福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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9月27日 ≪聖霊降臨節第18主日礼拝≫ 『平和を告げる者となりなさい』マタイによる福音書10章5~15節 沖村裕史 牧師

9月27日 ≪聖霊降臨節第18主日礼拝≫ 『平和を告げる者となりなさい』マタイによる福音書10章5~15節 沖村裕史 牧師

■失われた羊
 5節から6節、「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」
 この言葉に、戸惑いを覚えます。当時、ユダヤの人々が、自分たちのことを神に選ばれた民―選民と見做(みな)し、一方、異邦人やサマリアの人々を見下し、罪人と蔑(さげす)んでいたことはよく知られるところです。
 イエスさままでもが、そうだったのでしょうか。
 ルカによる福音書9章51節以下に、「サマリア人から歓迎されない」という見出しが付けられた記事があります。エルサレムへの途上、イエスさま一行がサマリアの村に差し掛かったときのことです。「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」とあります。そのサマリア人に、ヤコブとヨハネは敵意を敵意で返します。
 「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」
 ヤコブとヨハネは、直前に語られたイエスさまの言葉を誤解しています。
 「反対しない者は味方である」と主は言われたではないか。ところが、サマリアの人々は、わたしたちの歩みに逆らっている。エルサレムに行くことに反対している。つまり味方ではない、敵だ。怒りを含んで二人は、「こんなやつらは滅ぼしてしまいましょうか」と言うのです。神の力、神の名をもって滅ぼしてしまいましょう。あなたはそういう神の力を持っておられるはずです。「邪魔者は消せ」ということです。
 しかし、「イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った」とあります。歓迎されないのなら、そこを避けて通ればいい。そのようにして、イエスさまはただ、ご自分のめざす道を、十字架への道をひたすらに歩き続けられるのです。なぜなのでしょうか。
 ホセア書11章9節の言葉が思い起こされます。
 「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」
 ホセアに記された神の言葉は、わたしは人間ではない。神だ。だから殺さない。人間ではない。神だ。だから滅ぼさない、そう語ります。どんなに正当だと思っても、自分の正義の怒りの激しさに酔うようなことはしない。わたしは神であって、人ではない。だから、どうしてもあなたを捨てることができない。どうしてもあなたを滅ぼすことなどできない、そう言われるのです。
 この神の言葉ゆえに、イエスさまは人の手に渡され、十字架につけられました。驚くべくことですが、それがイエスさまの歩みでした。そのイエスさまの歩みの中で、弟子たちの無知、無理解が、神の恵み、神の愛への理解へと変えられていきます。十字架を、喜びをもって深く知ることのできる者へと変えられていくことになるのです。
 とすれば、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」というこの言葉も、民族主義的、排他的なものではなく、「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあるように、ユダヤの社会の中で、律法学者やファリサイ派の人たちの偽善によって、また律法の束縛の中で、切り捨てられ、傷つけられ、苦しんでいるユダヤの人々への「愛」の言葉として受け止めなければなりません。
 まさに「失われた羊」とは、直前にあった「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々のことです。厳しい律法によって、切り捨てられ、差別され、尊厳を奪われた人々のことです。病人たち、とりわけ重い皮膚病を患う人、貧しさゆえに一定の捧げものを神殿で捧げることのできない人、羊飼いや徴税人など汚れた職業に就く人、すべて罪人という烙印を押された人たちのことです。
 イエスさまは、今、イスラエルの、そのような人々のところに行きなさい、と弟子たちに言われるのです。行って、その人々の苦しみと悲しみを共に担いなさい、共に歩みなさいと言われるのです。

