福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月21日 ≪聖霊降臨第12主日礼拝≫ 『涙のキッス』 ルカによる福音書7章36〜50節 井ノ森高詩 役員

8月21日 ≪聖霊降臨第12主日礼拝≫ 『涙のキッス』 ルカによる福音書7章36〜50節 井ノ森高詩 役員

 最近は録画したドラマや映画を2倍速、あるいは4倍速で手早く視聴する人が増えているそうです。限られた時間の中で手っ取り早くストーリーを把握するには便利な方法です。味気ないものだなと思いつつ、毎朝新聞を斜め読みする私と大して変わらないのかもしれません。しかし、世の中のニュースを素早く確認する新聞の斜め読みと、芸術作品である映画やドラマの倍速鑑賞はちょっと違うんじゃないの、と長年高校演劇に顧問として関わってきた私は言いたくなります。セリフがないときの役者の細かい演技や目線・表情、あるいはセリフとセリフの間の意味のある沈黙に込められた作り手の意図や狙いが、倍速鑑賞では味わってもらえません。

 聖書を斜め読みする人は多くはないかと思いますが、これまでに何度も読んだことのある個所は、「わかってる、わかってる」とついつい倍速鑑賞ならぬ倍速読みになってしまうことがあるかもしれません。今日はルカによる福音書7章の36節~50節を、慌てず焦らずじっくりと皆さんと読み直していきたいと思います。「罪深い女を赦す」という小見出しがつけられたこの個所とよく似た話がマタイ26章、マルコ14章、ヨハネ12章にも登場しますが、このルカによる福音書の7章とは別な話だということをご存知でしょうか。まず設定されている場所ですが、ルカの7章がガリラヤであるのに対し、他の3つの福音書ではいずれもベタニヤとなっています。登場人物も違います。ルカでは、ファリサイ派のシモンと一人の罪深い女、とありますが、マタイとマルコでは、らい病の人シモンと一人の女であり、ヨハネでは、ラザロとその姉妹マルタ・マリアです。他の3つの福音書では女性がイエス様の頭に油を注ぎますが、ルカでは頭ではなく足です。まとめるとこういうことになります。マタイ、マルコ、ヨハネがエルサレム近くのベタニヤにおいて十字架につけられる数日前のイエス様が頭に油を注がれ、その行為が埋葬の準備の暗示となっているのに対して、ルカは故郷のガリラヤ地方における宣教活動初期のエピソードを紹介しています。そして、足に塗られた油は罪深い女の悔い改めと愛の表現と捉えられています。
 
 余談ですが、ルカ7章のこの罪深い女の名前は一切語られていないにも関わらず、どういうわけか、マグダラのマリアで娼婦だったという誤解や思い込みがあるようです。直後の8章2節に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という記述があるせいかもしれません。マグダラのマリアはその後、イエス様が十字架で亡くなるのを遠くから見守った女性たちの一人として(マタイ27章)、またイエス様の復活を弟子たちに最初に知らせた婦人たちの一人として(ルカ24章)登場します。東方教会では聖人として扱われているようです。

