福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月28日 ≪聖霊降臨第13主日礼拝≫ 『きみのこと知ってるよ!』 ローマの信徒への手紙11章25〜36節 沖村 裕史 牧師

8月28日 ≪聖霊降臨第13主日礼拝≫ 『きみのこと知ってるよ!』 ローマの信徒への手紙11章25〜36節 沖村 裕史 牧師

説教

■沈黙するとき

 口を閉ざすこと、沈黙とは、単に話すことをやめることではありません。沈黙は本来、積極的で根源的な行為です。

 人は黙ることをやめたとき、最も雄弁に語り出します。しかしそこで語られる内容の多くは、なんと空疎で、冗長なものであることでしょうか。大半は、愚痴か、文句か、弁解か、自慢か、ウソか、お愛想か、です。

 言葉が空しく響くのは、なぜでしょう。それは、語られる言葉が豊饒なる沈黙の世界に根ざしていないからです。人は、きちんと黙るということがなければ、きちんと語れないのです。どのように語ろうかと意気込む前に、わたしたちはまず、豊かに黙することをこそ大切にすべきです。

 沈黙を背後に持たない言葉は、人を傷つけ、争いを生みます。そのような言葉はどんなに重ねられても、人を癒すことはありません。どこまで語り合っても、理解し合えません。いつも孤独を生むのは、沈黙ではなく、言葉です。

 心に渦巻く言葉を鎮めて、沈黙するときこそ、本来の自分自身を見いだすときであり、初めて他者に、それも絶対的な他者に出会えるときです。迷ったとき、行き詰まったとき、最も苦しいときは、言葉でごまかさずに、まず沈黙することです。深く、静かに、ゆったり。その沈黙の中で初めて、わたしたちは神様と出会うことができ、そのとき初めて、神様の愛を知ることになります。

 

■秘められた計画

 今、パウロもまた、深く、静かに、ゆったりと、親しみを込めて「兄弟たち」と呼びかけ、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と語り始めます。「ぜひ知ってもらいたい」、どうしてもわきまえてほしい。そうパウロが語り、願っているのは、「秘められた計画」についてです。

 「秘められた計画」と訳されている言葉は、ギリシア語の「ミスチューリオン」。今日のミステリーという言葉の語源となるものですが、もともとは、「閉じる、閉ざす」という意味を持つ言葉です。では一体、何を閉ざすのか。「口を」です。「黙る」ということです。つまり、沈黙の中でこそ知りえることについて、です。

 パウロがここで語る「秘められた計画」とは、誰も聞いてはいけない、見てもいけない、資格のない者は触れてもいけないといった、「秘儀」を意味するものではありません。続く26節に「全イスラエルが救われるということです」とあるように、それは、イエス・キリストによる救いそのものを指し示す言葉です。救いについての知識、と言ってもよいかも知れません。

 だとすれば、黙っていなければいけないどころか、大いに語られるべきことです。喜びをもって、宣べ伝えずにはおれません。ひとりでも多くの人に聞いてほしい、知ってほしい、共にその喜びに触れてほしい、そう思えることです。

 「秘められた計画」とは、わたしたち人間には計り知ることなどできない、隠された神様のご計画、神様の御心のことです。「隠された」という意味で秘されたものですが、しかしそれは、すべての人を救うための神様の不思議な計らい、計画、御心のことを意味しています。

 パウロがここで語る「秘められた計画」とは、単に秘されるべきものとしての奥義のことではなく、神様の御前で、わたしたち人間の知識、知恵の言葉が沈黙せざるをえないような、わたしたちのどんな行いや知識や知恵も何の意味も持たず、誇ることなどできない、計り知れないほどの大いなる神様の愛としての奥義のことです。

 わたしたちには知ることなどできないけれども、神様はわたしたちのことを愛してくださり、だからこそ、よくよく知っていてくださるのだということです。このことは、とって大切なことです。

 

■知られている

 教会に夜遅く電話がかかってくると、ドキッとします。それでも、受話器を取るほかありません。深呼吸して、よしっと気合を入れて取ります。気合いを入れていますから、どんな内容の電話でも大抵はたじろぐことはありません。それでも一度だけ、どうしても腹の虫が収まらなかったことがあります。夜8時過ぎ、年のころ、二十代か三十代の女性が電話の向こうで、いきなりこう切り出しました。「沖村さん?投資の話なんかに興味あります?」

 腹が立ったのは、その女性が、わたしの名前や年齢などの情報を一方的に知っていることでした。知らない人にわたしのことが「知られている」という現実は、気味悪く、腹立たしい…と興奮冷めやらぬわたしでしたが、しばらくして落ち着いてくると、ハテ待てよ、わたしは知らないのに、相手はわたしを知っている、この状況がいつも腹立たしいというわけでもない、と思い直しました。

 例えば、海で遭難して助けを求めているとします。そこに救援のヘリコプターがやってきます。わたしはそれに気づき、叫びます。しかしその声に気づくことなく、ヘリが飛び去ってしまう。このとき、わたしは相手を知っています。けれども、わたしは相手に知られていません。これは絶望的な状況です。

