福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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9月20日 ≪聖霊降臨節第17主日/敬老祝福家族礼拝≫ 『待ち望む人』ヘブライ人への手紙9章23~28節 沖村裕史 牧師

9月20日 ≪聖霊降臨節第17主日/敬老祝福家族礼拝≫ 『待ち望む人』ヘブライ人への手紙9章23~28節 沖村裕史 牧師

■老いることの幸せと救い
 わたしたちは、今、敬老の日を記念して、おじいさま、おばあさまを真ん中に、家族みんなで、この礼拝を守らせていただいています。
 皆さんは、年老いていくこと、死が近づいてくることをどう思われるでしょうか。だれもが年をとり、いつかは死ぬのですが、まだ若い方は、体が思うように動かなくなるし、病気になりがちだし、何といっても死ぬのは怖いし、ちょっと不安だな、嫌だな、そう思われるかもしれません。でも、年を取ることはそれほど悪いことではありません。わたしもいつの間にか年を重ね、孫たちから「じいじい」と呼ばれるようなって、年老いていくことは悪くないばかりか、実はすごいこと、素晴らしいことだと思うようになりました。
 皆さん、ご自分のこと、そして周りにおられる、おじいさまやおばあさまのことを思い浮かべてみてください。
 若いころわたしは、何でも自由に好きなことができるのが幸せだと思っていました。元気で好きな所へ行き、好きな遊びや仕事ができることを自由だと思っています。でも年を重ねてくると、どんな時にも、どんな所にいても、自分があるがままにいられることこそ、本当のしあわせ、本当の自由だと分かってきます。
 だから、おじいさまやおばあさまには、こだわりがありません。
 若いころは、人の役に立ち、評価され、ほめられることが大切だと思っています。そのため、たくさんの時間と力を注いで、人からほめられては喜び、けなされては悲しんできました。でも年老いてくると、何の役にも立たちそうもないことや、だれからも見向きもされないことにこそ、本当に大切なことが隠されているのだと分かるようになります。
 だから、おじいさまやおばあさまは、とても優しいのです。
 若いころは、真実を求め、正しいことを行うのが大切だと思っています。そのために人の間違いや過ちを見つけては、責め、不正を許そうとはしませんでした。でも年と共にいろいろなことを経験すると、誰かの真実が別の人の真理とは異なっていて、そこに誤解や争いが生まれること、不正を許さない人自身が実は不正に荷担してしまっていることだってあることが分かってきます。
 だから、おじいさまやおばあさまは、すぐに叱ったりなさいません。
 だから、おじいさまやおばあさまがいる家庭は幸せです。
 目の前のことに囚(とら)われて、気持ちがバラバラになってしまった家族にとって、何がいちばん大切なのかをよくよく知っているお年寄りこそが救いです。
 たとえば、成績が悪いこどもを親がこっぴどく叱っているときに、部屋の隅からその親に、「その子が生まれた時、おまえたちよく言ってたよねえ。『どんな子でもいい、元気に育ってくれさえずれば』なんてねえ」、ぽつりと呟(つぶや)いたりします。年老いた人は、知恵にあふれたユーモアを知っています。