 さて、ルカによる福音書7章の「罪深い女を赦す」に戻りましょう。私がもし、映画監督としてあるいは舞台の監督としてこの場面を演出するなら、ここにこだわりたいという個所を何点かご紹介したいと思います。
 まず38節です。女は「後ろから」「足元に近寄り」なんです。真正面から正対できるような立場にないという気持ちの表れでしょう、そして足もとに近づくためには、地を這うように頭を下げて少しずつゆっくりと移動したはずです。「泣きながら」の泣くはむせび泣く泣き方です。そのすすり泣く声、というか嗚咽はイエス様にも聞こえていたのではないでしょうか。彼女の頭部がようやくイエス様の足を覆ったかと思った次の瞬間、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ち、イエスの足の汚れを落とします。今のように道路が舗装されていたわけでもなく、現代のような靴を履いていたわけでもない当時の人々の足は当然土や泥で汚れていたはずです。涙で濡れたイエス様の足、タオルがあれば、足の汚れと水分を拭き取るところですが、彼女はなんと自分の髪の毛で、その汚れと涙をぬぐい、しまいには足にキッスしてしまうのです。そして香油でイエスの足を塗るのです。舞台で演じられているのだとすると、客席から彼女の表情を伺うことは、最前列の席からでも非常に困難です。従って、この女性を演じる役者さんには、地を這うような動きに加えて、イエス様に対する恐れ、悔い改めと赦して欲しいという必死さ、そして赦される喜びや安心感を全身で表現してもらいます。彼女にはなんせセリフがないのです。動きで表現するしかありません。少し飛びますが48節でイエス様は「あなたの罪は赦された」と宣言されますが、37節の段階で彼女がゆっくりと背後から近づいてきていることを、そして自分の涙で足の汚れを洗うだけでなく、その汚れを髪の毛で拭うという行為に出ることを見抜いておられたのではないでしょうか。この時すでにイエス様は彼女の罪をその信仰が故に赦されていたのではないでしょうか。普通、誰かが背後から近づいてきて、足に触ったら、誰だって驚いて顔の表情や体の動きでその驚きを表します。しかしイエス様が驚くこともなく、咎めることもなく、なされるがまま足の汚れを洗わせてくれたのです。この時点で彼女が「赦し」を実感したかどうかはわかりません。彼女は48節の「あなたの罪は赦された」という言葉で初めてイエス様による赦しを知ったのかもしれませんが、イエス様は38節の時点ですでに赦しをお与えになっていたのではないかと思うのです。

 ところで、今日の説教タイトルが、サザンオールスターズのヒット曲「涙のキッス」と同じであることにお気づきの方もおられるかと思います。偶然ではなく、わざとこのタイトルにしました。言葉の遊びです。しかし、サザンの「涙のキッス」は、忘れられない恋心や別れた相手へ未練を切々と歌います。私も好きですよ。サザンの「涙のキッス」。カラオケで歌ったこともあります。今日はやめておきます。というのも、ルカによる福音書7章の女性の「涙のキッス」とは状況に意味もまるで違うからです。

 次に39節以降のシモンさんを見ていきましょう。注目すべきは、シモンは言った、ではなく、思った、なのです。シモンを演じる役者さんにお願いしたいのは、この「思い」を表情で表現してもらうことです。罪深い女の接近や涙のキッスに対し咎めることも何もしないイエス様を見て「いったい、この先生は何を考えているのか」という驚き、困惑、ひょっとしたら落胆、拒絶、軽蔑が入り混じったような複雑な表情が求められます。これはかなりの力量が必要です。シモン役の役者には更なる課題が待ち受けています。金貸しが借金を帳消しにする譬えを聞いているときのシモンの反応もこれまた難しい。41節、42節の例え話を聞きて、イエス様からの問に「額の多いほうだと思います」と答える時、そして「そのとおりだ」と言われたとき、更に44節~47節のイエス様の言葉を聞くとき、シモン役に求められる、演じて欲しい気持ちは何でしょうか。驚きや困惑に加え、納得する気持ちや怒りもそこに同居するような複雑な思いを表す必要があります。

 イエス様を演じる役者さんは一番気の毒です。冷静さ、と言っても冷たさを感じさせない冷静さと安心感、すべての人に対する優しい眼差し、わかっていても罪に飲み込まれていく人類に対する悲しみ、そして赦しの心の広さ大きさを演じ切らなくてはいけません。44節から47節のシモンに向けられた言葉は字面を追うと厳しいものですが、語る役者は厳しさの中に温かさを感じさせなければなりません。古い映画ですが「ベンハー」をご存知の方は多いですよね。チャールトン・ヘストン主演の歴史巨編です。映画の中で何度かイエス様が登場する場面がありましたが、いずれも後ろ姿だけとか、足だけとか、顔は映りませんでした。イエス様の表情を映像化する難しさを製作者も監督も十分にわかっていたのではないかと思います。

