中はそれほど正しくも、美しくもないからです。理想は人間がつくったもので、現実は人間以上の力―神が創っておられるのです。だから、理想より現実の方が尊いのです。受け入れがたい現実、認めたくない自分に、そっと呟きましょう、「これが、わたしだ」と。そのとききっと、「そう、それがきみだ。それを生きろ」と神が励ましてくださるはずです。

 どんなときにも、神がみ顔を向けてくださっているのですから、わたしたちは何も恐れる必要はありません。愛のみ手を差し伸べてくださっている神を信頼し、「天が裂けても大丈夫!」と、現実をあるがままに受け入れ、現実から目を背けず、なお希望を失うことなく生きて参りましょう。生けるまことの神の愛に支えられつつ、わたしたちが今ここに与えられている現実に生かされ生きている、この恵みを感謝し、主の平和を祈り求める者となることができれば、と心から願う次第です。