■ありがとうのひと言
 そう言えば、こんなことがありました。
 ある秋の日の昼下がり。ユニバーサルジャパンに行って、ベンチで一休みしているとき、向かいのベンチでの小さな出来事を目にしました。
 おとうさんとおかあさん、小さな女の子、そしておじいちゃんの四人家族がやって来ました。疲れているのか、おかあさんは怖い顔をしています。女の子をベンチに座らせると、大きなポップコーンのカップを渡して、こう言いました。
 「いい? ママとパパはお買い物してくるから、これ食べて、ここで待っててちょうだい。どこにも行かないでね。ほら、ちゃんと持って。こぼしちゃだめよ。それじゃおじいちゃん、頼んだわよ。すぐもどるから…」
 二人が足早にそこを離れ去った後、ベンチには、不安そうな女の子と、気の弱そうなおじいちゃんの二人が残されました。ふと、嫌な予感がしました。
 小さな手で大きなカップを抱え、危なっかしくポップコーンを食べ始めた女の子は、何粒も食べないうちに、そのカップを地面に落としてしまいました。カップは音を立てて転がり、ポップコーンがあたり一面に散らばってしまいました。
 女の子のびっくりした顔!落としたカップを見つめたまま、凍りついて動けません。あかあさんに怒られると思ったのかもしれません。程なくもどってくるおかあさんの、うんざりしたような怒鳴り声が、今から聞こえてくるようです。
 ところが、傍にいたおじいちゃんは、まるで何事もなかったように、のろのろとカップを拾い上げました。と、そのとき。どこからともなく、白い制服のお姉さんがほうきとちりとりを手に現れ、あっという間に散らばったポップコーンを片づけると、にっこり笑って言いました。
 「ちょっとこちらでお待ちくださいね」
 そして、一分もたたないうちに、ポップコーンのいっぱい入ったカップを持って現れ、女の子に渡したのです。
 「はい、どうぞ」
 女の子はきょとんとした顔でそれを受け取り、おじいちゃんを見ます。おじいちゃんは、これまた実にいい笑顔で「ありがとう」とひと言。お姉さんも、笑顔で女の子に手を振ると、またどこへともなく去って行きました。
 女の子はもういちど食べ始め、程なくおとうさんとおかあさんがもどってきました。おじいちゃんがその出来事をぼそぼそと話しますが、なんだか要領を得ず、どのみちおかあさんはまともに聞こうともしません。「あら、そう」とか、適当に返事をしながら荷物をまとめて、四人は人込みの中に消えていきました。
 遊園地も客商売ですから、それくらいするのは当たり前のことと言ってしまえばそれまでです。その女の子も、すぐに小さな出来事なんか忘れてしまうでしょう。でも、世の中には困ったときに助けてくれる人がいる。人生には取り返しのつかないことなんてない。どんなにがっかりしても、きっといいことが待っているんだ。そんな望みが必ずあることを信じ切っているかのような、おじいちゃんの何とも素敵な笑顔と「ありがとう」の一言が心に残りました。
 そういえば、高齢の教会員の方を、施設や病院、ご自宅にお訪ねすると、どなたもが微笑みながら、「ありがとう」とおっしゃってくださいます。お訪ねしたこちらが、逆に元気をいただいて帰ります。

■裸になって
 「ひいおばあちゃん」と呼ばれるようになった母と食事をしながら話をしていた時のこと。母が唐突にこんな話をし始めます。
 「わたしは最近物忘れがひどくなってきたけど、それは、神様が、死ぬときが近づいている者に、持っているもの、身につけているものを、この地上に置いて、身軽になって天国に行くことができるようにしてくださっているんじゃないかね。そう思うんじゃけど、どうじゃろうね」。
 わたしは感動して、「うんうん、その通りだよ」と答えました。
 どなたもが経験されたことがおありだと思います。身につけているものを次々と脱ぎ捨てて、温泉に、ドボンと入った時の、なんとも言えない開放感、気持ちよさ、これ以上の幸せはないと思える一瞬です。立ちのぼる湯気と一緒に、悩んでいたことも、悲しかったことも消えてなくなります。
 思えば、わたしたち人間はとても奇妙な生き物です。こんなにいろんなものを身につけている動物は他にはいません。それも、立場だの、場所だの、気候だのに合わせて、とっかえひっかえしなければなりません。けっこう高いお金を払って、あれこれ揃えなければなりません。実に面倒で不自由な話です。
 だからでしょう。「裸のつきあい」っていうのは、とてもいいことに思えます。服を脱いじゃえば、先生も生徒もありません、社長も新入社員もありません。日ごろ頼りにしている成績や才能、地位や肩書を脱ぎ捨てて、だれとでも生まれたままの姿で語り合えたら、どんなに気楽でしょう。
 わたしたちは体だけでなく、心にもいろいろなものを着込んでいます。それも、見えないのをいいことに相当変なものを着込んでいます。小さいころからのこだわりを履(は)き、実際よりもよく見せようと見栄を被(かぶ)り、傷つけられるのを恐れて無関心を羽織(はお)っています。もし、それが目に見えたら、みんな呆然(ぼうぜん)とするはずです。自分たちがお互いに、あまりにもおかしな格好(かっこう)をしていることに気づいて唖然(あぜん)とするはずです。
 そう、母が言ったように、生きるってことは、脱ぐことなのかもしれません。知らずに身につけてきたものや無理に着込んできたものを一つ一つ脱ぎ捨てて、もっと楽に息をする。できれば裸がいいでしょう。生まれてきたときは、だれだってまる裸だったのです。年をとるとき、わたしたちの誰もがもう一度裸になっていきます。裸になって初めて感じる「風」があります。裸になって初めて知る「安心」があります。裸になって初めて手にする「自由」があります。裸になって初めて出会う「友」がいます。年老いて、身軽なって行くおじいさま、おばあさまは、まさに人生の達人です。そうは思われませんか。