■平和の挨拶
 そうするために、弟子たちは何を、どうすればよいのか。イエスさまは、実に具体的に丁寧に教えられます。11節から13節、
 「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」
 ここに語られる「ふさわしい人」とは、もちろん「イスラエルの家の失われた羊」と譬(たと)えられている人々のことです。「イスラエルの家」から「ふさわしくない」と切り捨てられ、そこにいてもいないかのように扱われて苦しんでいる、まさに「失われた」人たちこそ、むしろ「ふさわしい人」なのです。その人たちに眼を向け、その人たちを見出し、その人たちのところ・家に行き、そこにとどまって、共に暮らしなさい。 そして何よりも、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」とイエスさまは教えられます。
 その人たちに、その家に平和がないからこそ、病ゆえに貧しさゆえに体の不自由さゆえに愛する者の死ゆえに「弱り果て、打ちひしがれている」からこそ、そこに行って、平和の挨拶、平和を告げることを求められるのです。
 では、イエスさまが求めておられる「平和の挨拶」とは、一体、どういうものなのでしょうか。それは、何を意味するのでしょうか。
 ここに「『平和があるように』と挨拶しなさい」とありますが、実は原文に「平和があるように」という言葉はありません。ただ、「その家に入ったら、挨拶をしなさい」となっています。
 この「挨拶をする」のもともとの意味は、「抱擁する」、互いに抱き合うことです。海外でよく見かける挨拶の姿ですが、この言葉には「しっかりと抱き合う」というニュアンスがあります。ただ、抱擁して挨拶を交わし合うというのではありません。ニュアンスのままに訳せば、「その家に入ったら、その家の人たちを抱き締めなさい、挨拶のために、心をこめて抱き締めなさい」です。しっかりと抱き締めながら、挨拶を交わすのです。
 その時交わされる挨拶の言葉は、今もユダヤ人たちが交わす、「シャーローム」であったでしょう。「あなたに平和がありますように」という意味の言葉です。日常の挨拶です。顔を合わせれば、「シャーローム」です。とすれば、「その家に入ったら、その家の人たちに『こんにちは』と言いなさい」、そう訳してもよいかもしれません。「抱き締めて」と言っても、これも、当時の人たちが誰でもやっていたことですから、特別なことではないと言えるのかも知れません。
 しかし、ここで思い出していただきたいのは、抱き締めて挨拶を交わす人たちが、どのような人たちであったのか、ということです。それは、「失われた羊」、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々です。律法学者やファリサイ派の人たちだけでなく、大半のユダヤの人々から、罪人、穢れた者として、触れることさえ禁じられていた人たちです。そのような人たちに、触れるどころじゃない、しっかりと抱き締めて、「平和があるように」と挨拶を交わしなさい、イエスさまはそう言われるのです。
 あり得ないことです。平和を祈るその挨拶は、日常の挨拶以上のものです。
 そのことが13節に、はっきりと示されます。
 「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」
 ここでも「願う」という言葉は原文にありません。「あなたがたの平和」とあるだけです。「あなたがたが告げる平和」、「あなたがたが贈る平和」と言ってもよいでしょう。直訳すれば、「あなたがたの平和が彼らの上にやって来る(もたらされる)」です。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたのところに戻って来る、と言われます。
 現実に、その家に平和がもたらされる。どこかの町、また村に入ったら、まず家を見つけて、訪ねて、その家に入り、抱き締めて挨拶を交わす。そこに、平和がもたらされる、と言われるのです。そしてそれこそが、イエスさまのお命じになる福音伝道の業なのです。
 それは、すでに7節で、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と、イエスさまがお命じになっておられることでもあります。「天国が近づいた」、「神の国が近づいた」と告げることです。「神の支配がもう近づいている」、「神の愛の御手が今ここにもたらされている」と宣言することです。
 平和は、神が支配しておられる、そこにもたらされるものでした。