 あるいは、倒壊した家屋の瓦礫の中で、身動きが取れない状況だったとしましょう。暗闇の中、周囲の状況すらまったくつかめません。しかし、GPS機能の付いた携帯がわたしの手にあって、だれかにわたしの所在が正確に知らされているとします。わたしは、「必ずだれかが助けにきてくれる」と信じ、不安と孤独の中にあっても、希望を持ち続けることができるはずです。

 わたしが一方的に知られているという状況。それが投資の勧誘電話であれば、不愉快このうえもありません。しかし自分が心細く迷っているときに、助けてくれるだれかがわたしを知ってくれているとなれば、「知られている」、そのことは、かけがえのない喜びと希望の根拠へと変わります。

 パウロは、この「知られている」ことの幸いを深く味わった一人でした。パウロは繰り返し語ります。わたしたちは、神様を知って、理解してから、神様を愛するというのではない、と。神様に自分が知られているという事実によって、喜びに包まれ、神様を愛するようになるのだ、と。パウロは、わたしたちが神様を知っていることよりも、神様によって「知られている」ことを強調します。

 なぜなら、それこそが信仰だからです。信仰とは、わたしたちが神様を知る営みではありません。わたしたちが神様を知るまえに、神様がわたしたちをすでに知っておられる。わたしたちが神様を選ぶまえに、神様がすでにわたしたちを選んでくださっている。わたしたちが神様を愛するまえに、神様がすでにわたしたちを愛してくださっている。そのことに日々気づかされることです。

 神様から「きみのこと知ってるよ!」と声をかけられているという「奥義」に、驚きと安心を味わう日常こそが、「信仰」です。

 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」とエレミヤが預言したように(1:5a)、どうあがいたところで、わたしたちが神様を知ることなどできませんが、神様は、わたしたちを知っていてくださるのです。そのことに、あなたたちも気づくことができる。いや、そのことをこそ「ぜひ知って欲しい」、パウロはそう、わたしたちに語りかけているのです。

 

■神に愛されている

 その意味で、28節の「神に愛されています」という言葉は、とても大切です。

 愛されているのは、ユダヤの人々です。最初、キリストの教会を最初に迫害したのは、異邦人やローマ帝国ではなく、そのユダヤの人々でした。ローマの信徒たちも、ユダヤ人からの迫害に晒され続けていました。また同じクリスチャンでありながら、一部のユダヤ人信徒たちは、異邦人の信徒たちに割礼を受けることを要求し、そうでなければ罪穢れた者として、一緒に食事をしようとさえしませんでした。そのため、異邦人であるローマの信徒たちも、ユダヤ人に敵意を抱きました。どうしても、敵意をぬぐい去ることができないでいました。もちろん、愛について語られたイエスさまの言葉を知らないはずはありません。「敵をも愛しない」というみ言葉を聞かなかったはずもありません。しかし、彼らの心もまた頑なでした。

 そこでパウロは、32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と、逆説的な言い方で、そのような頑なさを打ち砕こうとします。

 神様は「すべての人を憐れんでくださる」お方だ、ということです。キリストを十字架につけて殺し、今もローマの信徒たちを差別し、時に迫害するユダヤの人々も、そんなユダヤ人たちを拒み続ける、頑ななローマの信徒たちも、そして罪深く、欠け多いこのわたしたちも、そればかりか信仰とは程遠いところを生きているように思われる人々さえも、決して神様に見捨てられることなく、神様の憐れみを受けている。すべての人が、神様の憐れみの中に、神様の愛の中にある、と言います。

 パウロがわたしたちに語りかけていることは、すべての人が必ず神様から憐れみを受け、愛を注がれている、そのことをはっきりと知るところに、奥義が、神様の秘められた御心、秘められた計画があるのだ、ということです。

 わたしたちは、賢しらな議論を控えて、ただ沈黙をし、この不思議な神様のなさり方に、驚きと感謝の目を向けなければなりません。

 神様の真実は、神様の愛は、イスラエルのどんな不実よりも大きく、わたしたちのどんな頑なさや不従順よりも大きいのです。ですから、わたしたちがこの世で経験し、目にしていることはすべて、つまずきに満ちた偶然や不運などではなく、神様の御心、ご計画です。低い者が高くされるのが神様の憐みの業であるとともに、高い者が低くされることも神様の憐みの業にほかなりません。今、泣いている者が笑うようになり、今、笑っている者が泣くようになることもまた、神様の愛ゆえなのです。どんな不従順や頑なさにおいても、神様の栄光が、その慈しみの勝利が輝いています。

 神様の知恵とその知識の富は、なんと深いことでしょう。それに比べて、人間の計画と判断はなんとちっぽけなものでしょうか。ですから、どのようなときにも、たとえ耐え難い苦難や死に直面するときにも、わたしたちはただ、「わたしはあなたの思いを理解することはできませんが、わたしのすべてをもって、あなたの愛に信頼します。どうかあなたの御旨がなりますように。あなたの御国がもたらされますように」と祈りたいものです。そう祈りつつ、喜びと感謝をもって、今日からの新しい週をご一緒に歩んで参りましょう。