■終わりという希望
 レオナルド・ダ・ピンチという人が、「十分に終わりのことを考えよ、まず最初に終わりのことを考えよ」と言ったそうです。
 わたくしたちは、終わりのことは出来るだけ考えないようにして生きています。しかし、何にでも終わりがあります。一生懸命している仕事にも定年退職というものがあって、「ご苦労さまでした。明日からは他の者にやらせますので……」と言われる時が来ます。体力にものを言わせて一生懸命にやっていても、若さや健康にも終わりがやってきます。富も美しさも知恵も、すべて終わりの時がやってきて、なくなってしまいます。
 難波紘一さんという人は、筋ジストロフィーという難病にかかって、一時は悩み、苦しまれましたが、そこから、『この生命(いのち)燃えつきるまで』というご自身の本の題名通り、いのち尽きるまで病む人や苦しむ人を励まし続け、休日はすべて伝道のために献げ、わたしなどいくら頑張っても足元にも及ばないような働きをして、この世を去って逝かれました。
 ある友人は妻の死を通して、自分の人生を問い直して、大企業のエリートのポストをすてて神学校にゆき、牧師になりました。自分の先が見えた時、人は、より意味のある人生を生きたいと願うのではないかと思わされました。
 「有終の美」という言葉は、物事を最後まで立派になしとげるという意味ですが、漢字の通りに「終わりが有ることの美しさ」と読んでみると、ハッと気づかされるものがあります。死ぬということがあるから、生きている今に価値が感じられる。老いるということがあるから、今の日々が大切になる。別れる時が来るから、一緒にいる今を大切にしたい。すべてに終わりがあるから、すべてがいとおしくなってくる。そう、気づかされることがあります。
 今日のみ言葉の最後27節から28節にこう記されています。
 「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」
 イエスさまが、ご自分を待ち望む人々に二度目に現れるとき、それはもう一度、わたしたちの罪を負ってくださるためではありません。罪は、イエスさまが最初に来られたとき、もうすっかり赦されました。イエスさまが二度目においでになるとき、つまり終わりの時に、イエスさまを待ち望むわたしたちにもたらされるのは、裁きではなく、永遠の救いであると、今日の御言葉はわたしたちに告げています。だから、弱ったり、疲れたりしても、忍耐と信仰をもって人生を最後まで歩み抜こう! この手紙は、そんな希望の励ましをもって語りかけています。
 ここに集められたわたしたちは、老いた者も若い者もみな、神の家族として一つとなり、イエス・キリストがわたしたち一人ひとりのもとに再びやって来られる終わりの時に、わたしたちへの救いの恵みが満ちあふれるほどのものとなるという希望につながれています。そのような希望を持って、イエスさまが再びやって来られるのを、喜びを持って心から待ち望む者となりたい、そう願います。

お祈りします。いのちの主よ。高齢の方々の働きと経験、様々な知恵と配慮が、わたしたちの知るところ、知らないところで、わたしたちを守り、それぞれの家族を、この教会を支えてきたことを覚え、感謝いたします。どうぞ、わたしたちの愛する高齢の方、お一人ひとりを顧みてください。そして、あなたから与えられる祝福の中で、いつも喜びと希望をもって生きることができるようにしてください。主の御名によって。アーメン