■ただで
 ここで注意すべきは、平和をもたらすのは弟子たちではない、ということです。前回申し上げたように、十二人の弟子たちはみな、欠け多く、ひび割れた「土の器」でしかありません。彼らもまた「飼い主のいない羊のような弱り果て、打ちひしがれた」人たちです。しかしその彼らが、自らの弱さ、欠けのままに選ばれ、捉えられたがゆえに、弱く打ちひしがれている「失われた羊」たちのところへと遣わされるのです。
 その弟子たちが、人々の所に出かけて行き、抱き締めて挨拶を交わそうとしたとき、いつもそのことが受け入れられはしなかったでしょう。それを拒む人たちが少なからずいたに違いありません。なぜなら、弟子たち自身が罪人と見做されるような者たちだったからです。
 そんな弟子たちにイエスさまは、こう声を掛けられます。
 「足の埃を払い落としなさい」
 「裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」
 裁きは神にある、神が裁かれるのだから、神を拒む者をヤコブやヨハネのように裁いてはならない、神に委ねなさい、ということです。つまり、裁きや呪いではなく、平和をこそ告げる者として歩むように、と弟子たちを励ます言葉です。
 いえ、何よりの励まし、支えは、続く8節の言葉ではなかったでしょうか。
 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
 「ただで」と訳されている言葉は、「理由なしに」「値なしに」「賜物として」という意味の言葉です。「ただ」とは、代価を払わないことですから、相手の好意によって受ける、賜物として受けるということです。 弟子たちに伝道する力があったというのではありません。何もしない、何も持たない弟子たちに、ただ一方的にイエスさまが「平和」を委ねられたのです。弟子たちが平和をつくり出すのではありません。弟子たちは、賜物として与えられた平和を、右から左に、ただ手渡していくだけのことです。だから、「ただで与えられたものを、自分のものだとせず、惜しまないで人に与える者になりなさい」と言われるのです。
 上智大学教授であった山本譲治神父がこんな話をしています。
 ある日、礼拝でカナの婚宴の話をし、「宴のさなか、なくてはならないお酒がなくなり絶望的な状況になり、披露宴は台なしになるところでした。しかし奇跡はそのときに起こりました。その水はぶどう酒に変わったのです。再び歓喜の声に変わったのです」と語り、救い主が共におられることを新たに感じ、希望と信頼の中にミサは終わりました。
 ミサの後、教会の前で、ある一人のご婦人が山本神父に、子どもが脳腫瘍のため瀕死の状態にあるというのです。それも病気の進行をただ見守るしかないという状況まできている、というのです。
 聞くうちに神父の心は暗くなってきました。本当に絶望的なことは何もないと、つい数分前にいったばかりです。この子の命のために、何か奇跡的な力が欲しい。でもそれがないのです。何とかして救ってやりたいが、何もできない。何も言えない沈黙の重荷を神父はひしひしと感じました。
 そのとき神父は、巡礼にいったある人がお土産にくれた、ルルドの水の入ったびんが机の中にあるのを思いだし、この小さなビンをこのご婦人に手渡し、「この水は薬ではありません。奇跡を呼ぶおまじないとしてこれを差し上げるのでもありません。わたしたち人間が限界にぶちあたったとき、わたしたちにできることは、神の前に、ありのままの姿を広げ、神の力に委ねるいがいにはありません。この世でそのような信仰と希望が生き生きと証しされているのが、この水の汲まれたルルドです。あそこに行く人のような心で、この水をその少年にあげてください。もし神が望まれるなら、わたしたちには分からない方法で治してくださるでしょう。もし治らないとするならば、そのときはこの悲劇の意味をそれなりに悟らせてくださるように、そしてそれに耐える力を与えてくださるように、この水をお使いください」と、そのように言いました。
 山本神父のミサでの言葉は力あふれるものでした。しかし、この婦人の前では弱く、小さな存在で、ただ神父にできたことは、この婦人の願いを神に委ねるということだけだったのです。
 弟子たちも同じではなかったでしょうか。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで、福音を告げ知らせ、病人をいやした」とルカによる福音書には記されていますが、イエスさまがいない海の上では暴風に怖じ惑い、連れてこられた癲(てん)癇(かん)の子を癒すこともできず、その不信仰をイエスさまに叱られています。弟子たちにできたことは、まさに、ただで受けたのだから、ただで与えるだけのことで、それ以上ではありませんでした。無償で与えられ、受け取った福音を、平和の挨拶を、その救いの知らせを、右から左に、手渡していくだけのことでした。山本神父と同じことしかできなかったのです。
 弟子たちは、これから後、時として自分に過信していく姿、自分の力に頼る姿を、何度何度も露わにします。その結果、イエスさまを十字架につけることになってしまいます。それでも大切なことは、イエスさまが、この欠け多い、ついには裏切ることになる弟子たちをこそ、平和の使者として送り出してくださっているということです。
 同じように、すぐに裏切り、すぐに崩れる、不安と怖れの中に神の姿を見失ってしまうわたしたちです。そんなわたしたちを、どんなに大きく、深い愛によって、イエスさまが平和の内に包んでくださっていることでしょうか。
 だからこそ、わたしたちも、弟子たちのように、平和の福音を告げ知らされ、救われた者として、平和の中に苦しみと悲しみの中にある人々に目を向け、抱き締め、神の愛を、神の平和を告げ知らせる者でありたい。イエスさまから愛されているという喜びを共に分かち合いたい、そう願わずにはおれません。愛は、そして何よりも平和は、わたしたちが作るのではなく、神が作り、それをわたしたちは与えられ、委ねられているのですから。

お祈りをいたします。平和の主よ。あなたの御子がわたしたちの中にあり、わたしたちを抱き締め、あなたの平和をもたらしていてくださっていることに感謝したします。悩み多き者たちが集まっています。平和を失って、苦しんでいる者たちが集まっています。あなたの祝福を与えてください。わたしたちを、この地上にあって、平和を造り出す者として、立たせてくださいますように。主のみ名によって。アーメン