 今日のお話の内容について、沖村先生とは何も打ち合わせをしていませんが、準備の過程で、先週14日の沖村先生の説教と、そして来週28日の信徒研修会と何らかの繋がりがあるように思えてきました。

 先週の説教は「扉は開いている」でした。もう一度37節に戻ってみましょう。シモンが軽蔑するこの女性は何故、するすると食事の部屋に入り、そして賓客であるイエス様の背後から接近することができたのでしょうか。現代のセキュリティから考えると大変不思議です。この家の家族は誰も彼女が家に入るのを止めなかったのです。その場にいたであろう弟子たちも、彼女のイエス様への背後からの接近を阻止しなかったのです。警護対象の背後の警備が重要であることは先月の事件でも注目を集めました。しかし、ここで聖書が言わんとしているのは、セキュリティの問題ではありません。悔い改めて罪の赦しを求めるひとをイエス様は拒まないということです。イエス様への扉は、救いへの扉は開いているよ、どうぞお入りなさい、というメッセージがこの37節から読み取れます。それから、彼女が涙でイエス様の足を濡らし、髪でぬぐって足にキッスをした時点でイエス様は彼女の罪を赦していたのでは、と先ほど申しましたが、これは洗礼の一つの型なのではないでしょうか。もし仮に彼女が世間で思われているようにマグダラのマリアだったとして、マリアがその後ずっとイエス様にその死や復活、昇天にいたるまで従って生きていったとするなら、この出会いは彼女の人生な大転換点であったわけです。福音書には、洗礼者ヨハネからイエス様自身が洗礼を受ける場面(マタイ3章)はあっても、弟子たちが洗礼を受けるという場面はありません。

 私事ですが、私の父は、1985年、私とほぼ同時期に教会に通い始めました。私は大学3年、東京で、父は58歳、当時平松牧師がいらした直方教会に田川から通いました。洗礼を受けることなく63歳で急死しました。洗礼は受けないままでした。しかし、亡くなる数か月前に東京在住のドイツ人宣教師ベックさんの家庭集会で「イエスキリストを救い主として受け入れます」と話していたらしいのです。父が亡くなった翌年、東京吉祥寺から家庭集会のために再び北九州にいらしたベック先生から直接その時の様子を聞いた私にとって、父はキリスト者です。大園先生にお願いしてキリスト教式の葬式でクリスチャンとして天国に見送ったことを今も正しい選択だったと思っています。来週の信徒研修会は洗礼について、洗礼式のあり方について改めて学ぶ予定です。私のこの解釈とどうつながるかは全くわかりませんが、ルカ7章の罪深い女は、現代の教会で行われる洗礼を受けていなくても、私はこの時点で洗礼を受けたキリスト者としての人生を歩み始めたのではないかと思えます。

 さて演出者などと偉そうなことを言って、演じる役者さんにあれやこれや注文をつけるという話をしてきましたが、もし私自身がこの7章の中の誰を演じるなら、と最後に考えてみました。答えは簡単です、ある時はシモンであり、ある時は49節の同席者たちの中の一人であり、またある時は罪深い女です。

 いや、ひょっとしたらいつも同時にこの3つの立場を持ちながら人生を歩んでいるのかもしれません。決まりを守らない、あのだらしない奴はけしからん、という言葉を発し、その非難を行動で表したかと思えば、あぁまたやっちゃった、と恐る恐る反省し、神様に赦しを請い、でも時には開き直って、そうは言ってもやってられんわ、と悪態をつき、の繰り返しです。出来ることならば、このルカ7章の女性のもっている謙虚さ、畏敬の念、そして何度でも赦してくださる神様に対する愛情を表現できる信仰生活を、イエス様の足の指先に涙のキッスをする信仰生活を送り続けたいものです。お祈りします。